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なぜ石田三成は「悪役」として描かれるのか…教科書には載っていない関ヶ原の戦いの"不都合な真実"

プレジデントオンライン / 2022年11月20日 17時15分

絹本著色 石田三成像(模本)東京大学史料編纂所蔵(写真=宇治主水/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

なぜ関ヶ原の戦いは起きたのか。歴史家の安藤優一郎さんは「石田三成が首謀者として描かれるが、それは違う。野心を持った毛利輝元は無かったことにされている」という。安藤さんの著書『賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)からお届けする――。

■なぜ石田三成が「関ヶ原の戦い」を起こせたのか

家康が会津に出陣した後、その追い落としをはかる動きが本格的にはじまる。謀主として立ち回ったのは、政界から隠退していた石田三成であった。

三成は秀吉の遺命に背く家康の動きを抑え込むため毛利輝元との連携を進めたが、朝鮮出兵時に生じた遺恨により、加藤清正たち七将から襲撃されそうになる。この一件は家康が仲裁に入ることで合戦には至らなかったが、三成は騒動の責任を取らされる形で奉行の座を追われ、政界を隠退したのだった。

三成の隠退により、連携していた輝元の政治力も低下する。家康への屈服を意味する起請文まで交わすが、その後、養子だった毛利秀元の分知問題への介入を許してしまう。当事者の秀元が自分に有利になる分知を希望して、家康に働きかけたことがきっかけである。

家中の問題に家康の介入を許したことで、中国の太守としての権威は大きく傷つくが、家康は分知問題に乗じて毛利家の弱体化を目論む。宇喜多家の御家騒動に介入した時と、その事情はまったく同じだった。

しかし、毛利家内部の問題に介入された輝元は強い危機感を抱く。家康による内政干渉が、三成の挙兵に呼応する決断に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

雌伏を余儀なくされ、巻き返しの時を窺っていた三成と輝元だが、家康が上杉討伐のため大坂を留守にするだけでは不充分であった。家康と一体化していた政権首脳部の三奉行を味方に付けない限り、秀頼を奉じることができない。

三成からすると、家康に寝返った元同僚の三人を説得する必要があったが、自身は居城の近江国佐和山において蟄居(ちっきょ)の身であり、直接動けなかった。そこで頼みにしたのが、越前国の敦賀城主・大谷吉継であった。

■盟友・大谷吉継の賛同

吉継は秀吉の側近として重用された子飼いの家臣で、三成と同じく事務能力によって立身した吏僚層の代表格である。文禄の役では三成や増田長盛とともに朝鮮奉行を務め、出征した諸将の監督にあたった。その後、病のため政権の中枢から身を引いている。

しかし、三成の失脚を受けて政界に復帰する。奉行に登用されたわけではなかったが、家康をトップとする豊臣政権の吏僚として三奉行とともに手腕を発揮した。

先に討伐の対象となった前田利長との交渉役を務める一方で、宇喜多家の御家騒動では、家康の家臣・榊原康政とともに仲裁にあたった。今回の上杉討伐に際しても、討伐前には長盛とともに景勝との交渉役を務め、家康に従って会津まで出陣することになっていた(外岡慎一郎「大谷吉継の戦い」『関ヶ原大乱、本当の勝者』)。要するに、家康の信任が厚かったのである。

吉継は事務能力のみならず、軍事能力にも優れていたことはよく知られている。三成もその能力を大いに期待し、家康討伐を目指す挙兵計画に引き入れようとはかった。

七月二日、居城の敦賀城を出陣して美濃国の垂井に到着した吉継は、佐和山に使者を送る。石田家では三成の嫡男・重家が会津に出陣する予定であった。その際には、吉継に同行させる話となっていた。

ところが、三成は佐和山まで出向いてほしいと求めてきた。そして、佐和山にやって来た吉継に対し、家康打倒の挙兵計画に加わってほしいと懇請した。成功を危ぶむ吉継は翻意を促す。

その後、垂井に戻った吉継は、病気と称して数日逗留している。垂井に逗留中も、使者を通じて翻意を促すが、三成は頑として聞き入れなかった。

関ケ原古戦場
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

■家康一強への危機感

ついに、吉継はともに決起することを決意する。七月十一日に佐和山へ入り、三成とともに挙兵計画を進めていく。関ヶ原の戦いではよく知られているエピソードである。

吉継は家康からも高く評価されたが、家康一強への危機感は三成と共有していたはずだ。三成はそこに期待し、説得を重ねたのだろう。

三成が吉継に期待したのは、三奉行を説得して家康打倒の挙兵計画に賛同させることであった。三成にせよ、吉継にせよ、長盛たち三奉行とは、事務能力が評価されて立身して豊臣政権をともに支えてきた間柄であった。吉継は三成の期待に応え、長盛たちを味方に引き入れることに成功する。

