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<Wコラム>朝鮮王朝おもしろ人物列伝(12代王・仁宗編)~毒殺された可能性のある王

Wow!Korea / 2016年8月22日 21時50分

中宗が世を去った昌慶宮の歓慶殿。ここで仁宗は自分の身体を悪くするくらいに中宗を看病した(写真提供:ロコレ)

仁宗(インジョン)は、27人の王の中でもっとも親孝行した立派な人物なのだが、性格はかなりのお人好しだ。しかし、その性格を利用されて、彼は自分の命を危険にさらしてしまう。

■親のために死を選ぶ覚悟

1515年、ホは、11代王・中宗(チュンジョン)と二番目の正室である章敬(チャンギョン)王后の間に生まれた。しかし、章敬王后が出産から6日後に亡くなってしまったため、彼は三番目の正室である文定(ムンジョン)王后に育てられた。

その文定王后が、1534年に息子の慶源大君(キョンウォンデグン)を産んだ。彼女は「自分の子を王にしたい」と思ったが、前妻の子で世子(セジャ)に指名されていたホがいたため、それは難しかった。それでも文定王后は諦めず、世子を亡き者にしようとして、峼が妻と休んでいた宮殿に火を放った。

異常な熱気を感じたホは、火事に気付いて妻に先に逃げるように言うと、宮殿の中で座った。その火事が文定王后の起こしたものだと見抜いていた彼は、自分の死を望む親のためにと、自ら死を選んだ。

ホの妻は、そんな夫の行動に驚きを隠せなかった。さらに、妻は「夫を見捨てて逃げるわけにはいかない」と思い、一緒に宮殿の中に残った。しかし、夫婦は宮殿が崩れ落ちる前に助け出されたため、文定王后の策は失敗に終わる。

■仁宗として即位したホ

1544年、ホは病気になった父親の中宗を必死に看病するが、その甲斐もなく中宗は世を去ってしまう。父親の死を深く悲しんだ峼は、それから5日間は飲み物を飲まなかった。それが噂として広まると、人々は彼をとても親孝行な息子だと讃えた。

その一方で、側近たちは「このままでは、いつか倒れてしまう」と心配した。実際に少しずつ体調を崩していったホは、12代王・仁宗として即位しても、体調が悪いままだった。

その原因が看病疲れであることは、誰の目から見ても明らかだった。それでも、仁宗は父親の死は自分の責任だと、自らを責め続けた。周りの者たちは王の心配をしていた。

しかし、自分の息子を王にすることだけを考えていた文定王后は、仁宗に対して冷たい態度を取った。最初の火事で仁宗の殺害に失敗していた彼女は、王を毒殺することを考えていたと思われる。

朝鮮王朝27人の王の中には、毒殺された可能性のある王が何人かいるが、仁宗もその1人である。彼が亡くなったときの出来事を見てみよう。

■仁宗毒殺疑惑

1545年、仁宗は、文定王后から祭祀(チェサ)の後に自分のところに来るように言われる。それに応じた彼を、体調のことを心配した臣下たちが止めようとするが、仁宗は息子としてどうしても行かなければならないと思っていた。

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