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実は秀頼と淀君の助命を受け入れていた…教科書には載っていない徳川家康の豊臣家に対するホンネ

プレジデントオンライン / 2022年11月29日 14時15分

出所=『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』

通説では、徳川家康は大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼそうとしたとされる。名城大学非常勤講師の長屋隆幸さんは「それは違う。家康は幾度も和睦を持ち掛け、秀頼を助命することまで考えていた。明らかに豊臣家を滅ぼすつもりはなかった」という――。

※本稿は、渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■大坂冬の陣で徳川家康が考えていたこと

慶長19年(1614)11月末、家康は諸大名に大坂城を囲ませると共に、自分は茶臼山に陣を置いた。秀忠も岡山に陣を布いた(図表1)。

家康は、力攻めを行っては被害が大きいと考え、これを諸大名に禁じた。その上で、塹壕(ざんごう)や土塁を築き防備を固めつつ前進しやすい状況を作ると共に、築山を築きその上に大砲を配備して大坂城内へ打ち込ませる用意を進めた。

しかし力攻めを完全に制止することはできず、12月4日には家康の命令に背いて加賀藩前田家、彦根藩井伊家、越前藩松平家の軍勢が大坂城の出城である真田丸に攻撃を仕掛け、大敗北を喫している。この命令違反による敗北に対し家康は激怒したという。その後、家康はいよいよ力攻めを厳しく禁じ、諸大名に塹壕・土塁の整備を進めさせている。

このような家康の慎重策に対して秀忠は不満を抱いたようで、期日を定めて全軍で大坂城を総攻撃すべきだと主張したが、家康は小敵を侮るべきではなく、かつ戦わずして勝利を収めるのが良将であると諭したという。

9日、家康は諸大名に毎夜鬨(とき)の声を上げ、鉄砲・大砲を大坂城に撃ちかけて、敵が眠るのを邪魔するよう命じている。12月10日には、大坂城内に向けて降参する者は赦免すると書いた矢文を打ち込み、敵方の動揺を誘っている。16日には、大砲の配備を済まし、大砲の扱いに長けた者を選んで大坂城への砲撃を開始する。

■淀殿を江戸に、秀頼は大和国に転封

城攻めの準備を進める一方で、家康は豊臣方に和睦するよう働きかけている。まず11月中に家康の命令を受けた本多正純が秀頼家臣織田有楽斎に宛てて和睦を受け入れるよう促した。

その結果、12月3日に有楽斎から秀頼らに和睦を受け入れるよう説得するとの返答を得ている。12月8日、有楽斎・大野治長から書状が届き、牢人に寛大な処置を願うことと、転封になった際の秀頼の領地について内意を尋ねてきた。

そこで、家康は牢人の赦免を約束すると共に、秀頼を大和国へ転封させるつもりだと伝えたという。その後、家康は豊臣方に和睦条件として、淀殿を江戸に人質として差し出すか大坂城の堀埋め立てを要求し、牢人についてはお構いなしとすると伝えた。

15日、有楽斎・大野治長より和睦に関して返事があり、淀殿を江戸に人質として差し出すが、牢人を引き続き召し抱えたいので知行を加増して欲しいと要求してきた。

これに対し、家康は牢人に如何なる忠があり、知行を与えないといけないのかと豊臣方を糺(ただ)している。

豊臣秀頼
豊臣秀頼(画像=京都市東山区養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかし、豊臣方がそれについて返答せず、使者を派遣して重ねて要求してきたので、家康は怒って使者を追い返している。なお、豊臣方から四国の内2カ国をくれるのならば大坂を退くとの申し入れがあったが家康はこれを拒否し、安房・上総両国ならば良いと返答したため、不調に終わったとの話も伝わる。

17日、後水尾天皇からの勅使が家康の陣にやってきて、家康が望むのであれば後水尾天皇が和睦の仲介をすると伝えてきたが、家康は天皇の仲介を得て和睦が成立しなかった場合、天皇の命令を軽んじることになるので仲介は不要と答えている。