■三成と毛利家を繋いだ安国寺恵瓊

吉継が挙兵に賛同した理由を、三成への個人的な友情だけに求められないことは言うまでもない。一般的には三成との友情に殉じた人物としてのイメージが強い吉継だが、それだけが理由ではなかった。

挙兵までの経緯をみていくと、輝元が三成の挙兵計画に賛同していたことが決定的だった。つまり、輝元を総師として推戴するのならば、勝算ありとして挙兵に賛同したと考えるのが自然である。

三成には人望がないとして、輝元を推戴して挙兵するよう吉継が勧めたという話も定説化しているが、事実ではない。これからみていくように、吉継が三成の挙兵に賛同してからわずか数日で、毛利家の大軍が大坂城を占領している。その前から、輝元が三成の挙兵に呼応することを決めていたと考えなければ、到底成り立たない軍事行動であった。

輝元が三成の挙兵に賛同していたことは、そのまま三奉行への説得材料に使われただろう。さもなければ、三奉行にしても家康討伐という賭けには出られなかったに違いない。

■毛利輝元の野心が「関ヶ原の戦い」を生み出した

三成と輝元がリードする形で、挙兵計画は進められていた。これに吉継も加わり、その説得を受けて三奉行も相乗りすることを決めたというのが真相だろう。家康と一体化していた三奉行プラス大谷吉継は、輝元が決起したことを受け、家康と袂を分かつ。

三成に呼応して失地回復を目指した輝元だったが、両者を繋ぐ人物として安国寺恵瓊の存在は欠かせない。

恵瓊は安芸国の守護大名だった武田家の流れを汲む名家の出身である。幼少の頃に出家し、安芸の安国寺に入寺した。安国寺とは南北朝の騒乱での戦没者の追善と、国家安穏の祈祷場として、足利尊氏・直義兄弟が各国に設けた臨済宗の寺院であった。

その後、恵瓊は戦国大名として台頭した毛利家に仕え、安芸や備後国の安国寺の住持を務める傍ら、使僧として毛利家の外交部門を担う。毛利家が織田信長と対決していた頃より織田家の武将だった秀吉と交渉があったが、その将来性に注目したことはよく知られている。亡き小早川隆景とともに、秀吉の天下取りを支える形で領国の保全をはかる毛利家の方針をリードした。

よって、秀吉からも重用された恵瓊は豊臣政権とのパイプを活かして、毛利家に強い影響力を及ぼしたが、三成はそこに目を付ける。自分が動けない代わりに、恵瓊を介して輝元に挙兵計画を伝え、賛同を取り付けたのだろう。

その際、家康の風下に甘んじることに耐えられない輝元のプライドに三成は訴えたに違いない。そもそも、秀吉からは東国の統治は家康、西国の統治は毛利家に任せるとされていたこともあり、同格の意識は強かったはずだ。それだけ、家康へのライバル心は旺盛だった。

三成は吉継に挙兵計画を打ち明ける前に、恵瓊を通じて輝元の賛同を得ていた。輝元も三成の誘いを受け、早くから家康討伐に応じる準備をしていた。これからみていく輝元の行動を追っていくと、それは一目瞭然なのである。

関ケ原合戦祭りでは関ケ原合戦を再現
写真=iStock.com/mura
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mura

■「合戦に消極的だった」はウソ

関ヶ原の戦いにおける輝元の動向については、三成と恵瓊の策謀に乗せられ、いわばだまされる形で大坂城に入城して西軍の総師に祀り上げられ、その後も大坂城から出ることはなく、戦闘にも積極的に関与しなかったという消極性、あるいは優柔不断さで語られるのが定番である。だが、実際はまったくの逆であった。

輝元の大坂入城までを追ってみる。

家康が大坂城を出て東に向かったのは六月十六日のことだが、大坂にいた輝元はその直前、海路で帰国の途に就く。同十七日夜、広島に到着したが、表立っては何の動きも示さなかった。

毛利博物館蔵「毛利輝元画像」
毛利博物館蔵「毛利輝元画像」(写真=Unknown author/PD-Japan/Wikimedia Commons)

七月十二日、増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行は連名で、広島城にいた輝元に対して次のような書状を発した。

「大坂御仕置之儀」についてお考えを承りたいので、急ぎ大坂まで出向かれるように。詳細は安国寺恵瓊からお知らせする。

石田家の軍勢を同行させて会津に向かうはずの吉継が病と称して美濃垂井から動かなかったため、不穏な風聞が既に広まっていた。三成が出陣つまり挙兵の準備をしており、吉継もこれに同心しているという内容だった。

そんな不穏な情勢を捨てて置けなくなった三奉行は、家康と輝元に対し、急ぎ上坂するよう求めた。当時、大老で大坂にいたのは秀家のみであった。

この書状が輝元のもとに届いたのは十五日と推定されているが、輝元は上坂を即断する。恵瓊からも連絡が入ったが、かねての計画どおりに軍事行動を起こしてほしいというものだったろう。

