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橋下徹前代表は今すぐにでも政治家として復活してほしい

プレジデントオンライン / 2016年2月5日 13時45分

馬場伸幸氏(おおさか維新の会幹事長・衆議院議員)

■橋下さんは非常に思いやりのある優しい人

【塩田潮】橋下徹・前大阪市長は2015年12月に市長の座を降り、おおさか維新の会の代表も辞任しました。これから先、政治や政党とはどう関わっていくと見ていますか。

【馬場伸幸・おおさか維新の党幹事長(衆議院議員)】おおさか維新とは、今後は政策法律顧問の形で関わっていくと思います。ただ50年か 100年に1回出てくるかどうかという天才政治家で、僕らも彼の考えを 100%、斟酌するのは難しい。ここまで8年間、政界で走り続けてきたのだから、一度休ませてあげたいと個人的には思います。充電期間を取ってリフレッシュし、再登場という流れが一番いいと思うんです。どうするのか、本人に何度聞いても明確に答えません。いつも笑ってごまかされる(笑)。

【塩田】家庭の事情や本人の体調、経済的な問題などが影響している可能性は。

【馬場】体調は万全だと思います。子供は7人いますが、接触する時間がほしいのかもしれません。経済的な問題はないでしょう。誕生日の6月に後援会でパーティを開きますが、いつもパーティ券が飛ぶように売れているそうです。資金の心配はないと思います。

【塩田】おおさか維新のみなさんは、これからの橋下さんに何を期待していますか。

【馬場】それは今すぐにでも政治家として復活してほしいです。

【塩田】身近に接して、橋下さんは政治家として、人間としてどう映りますか。

【馬場】年下の人間で、こいつには勝てない、と私が思ったのは、今でも彼1人です。メディアの前に出たときの姿は仮の姿で、演じている部分はありますが、実際は非常に思いやりのある優しい人間です。ただ、後ろからしっぽを踏むと、うわーっとなる。

ですが、われわれに対する発言も変わってきました。最初の頃は若い地方議員に「葬式なんか行くな。盆踊りやイベントに出かける議員は最低」と言っていたけど、最近は「できるだけ地域の行事に顔を出すように」と言う。もともとの素の部分が出てきたのでは。

【塩田】駆け引きがうまく、戦略があって、機略縦横で、変幻自在の面があるのでは。

【馬場】最強のネゴシエーターでしょうね。維新の党分裂後の一連の流れでも、将棋でいえば何十手も先を読んでいましたね。すごいです。交渉役として打ち合わせしながらやりましたけど、橋下さんが考えていたとおりに運んでいく。天才なんでしょうね。もちろん本人が情報収集し、分析して、どんな対抗策があるか、すべて考えて手を打つ。それが全部できて、ぴしっとはまっていました。ほかに脚本家がいるわけではありません。

【塩田】15年11月の大阪のダブル選挙では勝利しましたが、橋下さんの政界引退で、おおさか維新が非常に弱体化するのでは、と予想する声もあります。

【馬場】大阪の維新は発足当初からつねに「ふわっとした民意」と言われてきましたけど、ダブル選挙に勝って、大阪での支持が固定化されてきました。データとして、どんな選挙でもこれくらいの票をいただけることが固まってきています。改革に邁進している間は簡単に影響力が低下するとは思えません。

【塩田】今夏、参院選があり、衆参同日選挙になるかもしれないという話もあります。

【馬場】これから候補者の公募も始めます。スタート時と違って、全国に少しずつ地方議員が誕生し、なんの足がかりもないという地域がどんどん減っています。それを生かして、組織を全国に広げながら候補者を発掘する方針です。候補は正式に決まっていませんが、参議院の大阪選挙区は政調会長の浅田均さん(元大阪府議会議長)の方向で調整していると思います。橋下さんが大阪選挙区から出ることはないでしょう。参院選に出るとしたら、比例区でしょうね。14年12月の総選挙で、当時の維新の党は 約840万票でしたから、橋下さん自身が挑戦すれば、1000万票を超えるのではないかという気がします。

