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「努力のリターンが小さすぎる」イマドキの若者が"親ガチャ"という言葉を使う本当の理由

プレジデントオンライン / 2022年3月11日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SunnyVMD

自身の出生をくじに例える「親ガチャ」という言葉が若者を中心に支持されている。社会学者の土井隆義さんは「格差が拡大する中、SNSの普及によって他人の私生活がよく見えるようになった。ネットが普及した背景には現代人の抱える大きな不安があり、努力では挽回できない差を若者は“ガチャ”と揶揄しているのだ」という――。

※本稿は、土井隆義ほか『親ガチャという病』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。

■友人数の多さが評価の尺度として作用する現代

社会学者を中心とした研究グループである青少年研究会が実施した「都市在住の若者の行動と意識調査」によると、2000年代以降、若年層の友人数は大幅に増えています。前節で指摘したように、関係の流動化にともなう自由度の増大によって、制度的な枠組みにとらわれない関係を築きやすくなったからでしょう。

しかし、制度によって関係が縛られなくなると、今度はその個人差が大きくなります。事実、同調査によると、2000年代以降、友人数の多い者と少ない者との落差は拡大しているのです。

今日では、人間関係の構築時における個人的要因の比重が増したことによって、場を盛り上げる能力に長け、対人関係を器用にこなせる人物と、そういった社交術に疎く、関係構築が苦手な人物との間で、かつて以上に関係格差が広がりやすくなっています。

私たちは、他者との間にさほど差を見出せないとき、そこに評価の尺度を求めようとはしません。しかし、いったん落差が生じると、それは評価の尺度として作用し始めます。友人数もその例外ではなく、落差が歴然と目につくようになると、その数が多いか少ないかによって、人間としての価値が測られるかのような見方が広がっていきやすくなります。

もちろん、それは錯覚です。友人数などというものは、時々のめぐり合わせによっても大きく左右されるものであり、本来、人間としての価値とはなんの関係もないものだからです。

■友人数の多い人ほど自己肯定感が高い

ところが、同調査によれば、友人数が多い者ほど、自己肯定感も高い傾向が見られ、また自分の将来は明るいと考える傾向も強くなっています。付き合う相手を自由に選べる状況では、付き合う相手のいないことが、自分の価値のなさの反映と受けとられがちだからです。あるいは、周囲からそういう目で見られてはいないかと危惧を覚えがちだからです。

今日の社会で、いわゆるコミュニケーション能力が偏重されるようになったのも、価値観の多様化によって互いの意思確認の必要性が高まったからだけではなく、それが人間的な魅力を測る尺度として使われやすくなったからでもあるのです。

■似通った価値観を持つ仲間だけで集まる傾向が強まった

内閣府が実施している「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」で日本のデータを見ると、友人や仲間との関係に悩みや心配事を抱く若者は、1980年代から90年代まで減少傾向にありました。

ところが、2000年代に入ると傾向が反転し、そこに悩みや心配事を抱く若者が急増します。この時期は、ちょうど日本社会が坂道の時代から平坦な時代へと移行した頃です。悩みや心配事には不満の要素と不安の要素の双方が含まれていますから、おそらくこの時期に、不満の減少分を不安の増大分が凌駕してしまったのでしょう。

今日の若者たちは、このような不安を少しでも減らそうと、似通った価値観を持つ仲間内だけで、狭く固く閉じた関係を築こうとする傾向を強めています。少なくとも表面的には、そのほうが安定した関係を維持しやすいと感じられるからでしょう。この傾向は、青少年研究会の調査にもはっきりと表われています。若年層の人たちが新しい友人と出会う場所の多様性は、かつてより減ってきているのです。

もちろん今日では、ネットの普及によって多種多様な人々がつながりやすくなったのも事実です。SNSを駆使して、交友関係を世界に広げていこうとする若者も確かに存在しています。ユーチューブなどの動画投稿サイトで、自己表現を試みる若者もしばしば見かけるようになりました。

しかし他方では、ネットがあるからこそ、それを活用して似通った仲間どうしで固まり、その同質的な間柄だけで、時間と空間の制約を超えてつながり続ける若者が増えているのも事実です。そして、数としてはこちらのほうが多いといえます。