■和睦を成立させた2人の女性

一旦不首尾で終わった和睦交渉であったが、18日から豊臣方は常高院を、家康は側室阿茶局を代表に立て、和睦交渉を再開させる。

常高院は本名を初と言い、淀殿の妹で、若狭小浜藩主京極高次に嫁ぎ、高次死後に出家して常高院を称した。彼女は姉淀殿が秀頼の母、妹江が徳川秀忠の妻であった関係から豊臣・徳川間の仲介に奔走した人物である。

この交渉の結果、20日に和睦が成立する。

従軍していた林羅山が記した『大坂冬陣記』にこの時家康から秀頼へ出された誓詞の案文が記されている。それによれば牢人については罪に問わない、秀頼の身の安全と知行を安堵(あんど)する、淀殿を人質として差し出す必要はない、大坂城を秀頼が明け渡すならば望み次第の国を与えるとある(笠谷:二〇一六など)。

また、土佐藩山内家に残る覚書では、家康・秀忠に敵対しないこと、大坂城惣堀を埋めること、牢人を召し放つことを秀頼側が約束し、牢人の赦免、所望の国への転封の確約、淀殿か秀頼かが江戸に居住するならば悪いようにはしないことを家康が約束したとされる。

なお、『大坂冬陣記』などによれば大坂城二の丸・三の丸を豊臣方、惣構を徳川方が担当して堀を埋めることも決まる(福田:二〇一四など)。

これらを踏まえると、直ちに履行すべき事項として決まったのは、徳川方による秀頼の地位確認と牢人の赦免、豊臣方による牢人召し放ち、両者による大坂城の堀の埋め立てであったと言える。

その上で、秀頼の転封や秀頼・淀殿の江戸在住について今後内容を詰めてゆくというものだったと推測される。

秀頼の転封ないし秀頼・淀殿の内の一人が在江戸となれば、完全に豊臣家が家康に臣従したことになる。家康は、最終的にこれらの条件を秀頼らに受け入れさせようと考えていたと推測される。

■大坂夏の陣のきっかけ

翌慶長20年(1615)正月、家康は諸大名に命じて大坂城惣堀を埋めさせる。また、豊臣方が担当の二の丸・三の丸の堀埋め立てを遅々として行わなかったので、これも徳川方が代わりに行ってしまったとされる(笠谷:二〇一六)。

2月、家康は駿府に、秀忠は江戸に帰着する。ところが3月に板倉勝重が、豊臣方が兵糧や材木などの軍需物資を集積し始めたことや、牢人達の召し放ちを履行せず、むしろ仕官を望む者達が方々より集まっていることを知らせてくる。

このような情報が入る中、3月15日に豊臣方の使者青木一重らが駿府に来訪して家康に拝謁している。青木らは家康に冬の陣で河内の百姓達が逃げてしまい経済的に困窮して家臣に与える扶持方(ふちかた)に難渋しているので助成して欲しいと願い出た。

家康は直ぐに返事せず、息子義直の祝言があり尾張へ向かうので尾張で返答すると伝えた。なお、同月から家康・秀忠は各城の守衛を定めるなど戦争の準備を進めている。そして、同月末頃に豊臣家に対し軍備を強化していることを咎め、大坂を明け渡して大和・伊勢に移るか、牢人を召し放つかするよう要求している。

4月4日、家康は尾張国名古屋へ向け出発する。途中で豊臣方よりの使者が到着し、大坂を引き払うことを謝絶してくる。また、牢人を召し放たないとのことであった。ここに家康は完全に再戦を決意し、翌6日から7日にかけ諸大名に出陣を命じている。

10日、名古屋につくと豊臣方の使者を引見して牢人を召し放たないことにつき秀頼・淀殿の考えを糺すよう命じた。家康は、12日に義直の祝言を済ますと15日に名古屋を発ち18日に京都に到着している。