■維新の大阪モデルを全国に広めていく

【塩田】選挙では、候補者発掘と併せて、目指す路線や政策を明確にする必要があります。「ゆ党」でもいいですけど、ほかの党にはできない最大の目標とは何ですか。

【馬場】何よりも「身を切る改革」です。大阪の府議会は4年前、定数を2割削減し、報酬も3割カットしました。政治家が身を切る姿勢を具体的に実行することによって、新たな負担を住民にお願いする。あいつらもやってるんやから、わしらも辛抱しょうか、という話につながるわけです。消費税率を上げて、改革の論議に手を付けないのでは、国民の理解が得られません。

【塩田】地域政党として大阪の改革を目指すだけでなく、国政の重要課題に取り組む場合、国政政党としてのパワーをどうやってアップしていくのか。ここまで橋下さんが超えられなかった1つの大きな壁ではないかと思います。

【馬場】そこがすごく大きな課題でしょうね。永田町で存在感を発揮していくには、何よりも政策を打ち出して実現できる道のりをつくり、結果を残していくしかないんです。

維新の会はもともと大阪での改革を実行するために生まれたのですが、なぜ誕生し、ここまで何をしてきたか、これから何をしようとしているのか、PR不足です。大阪以外ではまだまだ理解が深まっていません。これから全国的に組織をつくっていく中で、そういう面で汗をかき、維新の大阪モデルを全国に広めていくのが一番大事ですね。

【塩田】もともと橋下さんとのお付き合いはいつ、どんなきっかけからですか。

【馬場】最初に出た08年1月の大阪府知事選挙ですね。自民党と公明党の推薦で出ましたが、私は当時、堺市議で自民党大阪府連の青年局長でした。そのときに選対本部に入ってお手伝いをしたのがスタートです。最初に顔を合わせて話をしたのは、橋下さんが自民党の会議に来たときだったと思います。それまでは、ちゃらちゃらした格好で奇抜なサングラスをかけてテレビに出て、なんやねんみたいな感じで思っていましたが、そのときは、髪も黒く、普通の眼鏡に変えて、スーツでネクタイして、びしっとして出てきた。本当はいろいろ計算しているんだなと思いました。最初の頃は、とにかく「改革、改革」と。「大阪を変えたい。大阪が第2の都市ではなくなっているから活性化させたい」と初めからずっと言っていました。

09年の堺市長選挙で、全政党が推薦する現職市長に大阪府庁出身の新人が挑戦し、それを大阪維新が応援した。私はその頃、自民党でしたから、現職市長を応援していたんですが、橋下知事が向こうの応援を始めると、どんどん支持率が上がり、結局、現職市長が負けた。「堺ショック」と言われ、橋下神話の始まりとなりました。

【塩田】その後、自民党を離党して大阪維新の会に入りましたね。

【馬場】堺市長選挙は敵・味方で、しばらくは橋下さんとも松井さんとも絶縁状態でしたが、10年に大阪府、大阪市、堺市の3議会で大阪維新を立ち上げたとき、松井さんから「飯、行こうや」と電話がかかった。何回も断わったのですが、断り切れなくて会いました。松井さんは「大阪の政治を大阪の自民党に任せてたら、潰されてまう。大阪に新しい保守勢力をつくろう、思うんやけど、馬場ちゃんが堺で旗振り役になってくれ」と言われました。それは堺市議でずっと感じていたことでしたから、私の考えとぴちっと合った。

11年の統一地方選挙で、大阪維新は大阪府議会で過半数を取り、大阪市議会と堺市議会で第一党となりました。勢いが出て、大阪都構想もその頃に出てきましたが、住民投票で賛成を得れば、法律改正が必要になります。毎度、既成政党にお願いするのは難しいから、国政に足をかけておかなければということになり、大阪府、大阪市、堺市の3議会から1人ずつ、とりあえず先遣隊として国会にという話になりました。堺市は衆議院選挙では大阪の16区と17区ですが、私が12年12月の総選挙に17区から出ることになった。

■国会議員としてどういう足跡を残すか

【塩田】12年の総選挙では、いきなり54議席を獲得して野党第2党になりました。

【馬場】国政は大阪のメンバーも経験がなかった。どうしてもよちよち歩きになるから、最初は経験のある大きな力を持った人と一緒にやらなければ、という気持ちでした。

【塩田】馬場さん自身、国会議員になって「永田町政治」をどう受け止めましたか。

【馬場】私は国会議員の秘書上がりで、議員会館に4年勤めていたので、トレーニング期間もあったし、当時の知り合いもいた。ですが、市議会とは、議会の仕組みや改革のスピードが違う。前例、前例の国会には、改革しなければということが目茶苦茶あります。