■内閉化した人間関係で躓くと瞬く間に孤立する

ところが、このように人間関係の内閉化が進むと、仲間内での世界に安住できている間はよいかもしれませんが、いったんその内部の関係に躓いてしまったら、もうどこにも自分の居場所は見当たらなくなってしまいます。大海に浮かぶ孤島から放り出されるようなものだからです。

たとえば、学齢期の子どもたちが、イツメン(いつも一緒のメンバー)から外されたことを契機に不登校になりやすい理由もここにあるでしょう。皮肉なことに、安定した居場所を確保するために人間関係を内閉化させてきたことが、かえってその分断化を推し進め、そこに孤立的な状況が生じやすくなっているのです。

■親友よりも「あっさりして深入りしない」関係

たしかに今日の若者たちは、いつどこにいてもつねに仲間とつながり合っています。ネットの普及が人間関係を緊密にしたともいえます。しかし、では同じような価値観を持つ者どうしで関係が深まっているかといえば、そんなことはありません。むしろその関係から外されないように振る舞うことに必死で、互いの内面を吐露し合うことは難しくなっています。

青少年研究会の調査によれば、2000年代以降、友だちとの付き合い方で増えているのは、「あっさりして深入りしない関係」です。他方で減っているのは、「意見が合わなかったときは納得いくまで話し合いをする関係」です。ともかく関係を維持していくことが最優先にされ、互いの悩みを相談し合えるような関係を育むことは難しくなっているのです。

1990年代後半に急増した日本の自殺率は、その後、約10年間の高どまりを経験した後、徐々に低下し始めました。ようやく私たちは、大転換後のこの社会に慣れてきたのでしょう。しかし、若年層だけは別で、依然として高どまりのままです。この事実の背後には、いま述べてきたような事情があるのではないでしょうか。

緩やかに開かれたつながりに対する心理的距離が拡大し、イツメンだけが唯一の居場所になると、そこから外されたらもうどこにも生きる場所がありません。そのイツメンですら、とりあえず関係がうまくいっていたとしても、何か悩みがあったときに、安心して吐露し合えるような間柄ではなくなっています。若年層における自殺率の高さの背後には、このような意味での居場所の喪失という問題が潜んでいると考えられます。

■居場所を失う若者と親ガチャの流行との関連性

近年、「親ガチャ」という言葉をよく耳にするようになりました。実はこの言葉の流行もまた、以上のような居場所の喪失と大きく関わっている現象といえます。そもそもガチャとは、オンラインゲームで希望のアイテムを入手するための電子くじシステムのことですが、さらにその語源にあるのは、街角の店舗などに置いてある小型の自動販売機で、硬貨を入れてレバーを回すとカプセル入りの玩具が無作為に出てくるガチャガチャです。それらのシステムに自分の出生をなぞらえたのが親ガチャなのです。

ガチャガチャでも、ガチャでも、くじを引いてどんな玩具やアイテムが当たるかは運任せです。ときには一発で大当たりすることもありますが、いくら課金してもつまらない玩具や弱いアイテムしか入手できないこともあります。それと同じように、私たちは誰しもどんな親の元に生まれてくるかを選べません。そこには当たりもあれば外れもあります。自分の人生が希望通りにいかないとしたら、それは出生のくじ運が悪くて外れを引いてしまったからだ、親ガチャにはそんな思いが込められています。

ガシャポン自動販売機
写真=iStock.com/font83
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/font83

子どもは親を選べないため、人生とは運次第のもの、それが親ガチャの意味するところです。しかし、ここで目が向けられているのは、これからの時間ではなく、これまでの時間です。ガチャガチャやガチャで何が出てくるかは、くじを引いた時点ですでに決まっています。それと同様に、これからの人生がどうなるかも、出生時の諸条件であらかじめ定まっており、自分の力ではどうしようもないというわけです。したがって、もっと正確にいうなら、人生は出生時の運次第なのだということになるでしょう。

