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人事担当者は「不採用の応募者」にこそ感謝するべき…「経営の神様」松下幸之助が繰り返し強調したワケ

プレジデントオンライン / 2023年5月17日 10時15分

松下電器歴史館の敷地内に建つ創業者・松下幸之助の銅像=2008年9月22日、大阪・門真市 - 写真=時事通信フォト

松下電器(現在のパナソニック)の創業者・松下幸之助とは、どんな人物だったのか。歴史研究家の河合敦さんは「幸之助はどんなことにも感謝の念をもつべきだと繰り返し説いていた。たとえば採用面接で不採用になった人にも感謝するべきだ、と語っている」という――。

※本稿は、河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■奉公から逃げてきた息子に父がかけた言葉

松下電器(現在のパナソニック)の創業者である松下幸之助は、「経営の神様」と呼ばれ、いまなお彼を敬愛する経営者は少なくない。いったい一代でどのようにして成功したのか。じつはそこには、意外な信念が隠されていたのである。

幸之助は、明治27年(1894)に和歌山県海草郡和佐村(現在の和歌山市)で誕生した。父が破産してしまったので、9歳(満年齢・以下同)のときに大阪へ奉公に出されたが、あまりのつらさに、同じ大阪で働いていた父のもとに何度も駆け込んだ。

しかしそのたびに父は「昔の偉人は、小さいときから他人の家に奉公するなど、苦労して立派になっているのだから、お前も辛抱するんだよ」と励ましたという。この言葉は生涯、幸之助の心の支えになった。

■楽な仕事をわざわざやめて、松下電器を創設

15歳になると、幸之助は奉公をやめて、大阪電灯に配線工の見習いとして入社する。やがてその仕事ぶりを評価され、わずか22歳で工事検査員に出世した。検査の仕事は、1日3時間で終わる楽なものだったが、「商売で身を立てよ」という亡父の言葉に従い、楽な仕事をやめ大正7年(1918)に松下電器を創設したのだった。もし幸之助が自分の地位に満足していたら、「世界の松下電器」は生まれなかったわけだ。

よく知られているように、幸之助が考案した二股ソケットは大ヒットしたが、続いて長時間使える電池式自転車ランプを開発した。これは、電池がそれまでの製品に較べて10倍も長持ちする優れものだった。だから、必ず売れると確信した幸之助は、大量生産に踏み切った。ところが問屋はどこも相手にしてくれなかったのである。

窮地に立たされた幸之助は、ランプの真価を知ってもらおうと、外交員を数名雇って大阪中の自転車販売店に無料で商品を配り、そのさい「品物に信用が置けるようになったら売ってください。その後、安心できたら代金を払ってください」と言わせた。この捨て身の作戦は見事功を奏し、数カ月もすると、販売店から注文が殺到したという。

■「経営の神様」松下幸之助の成功の秘密

ところで、幸之助が経営で大きな成功を遂げたのは、すべてに感謝する心をもっていたことが大きいと思う。

たとえば、幸之助は次のように言っている。

「感謝の念ということは、これは人間にとって非常に大切なものなのですね。見方によれば、すべて人間の幸福なり喜びを生み出す根源ともいえるのが、感謝の心だといえるでしょうからね。したがって、感謝の心のないところからは、決して幸福は生まれてこないだろうし、結局は、人間、不幸になるということですな。感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく。つまり、幸福の安全弁ともいえるものが、感謝の心だといえるわけですね。その安全弁を失ってしまったら、幸福の姿は、瞬時のうちにこわれ去ってしまうというほど、人間にとって感謝の心は大切なものだと思うのですよ」(「幸福を生み出す根源 松下幸之助のことば〈83〉」『若葉』1977年所収、松下幸之助.comより引用)

■感謝する心が人間の幸福や喜びを生み出す

このように幸之助は、感謝する心が人間の幸福や喜びを生み出すと断言する。

だから朝礼などを通じて幸之助は、松下電器の社員たちにもたびたび感謝の大切さを語った。

「社会には(略)貧困病苦に悩みながら、医療を受けられない多数の人のあるのを思ふ時、幸ひ健康で仕事に従事出来る我々は深く感謝の念を持つとともに、又報恩の考へも持たねばならぬ。感謝の念、盛になれば従つて報恩の心も強く、真にこの念を抱くところ、無限の力、勇気が生じるものである。諸君もどうか、常に感謝の念を忘るゝことなく努力奮励せられたい。それが、やがて社会、国家に報恩の行ひとなるのである」(松下電器産業株式会社教務部編『社主一日一話』同部、1941年)