【塩田】馬場さん自身、将来、どんな政治家を目指していますか。

【馬場】中山太郎先生(元外相)の秘書として、臓器移植法などの議員立法の重要さを勉強させていただいた。地元の堺市議で肝臓を悪くした方が肝移植しか方法がないという話になり、アメリカに行った。「生体肝移植は外国に行かなければダメだけど、なんとか日本でもできるように」とその方が中山先生におっしゃった。医師だった中山先生の頭の中にそれが強烈に響いて、議員立法を懸命にやり出したわけです。私も議員立法をやっていきたい。その後に憲法改正ですね。中山先生はこの問題にも一所懸命でした。

政治家は何か足跡を残す仕事をやることが大事です。永田町の議論を聞いていると、学者同士が何か法律論争をしているような感じで、何をするのか、どういう結果を出すのか、議論の中でそこが見えないと思います。今、自分がいる国会議員というステージでどういう足跡を残すかをつねに中心に考えてやっていくのが、自分が目指す政治活動です。

今は大阪都構想にかかりっ切りです。大阪都構想の中身をブラッシュアップして「新大阪都構想」をつくろうとしています。大阪を副首都と定めれば、大阪都構想が加速すると思います。そういう仕掛けをしていくのが今の僕らの仕事と思っています。

【塩田】ここまでの人生で一番苦しかったことと、逆に一番嬉しかったことは何ですか。

【馬場】私は高卒ですが、高校を出て3年間、大阪で外食レストランの「ロイヤルホスト」のコックをやっていました。3交代できつかった。サービス残業は当たり前の時代で、正月も盆もない。働くということがどれだけしんどいことか、徹底的に植え付けられましたね。つい2~3年前まで1年に1回くらいその仕事をしている夢を見たんです。どんどんオーダーが入り、追いまくられて、どないしょうという夢です。

国民は、苦労して働いて納税しているのですから、政治家は税金のありがたさ、重たさを認識しなければと思います。一般の国民はどういう生活しているのか、わかった上で政治に向かわなければ。国会で1億円や2億円と言うと、「そんなちっちゃいことを言うたらあかんわ」と言われる。「あんたの金、ちゃうやろう。国民の税金を、そんなちっちゃいことや言うなんて、どういうことやねん」と先輩議員と言い合ったことがあります。

私はもともと政治家志望ではなかった。青年実業家を目指していたんです。秘書にならせていただいたのは、商売をする場合に社会勉強が必要で、人と人とのつながりを勉強させていただこうと思ったんです。ところが、堺で市議の補欠選挙があり、中山先生から「おまえがやれ」と候補に指名された。でも、当選した瞬間、「この業界に入った以上、絶対トップになったる」と思った。総理大臣を目指すには、国会議員にならなければ資格がない。そこへ近づいたわけで、一応、有資格者の1人となったのが一番嬉しかったです。

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馬場伸幸(ばば・のぶゆき)
おおさか維新の会幹事長・衆議院議員
1965年1月27日、大阪府堺市生まれ(現在、51歳)。大阪府立鳳高卒。卒業後、3年間、オージーロイヤル(現ロイヤルホスト)でコックを勤め、86年から中山太郎(当時は参議院議員。後に衆議院議員。元外相)の秘書となる。93年に堺市議補選で初当選(自民党)。12年まで6期在任し、11~12年に堺市議会議長。12年12月の総選挙に日本維新の会公認で大阪17区から出馬し、初当選(現在、当選2回)。14年12月から15年9月まで維新の党国会対策委員長、15年12月からおおさか維新の会幹事長。15年10月に「日刊ゲンダイ」が「毎月 300万円の大豪遊…分裂『維新』大阪組の異常なカネ遣い」という見出しで「馬場伸幸衆院議員の金遣いの荒さが大問題」と報じた点について、「まったく事実ではない。当時、松野頼久・維新の党代表が記者会見で全面否定したのに、『日刊ゲンダイ』が再度、記事にしたから、きちんと法的措置を取ることにして訴えた」と話している。

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(作家・評論家 塩田 潮 尾崎三朗=撮影)

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