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朝ドラで話題「紺碧の空」は、なぜ早稲田を象徴する一曲となったのか

プレジデントオンライン / 2020年5月26日 15時15分

箱根駅伝復路のスタート前に選手を応援する早稲田大の応援部=2014年1月3日、神奈川県箱根町 - 写真=時事通信フォト

早稲田大学に「紺碧の空」という有名な応援歌がある。慶応義塾大学に対抗して生まれた曲だが、なぜ89年にもわたり歌い継がれてきたのか。元駅伝選手で作家の黒木亮氏は「歌詞と曲の歯切れのよさもあるが、ライバルである慶応の頑張りによるところが大きい」という——。

■慶應に勝てない中、6番目の応援歌として誕生

先週のNHKの朝ドラ「エール」は、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」誕生の話で、数十万人の早大OBは、普段朝ドラを見ない人までテレビにかじりついたようだ。かく言う筆者もその一人である。大学の応援歌で、学外の一般人にまで広く知られているのは「紺碧の空」と慶応の「若き血」くらいだろう。

「エール」のストーリーは、ほぼ史実に沿っている。当時、慶応の野球部は黄金期を迎え、昭和2年秋に作られた「若き血」の大合唱で早稲田の校歌「都の西北」をかき消し、昭和6年春のシーズンを迎えるまで、11勝3敗と早稲田を圧倒した。それまで応援に替え歌を使用していた早稲田は、オリジナルの応援歌の必要性を痛感し、昭和3年秋から昭和5年春にかけ、山田耕筰、中山晋平、近衛秀麿といった当代一流の作曲家に大学当局などが依頼し、5曲を作った。しかし、「若き血」に対抗するにはほど遠かった。彼らの曲は室内で歌うのには適していたが、屋外で何万人もが歌うには迫力を欠いていたからだ。

昭和6年4月、公認されて間もない応援部が第6応援歌の歌詞を公募し、早稲田大学高等師範部3年生でホトトギス派の俳人だった住治男の詞が採用された。作曲は応援部員の幼友達で日本コロムビア専属の21歳の無名の新人、古関裕而に依頼した。予算がなく、ほぼ無報酬の依頼だったが、古関は大役に感激し、快諾した(朝ドラはこの点だけ事実と少し違う)。

1週間後、「紺碧の空」が誕生し、応援部員たちは力強さに感銘を受けた。新応援歌が披露されたのは、早慶第一戦の6月13日。ブラスバンドの指揮は古関裕而が執った。この春のリーグ戦では早稲田が2勝1敗で慶応に雪辱を遂げた。住と古関への謝礼は、海老茶地に白くローマ字で「WASEDA」と抜いた2円50銭の特製のペナントだった。

■早慶戦があるから89年歌い継がれてきた

以来89年間にわたって「紺碧の空」は歌い継がれてきた。その理由は、もちろん歌詞と曲が歯切れよく、格調高く、歳月を経ても新鮮さが失われず、大人数で歌うのに適しているからだろう。

もう一つの要因として挙げたいのは、早慶の運動部、特に慶応の運動部の頑張りである。ある意味で、「紺碧の空」は早稲田ではなく、慶応の運動部が支えてきたとも言える。

「紺碧の空」が最も多くの人に歌われ、脚光を浴びるのは野球の早慶戦である。それ以外では各運動競技の早慶戦、リーグ戦、箱根駅伝などだ。

しかし、競技が弱くては応援に力が入らないし、観客も集まらない。もし早慶の野球部が全国最低レベルの力しかなければ、父兄や関係者でもない限り、あえて応援に行きたいとは思わないはずだ。わざわざ観戦に行って、情けない思いや悔しい思いをしたくないのは誰しも同じである。

■スポーツ推薦がある早稲田に対し、慶応にはない

スポーツのチームは、洋の東西やプロ・アマチュアを問わず、勝てばファンが増えるし、負ければファンが減る(唯一の例外が野球の阪神タイガース)。筆者が長距離選手として所属した早稲田の競走部も昭和44~50年にかけて箱根駅伝の予選会で3回落ち、全日本インカレでも10位以下と低迷し、存在感を失って「紺碧の空」も歌ってもらえなかった。早稲田のスポーツがまがりなりにもトップレベルを維持できてこなければ、「紺碧の空」はなくなっていたかもしれない。

箱根駅伝3区で、3年生の筆者が茅ヶ崎(神奈川県)付近を走る様子。沿道では「茅ヶ崎稲門会」が応援している
写真=筆者提供
箱根駅伝3区で、3年生の筆者が茅ヶ崎(神奈川県)付近を走る様子。沿道では「茅ヶ崎稲門会」が応援している - 写真=筆者提供

ただ早稲田はスポーツ推薦制度があるだけましである。人数は公表されていないが、年に80~90人程度のスポーツ推薦枠がある模様だ。これに対し、文武両道を貫く慶応は、スポーツ推薦枠がない(ただし過去、法学部政治学科に一部のスポーツ選手が下駄をはかせてもらって入学していたという話は聞く)。また早稲田はスポーツ科学部(旧教育学部教育学科体育学専修)という体育系の学部も持っている。現在、慶応ではAO入試枠で優れたスポーツ選手が一部入学しているものの、多くの運動部の選手は普通に受験して入学した一般学生だ。

