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学歴は自分が輝いていた頃へのノスタルジーである

プレジデントオンライン / 2014年11月25日 8時45分

黒岩正一・ヘルメス社長。一橋大学社会学部卒、一橋大学大学院商学研究科修了。

■一橋大を25歳で卒業し、大手証券へ

「同じ時期に入社した東大卒の社員がよく話していました。『俺たちは高偏差値大学に入ったのに、なぜ、入学難易度の低い大学出身者と同じ大卒扱いなの?』って。『お前なあ、それは露骨過ぎるだろう』とたしなめつつも、『どの大学を卒業しても同じ新卒者扱いでは、大学受験のときに猛烈に勉強をした意味がないな』と、当時は彼の発言に心の中では素直にうなずいていました。だけど、その後、この考えを大きく変えることになっていくのです。」

全国で講演やセミナー、研修などの講師業や執筆活動を展開する黒岩正一(52歳、筆名クロイワ正一、以下クロイワ)さんが、1988年4月に日興證券(現SMBC日興証券)に入社し、営業を始めた頃を振り返る。その年の3月、一橋大学社会学部を卒業した。「1浪2留」で、25歳だった。

現在は、高校、大学、官民や病院での教育支援を行う会社・ヘルメスの代表取締役を務める。有名大学受験予備校で、英語や小論文も教える。

就職活動をしていた頃、日興證券から内定を得た後、人事部から連絡が入る。JR飯田橋の駅に来るように言われた。就職活動の解禁日だった。

当時、よく行われていた「内定者の拘束」である。解禁日に、内定を与えておいた学生がほかの会社の試験を受けることができないようにするために、人事部が旅行に誘うことが横行していた。特に将来の幹部候補の学生らがターゲットになっていた。

クロイワさんが駅に着くと、東大と一橋の学生が10人ほどいた。ほかの大学の内定者はいない。貸し切りのバスに乗った。向かったのは、日光市(栃木県)。東大の学生らと、「自分たちは選ばれし学生」とたたえ合ったという。

入社すると、さっそく配属が決まる。全国の支店には、主に私立大学を卒業した人たちが配属されたようだ。新入社員だったクロイワさんの目には、出身大学により、明らかに差を設けていると映ったという。

「早稲田や慶應出身の新入社員は、数が多い。本店に残る場合は、営業部やシステム部などが多かったと思います。特に早稲田出身者は、営業志向が強く虎視眈々と出世を狙う新人が多いようにみえました。

東大や一橋出身者は、調査部や債券などを扱う部署が多かったですね。支店に配属される者は非常に少ない。同期入社は2大学あわせて15人ほどいて、支店配属は2人。そのうちの1人が私……(苦笑)。早稲田や慶應出身者は、支店で営業をする人も多かったように感じました。辞めていく人も多いですね」

■入社早々に「日興如水会」に呼ばれた

クロイワさんは人事部を希望したが、新宿支店で営業をすることになった。"学閥"は確実に存在した、と明かす。

「入社早々、一橋出身者が集まる会合である日興如水会という企業内同窓会に呼ばれました。役員や部長などが並び、社員が数十人いました。

司会をする、入社5年目ぐらいの社員が、『今年は支店で営業をする新入社員がいます。クロイワ君です! なんと、一橋出身者では2年ぶりとなります!』と紹介するのです(苦笑)。どうやら、支店で営業をすることがそのくらいに珍しいことだったようです。この学閥が、一橋出身者を役員会などに送り込む働きをしているようにみえました」

新宿支店に配属された半年後、退職をした。「課長などからの指示を受けた銘柄を売る日々でしたが、もっとクリエイティブな仕事をしたいと思ったのです。もともと、企画などを考えることが好きでしたから」