このように幸之助は、健康で仕事ができるという、ある意味当たり前のことにすら感謝の念を持ち、その恩を社会や国家に還元する努力をすべきだというのだ。

■注意や叱責をされて不機嫌になるのは損

また、普通の人なら不快になるようなことにも、感謝しなさいと諭した。

「各人それ〴〵長所もあれば短所もあるのだから、お互に忌憚(きたん)なき注意をし合ふは勿論、長上からの注意叱責(しっせき)等は感謝の念を以て享受せなければならない。この場合も稍(やや)もすれば不愉快な態度を示す者があるが、さやうな人に対しては再び良い事も言へなくなるから、その人の向上は全く行き詰りである。修養の途上にある諸君は、須く長上、先輩の批判注意を愉快に受入れ、進歩向上の実とせられたい」(前掲書)

誰だって他人から注意されたり叱られたりするのは、うれしいはずはない。いくら上司であっても、強く叱責されたら、ついついふてくされた態度をとってしまう人もいるだろう。

けれど、そうなると上司はその人に対して注意を控えたり、その部下を信頼しないようになっていく。つまり、不機嫌になることは、回り回って自分の損になる。だから、他人の注意や叱責も感謝の念をもって素直に受け入れることが大事だというのだ。そうすれば、多くの者が親切で的確なアドバイスをくれるようになり、それがその人を進歩向上させることにつながるのだと考えた。

松下幸之助
松下幸之助(写真=時事画報社『フォト』1961年8月15日号より/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)

■「採用担当者は感謝の念をもって面接しなさい」

さらに幸之助は、「人事採用の担当者は、感謝の念をもって採用面接を実施しなさい」と述べている。ちょっと意図が想像できないが、幸之助は次のように考えたのである。

「採用された者はもちろんだが、不採用になった者も、松下電器を志望したからには我が社に関心をもっているはず。つまり将来、彼らは松下電器の顧客になる人々だから、十分に良い印象を与えるようにしなくてはならない。そのためには、人事採用の担当者は面接のさい、感謝の念をもって応募者に接することが大切なのだ」

なんともユニークな発想だろう。

ただ、いま見てきたように、どんなことにも感謝の念をもつというのは、究極のプラス思考といえるのではなかろうか。

■世界恐慌時も「従業員は1人も減らさない」

昭和4年(1929)から同5年にかけて、アメリカ発の世界恐慌が我が国にも及び、いわゆる昭和恐慌となった。次々と企業は倒産し、町中に失業者があふれていった。もちろん松下電器の売り上げも激減してしまい、倉庫に入り切らないほど在庫を抱えてしまう。

この時期、幸之助は病気で静養していたが、あるとき重役たちが枕元にやってきて、「生産量と従業員を半減したい」という総意を伝えてきたのである。

このとき幸之助が発した言葉は、重役たちの意表を突くものだった。

「生産は半減するが、従業員は1人も減らさない。このため工場は半日勤務とする。しかし従業員には日給の全額を支給する。その代わり全員で休日も廃止してストック品の販売に努力する」と指示したのである。

解雇されるかもしれないとおびえていた松下の社員たちは、社長の意向を知って心から喜んだはず。「松下電器は、どんなことがあっても社員を見捨てることはしないのだ」(松下幸之助著『私の行き方考え方』実業之日本社、1962年)

■山のような在庫をわずか2カ月間で一掃

この安心感が、全社員を奮起させることになった。結果、驚くべきことに、山のような在庫は、社員一人ひとりの必死の努力により、わずか2カ月間で一掃できてしまったのだ。

常日頃、社員たちに感謝の念をもつように指導していた幸之助だが、この逸話からわかるとおり、じつは社長である彼自身が人一倍、社員に対する感謝の念が強かったのである。だからこそ、会社存亡の危機にあっても、ただの一人も解雇しないという断固たる決断がとれたのだ。そしてそれが、社員のやる気に火をつけ、結果として松下電器全体の幸福につながったというわけだ。

■松下電器の創業記念日に込められた決意

さて、そんな松下電器の創業記念日だが、幸之助は昭和7年(1932)の5月5日と定めている。いま述べたとおり、実際の起業から14年の歳月が過ぎている。どうして幸之助は、あえてこの日を創業記念日と定めたのだろうか。

それは、彼が自分の社会的使命に気がついたのが、この年の5月5日だったからだ。

河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)
河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)

「この世の貧しさを克服することである。(略)水道の水はもとより価のあるものだ。しかし道端の水道を人が飲んでもだれもとがめない。これは水が豊富だからだ」(松下幸之助著『夢を育てる』日経ビジネス人文庫、2001年)

突然、そうした啓示を天から受け、幸之助は世の中から貧困をなくそうと決意、その期限を250年後と定め、25年を一節として会社の基礎を固める決意をしたのである。

おそらく幸之助は、松下電器を大きく発展させてくれたあらゆるものに感謝し、日本から貧困をなくし、幸福な社会を実現することが自分の恩返しであると考えたのではないだろうか。

このようにまさに感謝の心は、幸福を生み出す根源なのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)

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