箱根駅伝の解説で早稲田の渡辺康幸元駅伝監督が「彼は一般入試なんですよ」と選手を紹介したりすると、慶応の競走部OBたちは「普通、一般入試だろ」とつぶやく。またAO入試といえども、慶応の場合、そこそこの学業成績は必要で、例えば100mの山縣亮太選手もAO入試組だが、広島県の修道高校という進学校の出身だ。

■スクラムを1日1000回組む慶応ラグビー部のすごさ

慶応の運動部のすごいところは、圧倒的な練習量で他校を凌駕するという哲学があることだ。とりわけすさまじいのがラグビー部である。夏の山梨県で行われる山中湖合宿では、しょっちゅう救急車がやってくると言われる。1980年代前半、大西鐵之祐氏が監督をしていた頃の早稲田のラグビーは、軽量フォワードがボールを奪ってバックス展開するスピードを持ち味としていた。これに対して慶応は、そこまで器用な選手がいなかったので、スクラムを強化した。

当時、慶応の山中湖合宿を見に行った人によると「週に1回、朝から晩までスクラムをやる日があった。その日は1000回のスクラムをやっていた。普通は300回くらいが限界。疲労した選手はばたっと倒れ、ぴくりとも動かなくなる。それをリヤカーで合宿所の前まで運び、頭から大量の水をかけて、カップヌードルのようにふやけた状態で布団に運んで寝かせていた」。こうした猛練習で、慶応の運動部は早稲田に対抗する競技力を維持してきたのである。逆に早稲田からすれば、学生数も運動部員の数も少なく、スポーツ推薦制度や体育系の学部もない慶応に負けるのは恥ずかしいことで、一層奮起した。

■トップ級4人以外は体育学専修と一般学部の選手でタスキをつないだ

ただ早稲田もスポーツ推薦枠があるからといって、優秀な選手をずらりとそろえられるわけではない。各部3人程度の割り当てしかなく、青山学院をはじめとする箱根駅伝の有力校が駅伝だけで各校10~15人のスポーツ推薦枠を持っているのに比べれば、非常に少ない。

AO入試という道もあるが、「スポーツ推薦は無理だけれど、AO入試を受けてください。ただ合格は確約できません」と言って勧誘しても、有力選手はスポーツ推薦で合格を約束してくれる他大学に行ってしまう。スポーツ奨学金(授業料免除)や月10万円程度の栄養費支給制度もない。そのため筆者がいた頃の早稲田の箱根駅伝チームも、瀬古利彦氏というウルトラ級が1人、金井豊氏(ロサンゼルス五輪10000m7位)ら区間賞を狙える選手が3人くらい、残りは教育学部体育専修と一般学部(政経、法、理工等)の学生がタスキをつないでいた。

■なぜ、「いい応援歌」は必要なのか

「エール」の中で、応援部団長役の三浦貴大が、窪田正孝扮する古山裕一(古関裕而)に、慶応に勝つためにはいい応援歌が必要だと訴える。確かに自分の経験に照らしても、選手は応援によって勇気づけられる。箱根駅伝の場合、早稲田の応援部は往路、復路とも、スタートとゴールで応援する。それ以外の場所は、地元の稲門会の人たちがやってくる。筆者は3年のときは3区、4年のときは8区だった。8区を走ったときは、雨まじりの風が正面から吹き付けてくる悪コンディションで、しかも7、8kmのところから右脇腹に腹痛を起こしてしまい、非常に苦しいレースだった。15kmを過ぎたとき、大手町に戻る応援部員たちがマイクロバスの窓から身を乗り出すようにして「頑張れー!」「うおーっ!」と声をかけてくれたときは、本当にうれしかった。

980年1月3日、大学4年生の筆者が箱根駅伝8区を走る様子
写真提供=報知新聞社
1980年1月3日、大学4年生の筆者が箱根駅伝8区を走る様子 - 写真提供=報知新聞社

■2つの歌は両校の奮起で「伝統」となった

駅伝のようにチームの命運が選手一人ひとりにもろにかかってくる競技は、孤独感も強く、応援は心に染みる。走り終えて大手町に戻ると、ゴール付近で早稲田の応援部員たちが勢ぞろいし、にぎやかに「紺碧の空」を演奏していた。沿道を埋め尽くした人々の間から拍手と歓声が湧き起こり、早稲田のアンカーがアスファルトの道に姿を現し、25年ぶりの3位入賞のテープを切った。

あれから40年後の今年の箱根駅伝でも、駒沢大学を1秒かわして7位にすべり込んだ3年生の宍倉選手を迎えたのは、応援部が奏でる「紺碧の空」だった。

「紺碧の空」は、慶応という尊敬すべきライバルを得て、応援部員と運動部員と応援の人々が一体となり、89年の長きにわたって育んだ曲だ。歌は歌い継がれることで力を増す。「紺碧の空」は、もはや単なる応援歌ではなく、早稲田のスポーツシーンを象徴する「伝統」であり、欠くべからざる存在になった。そしてまた、慶応の「若き血」も、早稲田の奮起があってこそ、今も歌い継がれているのだろう。

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黒木 亮(くろき・りょう)
作家
1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資、プロジェクト・ファイナンス、貿易金融、航空機ファイナンスなどを手がける。2000年、『トップ・レフト』でデビュー。主な作品に『巨大投資銀行』、『法服の王国』、『国家とハイエナ』など。ロンドン在住。

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(作家 黒木 亮)

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