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NHK大河ドラマではあっけなく殺された…源頼朝の弟・範頼は「平家討伐の功労者」であることをご存知か

プレジデントオンライン / 2022年6月26日 19時15分

源範頼像(図版=横浜市金沢区 太寧寺所蔵/PD-Art(PD-old-70)/Wikimedia Commons)

源頼朝の弟・範頼とはどんな人物だったのか。作家の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマでは、あまり印象に残らない人物として描かれていたが、義経と並んで平家討伐の功労者である。もっと評価されるべき人物だ」という――。

■NHK大河ドラマで描かれた源範頼の最期

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、源頼朝の異母弟である源範頼(演・迫田孝也)が暗殺者・善児(演・梶原善)によって殺害された(第24回放送)。

その内容を簡潔に振り返ろう。建久4(1193)年6月、源頼朝が行った「富士の巻狩り」の際に、曾我祐成(すけなり)と曾我時致(ときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経(すえつね)を討った(「曾我兄弟の仇討ち」)。その最中、範頼は、「頼朝が死亡した」との「誤報」を信じ、鎌倉を守るため(比企能員(ひきよしかず)の甘言もあって)、頼朝の跡を襲おうと動いた。

しかし、頼朝は生きていた。頼朝は範頼の心を疑い、伊豆に配流。しばらくして、頼朝は娘・大姫の病死を範頼の呪詛(じゅそ)と思い込み、梶原景時を呼んで範頼殺害を命じる。最終的には善児が範頼が刺殺するという筋書きであった。

話題を呼んだ豪族・上総介広常の殺害シーンは「流血の惨劇」「戦慄(せんりつ)」といった感じであったが、範頼の殺害は淡々としていた。

源範頼は、源頼朝と義経という超有名兄弟に挟まれて、とても地味な存在である。

いや地味だけならば、まだ良いが、暗愚・愚将としての評価が専らであった。それはなぜなのか? そして本当に暗愚だったのか? 範頼の人物像を見ていきたい。

ちなみに、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」においては、範頼を愚将として描いておらず、涼やかで物わかりの良い人物として描いているように思う。逆に義経を好戦的で時に人(実兄の義円)を陥れる「悪人」に描いており、これまでの時代劇とは一味違う描写で興味深い。

■範頼が歴史書に初登場したシーン

さて、源範頼であるが、源義朝の六男として生を受ける(五男という説もあり)。

母は遠江国(今の静岡県)の遊女だったと伝わる。頼朝の母は、熱田神宮の大宮司・藤原季範(すえのり)の娘であるし、義経の母は常盤御前であるので、範頼は頼朝や義経とは母を同じくしていない。範頼は、頼朝の異母弟、義経の異母兄に当たる。

さて範頼は、遠江国の蒲御厨(かばのみくりや)で育ったことから、「蒲冠者」や「蒲殿」と呼称された。そんな範頼が歴史の表舞台に姿を現すのが、寿永2年(1183)2月のこと。鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』に、範頼の名が見えるのだ。

どのような所で、範頼が登場するのかというと、常陸国(茨城県)の志田(源)義広という武将が、下野国(栃木県)の足利氏と一緒になって、鎌倉の源頼朝を攻めようとした時のことである。

志田義広は、下野国の有力豪族・小山朝政にも味方するよう依頼するのだが、小山朝政は味方する振りをして急に志田の軍勢を急襲。結果、志田義広は敗れることになるが、その時、小山に加勢した者の中に、範頼の名があるのだ。

この頃には範頼は頼朝の幕下にあったと考えられる(頼朝が挙兵したのは、1180年8月)。しかし、この時の範頼がどのような立場で、どのような活躍をしたのかは不明である。

■頼朝のライバル木曽義仲を退治するも

範頼は、寿永3年(1184)には、木曽義仲討伐の大将となり、頼朝の代理として上洛。弟の義経と協力して、義仲を討つ。

その後、すぐに平家討伐戦に移り、同年2月には、一ノ谷の合戦で、これまた義経と共に平家軍を破っている。これらの戦いにおいて、範頼が大きなミスをしたという話は伝わっていない。

ただ、敵と交戦する以前のところで、うかつなことをしてしまい、頼朝に怒られることになる。では、範頼は何をしたのか。それは、木曽義仲を討つために上洛する途上、尾張国の墨俣において、範頼が他の武士と先陣を争い喧嘩・乱闘してしまったのだ。

頼朝はそのことを聞き「朝敵・平家と戦う以前に、味方同士で争うとは、けしからん」と怒ったとのこと。これが1184年の2月1日のことだ。頼朝の怒りを買った範頼は謹慎させられた。謹慎解除になったのが、同じ年の3月6日なので、約1カ月の謹慎だった。

範頼というと、これまでどこか控え目で押しの弱い人物のように描かれてきた(例えば人形劇「平家物語」)ように思うが、『吾妻鏡』が記す範頼は、それとは逆である。

押しが弱いどころか、武士と先陣を争うほど、イケイケだったのだ。しかし、範頼は普通の武士ではなく、頼朝の異母弟であり、木曽討伐戦においては、頼朝の代理として遣わされている立場。そうした立場を考えると、確かに範頼の行動は、軽率であり、頼朝に怒られても仕方のないものだったろう。

