徳川家康 徳川将軍家に関するニュース

【挑戦!お江戸クイズ】神田祭と山王祭が「天下祭り」と称された理由とは?(ほか全5問)

サライ.jp / 2017年02月08日19時00分

その理由は何でしょう?(い)将軍が江戸城内で祭礼行列を上覧したから(ろ)将軍家が祭礼の費用を全額負担したから(は)天下の中心・江戸で、もっとも華やかな祭礼だから(に)天下に並びない由緒ある神社の祭礼だから【クイズ4】徳川家康を祀り、極彩色の絢爛豪華な彫刻で知られる日光東照宮の門は、一般に何と呼ばれているでしょう?(い)大手門(ろ)南大門(は)桜田門(に)陽 [全文を読む]

江戸の「ガーデニング」は世界一! 時代小説から見る、花のお江戸の百花繚乱

ダ・ヴィンチニュース / 2013年07月31日11時30分

関連情報を含む記事はこちら 関が原の戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた1603年から大政奉還をした1868年までの265年間は、大きな戦乱もなく太平の世であった。平和になると文化が発達するのは世の常で、江戸では花卉園芸が発達して新品種が開発され、人々の目を楽しませていたそうだ。徳川家康を始めとする徳川将軍家も花好きの人が多く [全文を読む]

危機に直面する「家康の甲冑」修復費用をクラウドファンディングで

しらべぇ / 2016年11月14日10時00分

(画像はブースターのスクリーンショット)徳川家康が着ていた甲冑が、静岡県静岡市の久能山東照宮にある。そのひとつが「白檀塗具足」。金箔を貼った上で漆のコーティングを施すという、まさに芸術作品のような甲冑である。ところが、我が国の至宝ともいうべきこの甲冑が危機に瀕しているのだ。■歴代将軍の甲冑がここに久能山東照宮は、徳川将軍家の繁栄を現代人に伝える博物館として [全文を読む]

四百年式年大祭の日光東照宮へ!秋の祭典が斎行

Walkerplus / 2015年10月14日22時41分

徳川家康公の神霊を、駿府久能山から日光へ改葬した当時の行列を再現した行事だ。槍持ちや鎧武者などに扮した大勢の行列が、家康公の神輿(みこし)とともに東照宮を進発し、表参道を通って御旅所(おたびしょ)へと向かう。 御旅所は、神輿などが通る際の休憩地点で、ここで三品立七五膳、八乙女の舞、東遊の舞といった祭典が行われた後、再び表参道を通り東照宮へと戻る。 また、1 [全文を読む]

NHK大河「おんな城主」が男だけじゃないギョーテン新説!(2)家康vs三成の暗殺勝負!

アサ芸プラス / 2017年01月22日17時54分

西軍を裏切る、と約束していたにもかかわらず、戦が始まってもその動きを見せない小早川秀秋に対して、東軍の総大将・徳川家康が小早川軍の陣に向かって鉄砲を撃ち、決断を迫ったというものである。この「問鉄砲」が本当はなかったという説があるのだ。「関ヶ原に関する一次史料(同時代に記された史料)には『問鉄砲』の記述はありません。『問鉄砲』を命じた家康の判断が勝利をもたら [全文を読む]

歴史考察の鍵を握る英雄たちの「身長」 犬公方は小人だった?

しらべぇ / 2016年12月03日21時00分

また、彼の息子の秀頼が並程度の身長だったなら、徳川家康は急いで豊臣家を潰しにかからなかった可能性もある。歴史は、様々な視点からあらゆる考察ができるのだ。・合わせて読みたい→榮倉奈々・賀来賢人が結婚! 平均身長174cmのビッグカップル誕生(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一) [全文を読む]

観光客の少ない今が狙い目!梅の名所をめぐる京都「おとなの旅」

まぐまぐニュース! / 2016年02月14日00時00分

二条城は1603年、徳川家康が京都御所の守護として、又上洛時の宿泊所として造営されました。江戸時代、幕末まで徳川将軍家の栄枯盛衰を見守った二条城には城内全体で約130本の梅があります。そのほとんどが城内南西部の梅林に植えられています。 二条城に関しては以前メルマガ、「ズレて造られた二条城」でもご紹介しているので是非ご覧になってみて下さい。 ● 京都の謎。 [全文を読む]

京都の謎。二条城はなぜ東に3度傾いて造られたのか?

まぐまぐニュース! / 2015年09月29日05時00分

二条城は、徳川家康が権力にものを言わせ、1602年に各地の諸大名を総動員して築城されました。幕府の御用絵師集団の狩野派が絵を描き、当時を代表する作庭家小堀遠州が庭を造り、諸大名に各地の名石を献上させた完璧な城です。 しかし二条城はなぜか南北に走る路に対して軸が約3度東に傾いています。その様子は、地図を見るとハッキリと分かります。 二条城が建てられる700 [全文を読む]

妹夫婦宅に居候、和尚と酒を酌み交わす…、「実にいきいき」幕末の名もなき武士の生活

ダ・ヴィンチニュース / 2015年05月09日11時30分

藩主は奥平松平家で、家系を遡ると家祖は徳川家康の長女・亀姫を母に持ち、自信も家康の養子として育てられた松平忠明。つまり、忍藩は徳川将軍家の血を引く由緒正しき親藩のひとつだった。尾崎石城は、そんな忍藩の下級藩士として、その日々の暮らしを絵日記にとどめている。ただ、下級藩士と言ってもかつては100石の中級武士だったが、上書をして藩の重役の怒りに触れて十人扶持の [全文を読む]

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