■秀頼・淀殿の助命を受け入れた家康

一方、豊臣方は幾つかの派閥に分かれ主導権を争うようになった結果、大野治長が暗殺されかかり怪我をする事件がおきている。

家康は、家臣大野治純(治長弟だとされる)を見舞いとして派遣している。

21日、秀忠が軍勢を率いて伏見に到着。諸大名の軍勢も集まってくる。24日、家康は常高院らに書状を預け秀頼に和睦を持ち掛けている。しかし、豊臣方は和睦を受け入れなかった。

家康は、豊臣方を本格的に攻めることを決め、全軍を大和方面を進む軍勢と河内方面を進む軍勢に分けて進軍し、道明寺辺りで合流する作戦を決める。

家康は秀忠と共に河内方面を進む軍勢を指揮することにし、5月5日に大坂へ向けて出陣している。6日、徳川方の軍勢は道明寺の戦い、八尾・若江の戦いで勝利を収めたが、先鋒の津藩藤堂家・彦根藩井伊家の軍勢が大打撃を受けるなど被害も少なくなかった。

翌7日、家康は天王寺口に、秀忠は岡山口に陣取り、大坂城へ向けて進軍した。豊臣方は、死力を尽くしてこれに抗い、一時期は真田信繁・毛利勝永らが家康本陣まで攻め入り、家康の馬印が臥(ふ)されるまでの激戦となったが、結局衆寡(しゅうか)敵(てき)せず、豊臣方は敗北、大坂城は落城する。

「大坂夏の陣図屏風」・右隻(通称:黒田屏風、大阪城天守閣所蔵、重要文化財)
「大坂夏の陣図屏風」・右隻(通称:黒田屏風、大阪城天守閣所蔵、重要文化財)(画像=黒田長政/大阪城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

豊臣方は、秀忠の娘で秀頼正室千姫を逃がし、彼女を通じて秀頼・淀殿の助命を申し入れた。家康は千姫の願いを受け入れ、秀忠が許可すれば両人を許すと伝えたが、秀忠は断固として受け入れなかった。

8日、秀頼・淀殿は自害して果てる。ここに豊臣家は滅んだ。

■豊臣家を滅ぼすことが目的だったのか

最後に大坂夏の陣に際して、家康は豊臣家を滅ぼすつもりであったのかを考え、本稿のまとめに代えたい。

従来、家康は能動的に豊臣家を滅ぼしたと考えられてきた。しかし近年、家康が豊臣家と折衝を繰り返していることから、滅ぼすことが規定路線ではなかったとの説が出されている(丸島:二〇一五など)。

この点については筆者も、家康は豊臣家を滅ぼす気はなかったと考える。

渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)
渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)

そもそも、家康は豊臣方に無理な要求はしていない。牢人の召し放ちと、淀殿を人質として江戸に差し置くこと、ないし転封を受け入れることという条件は、決して厳しい条件ではない。

慶長4年(1599)に家康暗殺を疑われた前田利長が家康に実母芳春院を人質として江戸に差し出しているように、母を人質として差し出すよう要求することは当時当たり前に行われた。

所領についても秀頼の望む場所への転封を約束しており、最大限譲歩している。

さらに、大坂落城段階で千姫を通じた秀頼らへの助命も受け入れている(秀忠が拒否したため実現はしなかったが)。

■織田信雄になることもあり得た

これらを踏まえるならば、家康は明らかに豊臣家を滅ぼすことを避けようとしている。先にも言及したように、家康にとって秀頼が、秀吉に臣従した織田信雄のように臣従を受け入れたならば充分だったに違いない。

しかし、秀頼は家康からの提案の全てを拒絶したのである。家康が豊臣家を滅ぼすことになったのは、偏(ひとえ)に秀頼の判断ミスと見なすべきであろう。

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長屋 隆幸(ながや・たかゆき)
名城大学非常勤講師
1972年山梨県生まれ。1996年高知大学人文学部人文学科卒業。1999年名古屋大学大学院文学研究科博士前期課程修了。2005年愛知県立大学大学院国際文化研究科博士後期課程満期退学。2006年愛知県立大学にて博士(国際文化)取得。

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(名城大学非常勤講師 長屋 隆幸)

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