ちなみに、謹慎を解いてもらうために、範頼は頼朝に何度も何度も詫びていたようだ。そうしたこともあり、やっと謹慎を解いてもらったのである。

■泣き言を言う範頼に頼朝が送ったアドバイス

その甲斐あってというべきか、範頼は元暦元年(1184)8月、平家方討伐のため、九州に派遣されることになる。出陣に際して、頼朝は範頼に、とても大切にしていた馬を贈ったようなので、範頼に対する期待の大きさが分かる。多くの関東の武士が範頼につき従うことになるが、その中には、「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時もいた。

ちなみに範頼(軍)は西国下向の際、室・高砂(兵庫県)にとどまり、遊女と戯れていたと記す書物『源平闘諍録』(平家物語の異本、南北朝時代初期には成立か)もあり、こうした記述が範頼愚将論に影響を与えたと思われるが、創作・偽りの可能性も高い。

西国・九州方面に出陣した範頼軍だが、その年の11月ごろには、兵糧が足りなくなり、味方同士の士気も低下、いさかいが起こっていたようである。

範頼が使者でもって、頼朝に伝えたところによると、味方の武士の大半が故郷・関東に帰りたがっているありさまであったという。これを、範頼の統率力のなさと見る人もいるかもしれない。

しかし、見方を変えれば、食糧問題を度外視して、範頼軍を進発させた頼朝の責任と言えないこともない。全てを範頼の責任に帰すのは酷であろう。範頼の泣き言に対し、頼朝は「自信をもって、落ち着いて行動せよ」「九州の人々に憎まれないように行動せよ」というアドバイスをしている。

頼朝の返事を受け取った範頼が、どのような感想を漏らしたかは分からないが(言うのは簡単! 実際はなかなか難しいものなのだ)と心中思ったかもしれない。

■あまり知られていない九州での活躍

元暦2年(1185)正月12日、範頼軍は、下関に到着。船も食糧もない散々な状態であったが、豊後国(大分県)の豪族・緒方氏の援助を受けて、船と食糧を調達、豊後に渡ることができた。

九州に渡った範頼軍は、平家方の原田種直などを討つ。当時、平家は長門国の彦島(下関市)を拠点にしていた。範頼軍の九州進出は、平家の退路を断つものであり、平家滅亡に大きな影響を与えたと推測される(もし、範頼軍がいなければ、平家は壇ノ浦合戦で敗れても、九州に向けてさらに逃げることができたろう)。

困難な状況から、ここまでの態勢に持っていった範頼の手腕はなかなかのものと評価できよう。範頼の頼朝への手紙を見ると、敵の攻撃に苦しむというよりは、味方(関東武士)の士気の低さとわがままに、範頼は苦しめられているように感じる。

和田義盛や工藤祐経などは、勝手に関東に帰ろうとまでした。それを、宥(なだ)めて九州に渡海させたのは、範頼であった。

そのことを見ただけでも、範頼には統率力もあったし、荒くれ者の関東武士を抑えるだけの度胸もあったと見て良いだろう。1185年3月、平家は壇ノ浦で滅亡する。義経の活躍ばかりが注目されているが、範頼の努力と功績にも、もっと注意を払うべきだ。

歌川国芳・作「壇ノ浦大合戦之図」(部分)(図版=© The Trustees of the British Museum)
歌川国芳・作「壇ノ浦大合戦之図」(部分)(図版=© The Trustees of the British Museum/CC BY-NC-SA 4.0/Wikimedia Commons)

■疑いを解こうとしたはずが、逆に激怒される

源平合戦で、頼朝以上に活躍したというべき範頼だが、その最期は悲劇的であった。

冒頭に書いた「曾我兄弟の仇討ち」の騒動後、建久4年(1193)8月、謀反の疑いがかけられた範頼は、その疑いを解こうと起請文(誓約書)を書いて頼朝に提出している。

範頼はその中で「頼朝の代官として何度も戦場に赴いたこと」「謀反心を持っていないこと」「頼朝様の子孫の代になっても忠義を尽くすこと」を力説している。

しかし、頼朝は、範頼が起請文に「源範頼」と署名していることを「自惚れ」として怒る。範頼は源義朝の子なのだから「源」と署名しても何の問題もないはず。それを「自惚れ」と追及するのは、言いがかり以外の何物でもない。範頼は頼朝の怒りに狼狽したという(8月2日)。

8月10日、範頼の家来の当麻太郎が、頼朝の寝所の床下に潜んでいたとして捕縛される。

当麻は「主君・範頼が、起請文の1件以来、思い悩んでいた。そこで、頼朝様の本心を伺いたいと思って、床下に潜んでいたのです」と主張。陰謀などたくらんでいないとした。

■頼朝が範頼を殺した本当の理由

範頼は当麻の行動を知らなかったようだ。それから1週間後、範頼は伊豆に流罪となる。当麻は薩摩に配流となった。

伊豆に配流となった範頼のその後は不明な点も多いが、一説によると殺されたともいう。頼朝の範頼処罰は強引なように思うが、頼朝としては、義経や範頼ら異母弟を粛清し、わが子・源頼家への政権移譲がスムーズにいくように計らったのだろうか。

そうであるならば、源平合戦で功績を立てた範頼も、義経と同じく、悲劇の武将としてもっと惜しまれて良いであろう。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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