■親ガチャという宿命論的な言葉が生まれたのは必然

運不運に左右されるものとして人生を捉えることは、たしかに従来からありました。たとえば、人生すごろくのようなゲームもありました。しかし親ガチャでは、これから振るサイコロの目によって順位が決まるわけではありません。そもそもスタート地点が大きく異なっているため、これからどんなサイコロの目が出たとしても順位は変わらないのです。

土井隆義『親ガチャという病』(宝島社新書)
土井隆義『親ガチャという病』(宝島社新書)

しかも、ガチャは工夫次第でリセマラ(リセットマラソン。ソーシャルゲームで目当てのアイテムを入手するまで何度もリセットすること)ができますし、すごろくゲームもやり直しができます。しかし、親ガチャを引けるのは生涯で一度きりです。けっして再チャレンジはできません。

親ガチャは、さまざまな偶然の結果の積み重ねではなく、出生時の諸条件に規定された必然の帰結として、自らの人生を捉える宿命論的な人生観です。親ガチャにおいて偶然に依拠しているのは、出生時の諸条件だけです。以後の人生は、すべてそれに規定されているのです。このような決定論的な人生観が高原社会に登場したのは、けっして偶然ではありません。それは、まさに今日の時代精神がもたらした必然の産物だといえます。

■「国ガチャには成功しておいて」という批判は的外れ

しばしば指摘されるように、今日ではSNSの普及によって、他人の私生活がよく見えるようになりました。この可視性の高まりが、私たちの格差感覚を刺激し、親ガチャという言葉の普及を後押しした面もあるといわれます。しかし、すでに述べたように、今日のようなネットの発達の背後には、私たちの不安感の増大があるという事実を忘れてはなりません。そして、それこそが今日の社会の大きな特徴なのです。

先ほども触れたように、日本社会はすでに右肩上がりの時代を終えて、いまは横ばいの時代へと移行しています。生活水準においても、学歴においても、親世代のレベルを上回ることを容易に実感しえた時代はすでに終わっています。ほぼ平坦な道のりが続く高原社会に生まれ育った現在の若年層にとって、これから克服していくべき高い目標を掲げ、輝かしい未来の実現へ向けて日々努力しつつ現在を生きることなど、まったく現実味のない人生観に思えてもおかしくはないでしょう。

かつての若者たちが、見上げるように急な坂道を上り続けることができたのは、現在の若者たちより努力家だったからではありません。時代の強い追い風が後ろから吹き上げ、後押ししてくれていたからです。社会全体が底上げされ続けており、その上げ潮に乗れていたからです。しかし今日では、その上げ潮が引いてしまいました。努力することのコストパフォーマンスが大幅に低下してきたのです。

スキルアップ
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

各国の調査機関が参加して定期的に実施している「世界価値観調査」で日本のデータを眺めると、勤勉に働いても人生に成功するとは限らないと思う人が増え始めるのは、だいたい2000年を越えたあたりからです。青少年研究会の調査でも、具体的な設問の文言は異なっていますが、ほぼ同様の傾向が見受けられます。かつてのような上げ潮に乗れなくなったため、努力したことに対するリターンが小さくなり、それが人生観に影響を与えているのです。

それに加えて、経済格差が拡大し、さらに世代間連鎖によって固定化しつつあるという現実も、今日の人生観に決定論的な趣きを与えています。

世界的に見れば豊かな部類に入る日本に生まれた時点で、私たちは皆、国ガチャに成功しているはずなのに、親ガチャなどと不平を言うのは甘えも甚だしいという非難もありますが、それは大きな勘違いです。国全体が貧しければ、周囲との格差もあまり大きくはなりません。それを理由に孤立感が深まったり、居場所が失われたりといった事態も生じにくいでしょう。むしろ私たちは国ガチャに成功している面があるからこそ、親ガチャが顕在化しやすくなったと考えるべきなのです。

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土井 隆義(どい・たかよし)
社会学者
1960年、山口県生まれ。社会学者。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程中退。筑波大学人文社会系教授。著書に『友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル』(筑摩書房)、『キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像』(岩波書店)、『つながりを煽られる子どもたち ネット依存といじめ問題を考える』(岩波書店)、『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』(岩波書店)などがある。

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(社会学者 土井 隆義)

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