転職したのは、社員が20人ほどの広告代理店。ここには、日興證券に同期で入った東大卒の社員がいた。この男性がいち早く辞めた後、転職し、クロイワさんを誘った。

「私にはもう、会社のブランドや学閥、学歴に頼る考えがなかったのです。自分の力で人生を切り拓いてやる、といった思いがとても強かったですね」

クロイワさんは、中小企業の経営者に電話を入れ、テレアポセールスを始めた。狙う中小企業は徹底して調べ上げ、リストアップした。

「新卒採用や社員研修のお手伝いをいたします」と切り出すと、意外なほどに面談の場を設けてくれたのだという。月に1000万円ほどの売上を転職1年目から記録した。

新卒採用や内定者の研修などをするにあたり、クロイワさんが講師になる。その採用方法や研修は、日興証證券のとき、受けたものをバージョンアップさせたものだった。

猛烈なテレアポセールスを一緒にしていたのが、日興證券同期の東大卒の社員だった。東大・一橋のコンビでテレアポを続けることに楽しさを感じる日々だったと振り返る。

「この時点で学歴のことは、意識から消えています。自分が考えた研修などを売り込み、おもしろいくらいに契約が取れましたから」

■今後のネタを仕入れるため大学院に進学

その後、東大卒の社員と、1歳上の社員(青山学院大卒)と3人で広告代理店を興すことにした。辞めるときは、3人が4カ月ごとの期間を置いて、辞表を出した。お世話になった社長を刺激しないためだ。

1990年に知人である商社の社長から出資を受け、赤坂のワンルームマンションで設立した。3人でスタートし、部下はいない。社長になったクロイワさんは得意のテレアポで、契約を受注し続けた。業績を急上昇させ、2年目には原宿の「一等地」にオフィスを移転した。

「東大君は相変わらず、いい仕事をしていたし、1つ上の先輩も根性持ちで、大きな契約を受注していました。2人は、大物でしたね。だけど、3人が進んでいく方向が違うようになってきたのです。それで、私は離れました」

1994年、1人で創業したのが、ヘルメスだった。当初は、手元にさしたる資金がない。早いうちに現金として受け取ることができるサービスをしようとした。

思いついたのが、パソコンの指導。多くの会社にパソコンが急速に浸透し始めた頃だった。5社ほどから契約を受注できたが、安定した収入源がない。

そこで、95年からは大学受験予備校で英語を教え始めた。証券会社や広告代理店の営業で身に付けた「笑いを誘うトーク」で受験生から人気を得る。指導者がほとんどいなかった小論文講座も担当し、早いうちに、週20コマほどを教えるようになる。1コマ(90分)の講師料は、2万5千円。年収はほかの仕事の収入を含めると、1000万円を軽く超えた。

2001年、39歳のとき、予備校のコマ数を大幅に減らし、母校・一橋大学の大学院(商学研究科経営学修士コース)に進学する。

「英語や小論文を教えることに喜びを感じていましたが、今後のネタを仕入れたいと思ったのです。そうでないと、先細りしかねないと感じました。大学院では、十分すぎるほどの効果がありましたね」

03年に修了し、04年にキャリア・コンサルタントの資格をとる。新入社員や管理職の研修のプランを練り、講演を主催する会社に登録すると、会社や経済団体、役所、病院などから講演、セミナー、研修の依頼が相次ぐ。会場では、証券会社や予備校講師で培った「笑いを誘うトーク」がヒットする。

■知識詰め込み教育では人材は育たない

今も予備校などで英語と小論文の講師を務めるが、中学や高校で行われている「知識詰め込み教育」には疑問を投げかける。

「大学受験の一般入試を突破しようと、世界史などの、重箱の隅をつつくような細かい知識を必死に覚えますね。あれは、頭の中にゴミを入れるようなもの。その意味では、AO入試や推薦入試のほうがはるかに頭のいい学生を受け入れることができますよ。今、世の中が激しく動いています。従来までの知識詰め込み教育では、社会人になった後、太刀打ちできないでしょう」

同世代で、大企業に勤務する会社員の中に、支店長や本店の部長、役員などが現れているようだ。

「私が接していると彼らは、輝いていない。疲れ切っている感じです。知識詰め込み教育を受けてきた世代であり、そこでのエリート。覚えて、点数を取ることは得意だけど、自分でアクションを起こし、成功を勝ち取る意欲に乏しい。会社や社会に飼いならされすぎているのでしょうね。まさに当時(1970~90年代)の教育で重視された高学歴の悪弊ですよ。

彼らに限らず、この世代でゆきづまった人が、数十年前の大学や大学受験の頃を語るのは、今の自分が輝いていないからでしょう。輝いていた頃へのノスタルジーなのではないでしょうか。月日が流れ、今や学歴の意味がガラッと変わっていることを肌で感じるべきですね」

(人事ジャーナリスト 吉田 典史)

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