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「真珠湾攻撃」80年〝だまし討ち〟の汚名避ける方法はあった

Japan In-depth / 2021年12月6日 18時0分

覚書遅延に関する著作は数多くあるが、この疑問に答えてくれた解説はみられないようだ。





■タイプ清書に手間取り、通告遅れる





野村吉三郎、応援の来栖三郎両大使によるハル米国務長官へ打ち切り覚書が手渡されたのは、真珠湾攻撃が始まった約1時間後だった。





不手際というにはあまりに深刻、「だまし討ち」の汚名を長く着せられることになったこの重大問題をめぐっては、ワシントンの日本大使館に責任を帰する論陣が少なくない。





その急先鋒は、当時の東郷茂徳外相(極東軍事裁判で禁固刑を宣告され服役中死去)だろう。









▲写真 東郷茂徳氏(1882年12月10日〜1950年7月23日) 出典:国立国会図書館ウェブサイト(出典:東郷茂徳、1952『時代の一面 : 大戦外交の手記 東郷茂徳遺稿』改造社)





生前、巣鴨拘置所で著した回想録「時代の一面」によると、覚書は14部に分けて、13部までは攻撃前日のワシントンン時間6日朝に送信。しかし、大使館はそれをタイプせずに放置、7日朝から作業にかかったが、完了前に最後の14部と、全文を午後1時(攻撃開始の30分前)にハル国務長官に手渡せという指示電報が来て、大騒ぎとなった。





機密保持のために現地雇用のタイピストに打たせることは東京から禁じられていたため、やや心得のある一等書記官が一人で清書に取り組んでいたが、いかんせん素人の悲しさ、打ち間違いが続出して、ついに指定時間より遅れてしまった。





東郷氏は、前日に届いた分をタイプしておかなかった怠慢が遅延につながったとして「これほど規律のない状態に置いたのか不可解だ」と厳しい言葉を連ねている。





戦後の昭和21年になって外務省が、遅延問題を調査した際の大野勝巳総務課長(当時、のち駐英大使)の「総括意見」も大使館に責任ありとする点では東郷説とほぼ同様の内容だ。 





■手書き文書提出なら遅延避けられた





これに対して、当時日本大使館に、若手官補として勤務していた藤山楢一氏(戦後駐英大使)の回想は興味深い。





藤山氏によると、6日までに到着した分をタイプせずに置いたのは「結論部分がわからないので、出たとこ勝負でタイプするより最後の14本目を読んでから打とう」ということになったという(「一青年外交官の太平洋戦争」)。出先の判断としては、理解できなくもない。





それにもまして興味深いのは、実際にタイプライターと格闘した奥村勝蔵一等書記官自身の証言だ。「少なからずミスタイプがあったが、手書きで修正した。そんなことにかまっていられなかった」(昭和21年の調査に対する回答)と明らかにしている。





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