■広島から大坂までわずか四日で到着

その日のうちに、輝元は兵を率いて海路大坂へと向かう。十九日には、家康がいた大坂城西丸に入城する。

輝元の到着に先立ち、秀元率いる毛利勢が大坂城に入っていた。十七日の段階で、毛利家の大坂屋敷にいた秀元が西丸の占領に成功したのである。上坂要請を受けて輝元が広島を出陣するのを合図に、大坂で軍事行動を起こす手筈になっていたことが窺える。

一方、西丸の留守居を務めていた家康の家臣・佐野綱正は何ら抵抗せず、毛利勢に西丸を明け渡してしまう。大坂城を預かる三奉行が三成の挙兵に呼応したことで、抗戦を諦めたのである。

2014年10月27日の大阪城が見える風景
写真=iStock.com/coward_lion
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coward_lion

この時、輝元は広島から大坂までわずか四日で到着している。江戸時代の事例だが、毛利家は江戸への参勤交代の際、大坂までは海路で向かっており、広島近海から大坂まで六~八日を要したという。

この数字を踏まえると、凄まじい急行軍だったことがわかる。家康討伐の総帥の座に一刻も早く就きたい輝元の逸る気持ちが滲み出ている。大坂から報せが入れば、猛スピードで到着できるよう万全の準備を整えていたのだ。そう考えなければ、とても理解できないスピードであった。

恵瓊を通じて三成と挙兵のタイミングを打ち合わせ、諸々の準備を整えていたからこそ迅速に出陣することができた。海路での急行軍も可能だった。自分の露払いのような形で、秀元を大坂城に入城させることもできた。

前年の襲撃事件の際に輝元が軍事支援も辞さない姿勢を示したこともあり、この家康打倒の挙兵にも賛同してくれると三成は踏んでいた。果たせるかな、輝元は挙兵に呼応し、総師の座に就くことを約束する。大軍を率いて、電光石火、大坂城に入った。挙兵は成功した。

しかし、毛利家にも不安材料があった。軍事面を預かる吉川広家の動向だ。その不安は後に的中することになる。

■クーデターに呼応した三奉行

七月十二日、三奉行は輝元に上坂を要請する書状を送ったが、同日、増田長盛は会津へ向かう家康の側近・永井直勝に向けて次の書状を発した。三奉行のなかで家康の信頼が最も厚かった長盛は、上方の異変を急ぎ知らせていたのである。

大谷吉継が病気と称して美濃垂井で二日間逗留している。上方では三成出陣との風評が流布しているので、まずは御一報申し上げる。

そして同時期、三奉行は家康に対し、三成と吉継による不穏な動きを鎮定するため、早々の上洛(上坂)を求める書状も送っていた。上杉討伐は中止し、急ぎ大坂に戻って三成と吉継を成敗してほしいと要請したのである。

すなわち、先の輝元への上坂要請は、三成の挙兵に呼応するよう求めたものではなかった。「大坂御仕置之儀」とは、挙兵を企てている三成・吉継を成敗することであった。まったく逆だったのである。

この段階では、三奉行は三成・吉継の挙兵計画に同調しておらず、逆にその制圧をはかっていた。そのため、会津に向かっている家康を大坂に呼び戻し、広島にいる輝元も大坂に呼び出そうとした。金沢にいた前田利長も、同じく三成・吉継の挙兵を鎮定するため、家康に上洛を求めている(笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館)。

■家康は「官軍の将」から「賊軍の将」に転落した

ところが、三奉行は豹変する。

一転、十七日に三奉行の連名で、家康討伐の方針を打ち出す。家康打倒を掲げる三成の挙兵を鎮定する立場から、挙兵を支持する立場に百八十度転換した。

三成や吉継の説得が功を奏した格好だが、決め手は輝元が挙兵に同意していることであったはずだ。挙兵に呼応するため大坂へ急行していることを伝えられ、家康と袂を分かつことを決める。

三奉行としても毛利家の大軍が家康不在の大坂に向かっている状況では、三成に楯突くことはできなかった。そもそも、家康独裁への危機感は三成と共有していただろう。

安藤優一郎『敗軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)
安藤優一郎『賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)

自分が挙兵の動きを示せば、三奉行は大老の家康や輝元に上坂を要請して封じ込めをはかるに違いない。輝元はそれに乗じて大軍を大坂に送り込み、その軍事力を背景に三奉行を味方に引き入れる。その後、豊臣政権をして家康打倒の方針を表明させる筋書きを三成は立てていたのではないか。その筋書きどおり、事態は進行していく。

こうして、三成が吉継を味方に引き入れてから数日後の七月十七日には、毛利家の軍事力を後ろ盾に、豊臣政権をして家康討伐の方針を表明させることに成功する。

まさに鮮やかな政変、軍事クーデターに他ならなかった。大坂にいた秀家も三成の挙兵に呼応し、輝元を総帥とする西軍に参加する。

この日を境に、家康は“官軍の将”から“賊軍の将”に転落した。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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