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娘を産む直前に恋人と死別…笠置シヅ子の人生最大の苦境を吹き飛ばす歌として名曲「東京ブギウギ」は生まれた

プレジデントオンライン / 2023年12月29日 8時15分

映画『銀座カンカン娘』(1949)の笠置シヅ子/左(写真=新東宝/PD-Japan-film/Wikimedia Commons)

名曲「東京ブギウギ」はどのようにして生まれたのか。ポピュラー音楽の研究者である輪島裕介さんは「笠置シヅ子は、戦前は『スウィングの女王』と呼ばれたが、戦後は『ブギの女王』となった。戦前から組んでいた作曲家の服部良一は、終戦時、恋人に死なれてシングルマザーとして出産した笠置の苦境を吹き飛ばす曲を考えた」という――。

※本稿は、輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

■戦後の焼け跡と強く結びついた笠置シヅ子の記憶

笠置シヅ子の記憶は、「戦後」と抜き難く結びついている。

1985(昭和60)年に彼女が死去したときの新聞記事の見出しは「焼け跡に明るいリズム」「暗い世相吹き飛ばす」(朝日新聞4月1日)、「戦後世相へリズムのパンチ」(読売新聞同日)、「焼け跡にブギウギ」(毎日新聞同日)というもので、朝日と読売では、「ブギの女王」という形容が、彼女の名前の上に冠されている。

しかし、笠置と作曲家・服部良一のコンビは、音楽的には日米開戦直前、「ラッパと娘」が生まれた時点でひとつの頂点を極めている(少なくとも私はそう考えている)。そして、戦前の「スウィング」と戦後の「ブギウギ」は音楽的には明らかに連続しており、大きな断絶はない。「ブギウギ」のリズムも、後述するように服部は戦中にすでに試みていた。

とはいえ、「スウィングの女王」と「ブギの女王」の意味合いは同じではない。戦前に笠置を支持したのは、東京を中心とする大都市部の中間層以上、とりわけ映画やレコードを通じてアメリカの大衆文化に精通していた層に限られていたと考えられるのに対し、戦後では彼女の人気は地理的にも階層的にもきわめて幅広くなっている。

この2回連続記事では「東京ブギウギ」に至る過程と、笠置シヅ子の代名詞としての「ブギウギ」が演じられ受け容れられ、さらには時代全体の象徴のようにも使われていく文脈の変化と拡大に注目する。

■戦前の「スウィングの女王」が戦後は「ブギの女王」に

敗戦後、笠置シヅ子と服部良一のコンビは、東京では日本劇場と有楽座を中心とする東宝系の劇場を活躍の場とする。笠置が東宝系劇場に出演する経緯や契約関係は不明だが、吉本エイスケと恋愛関係になった戦争末期以降、吉本興業系の舞台にしばしば出演していることが布石となっているかもしれない。

東宝舞踊団(TDA)による日劇での戦後初公演となる『ハイライト』(11月22日から)は、「笠置シズ子の凱歌であった」と翌月の『東宝』で評されている。「ハイライト」に特別出演した「灰田勝彦と笠置シズ子」を表題とする三ページの長い評論で、筆者の榎下金吾は映画宣伝に関わっていた人物のようだが残された文章は多くない。それまでの笠置のキャリア全体を見渡した彼の評言は、ずばりと核心をついているように思える。

あらゆる観客が、好むと好まざるとに関わらず、彼女のダイナミックな「二人で歩けば」に圧倒されたであろう。彼女は正に水に帰った魚であった。過去数年は、陸に上った河童を続けていた観があった。これは得意の「私のトランペット」〔※筆者注「ラッパと娘」の誤りかもしれない〕などのスイングジャズが封じられていたと言う意味ばかりでは無い。他の軽音楽歌手と同じく「笠置シズ子と其の楽団」を組織して歌っていたことは、私は彼女の為に決して取らなかった。笠置シズ子は、レヴュウの中にあってこそ、其の真価を発揮する歌手なのである。コーラスを配し、踊り子の群と共に踊り、豪華な衣装と背景に彩られ、良き演出者に指導されて、始めて其の良さが百パーセント生かされるのである。

■復員した服部良一が企画した舞台に、妊娠中の笠置が主演

この「ハイライト」公演中の12月初旬、服部良一は上海から帰国し、日劇の楽屋を訪れている。服部は1944年6月に陸軍報道班員として宣撫活動に従事していた。自伝によれば、「いかめしく軍刀を腰につるした奏任官佐官待遇」だったが、「音楽家として、自由に外国人と付き合っていただきたい」という指示があったという。自由に振る舞うことが日本の文化的な宣伝になる、ということであって、戦争に加担していなかったということではもちろんない。

そして1947年1月末、笠置が妊娠中に主演した『ジャズ・カルメン』が日劇で初演を迎える。ビゼーの有名なオペラをジャズ編曲で上演するという試みで、服部の提案だった。笠置の自伝によれば、前年の9月に上演する予定が、東宝のストライキで延期になっていたという。

笠置の相手役は藤山一郎が降板し、新人の石井亀次郎が務めた。ちょうど当初の『ジャズ・カルメン』公演予定期間と重なる『音楽の友』1946年10・11月合併号には、服部の自伝的エッセイ「スウィングへの遍歴」が掲載されている。その結びは「今新しい気持でスウィングミュージックの研究にそしてシンホニックジャズにスウィングオペラの製作に夢中になって居ります。思えば戦時中あんなに排撃されたジャズであり、スウィング音楽であったものをと感慨無量の思いが致します」というものだ。

■占領国アメリカの音楽であるスウィングの地位も高まった

『音楽の友』の、しかも「音楽の芽生えの為に」と冠された教訓的記事であり、服部にしてはやや優等生的な記述にも思えるが、大衆性を備えた交響的作品への志向は服部の経歴の中で一貫している。

「戦時中あんなに排撃された」という本人の感慨は偽りのないものだったに違いないが、日米開戦前にはジャズやスウィングは必ずしも「排撃」されていたわけではなく、昭和10年代の服部の「日本のジャズ」への志向とも重なる。むしろ、敗戦翌年の『音楽の友』に、「スウィング」を表題とする服部の自伝が掲載されたことは、戦勝国・占領国アメリカの国民音楽たるスウィングの社会的地位が、日本国内の高尚な音楽界の中で高まったことを示唆する。

クラシック曲のジャズ編曲という方向は、アメリカのシンフォニック・ジャズやセミ・クラシック的な音楽がWVTR(占領軍放送)を通じて容易に耳に入ってくるようになったことが大きな背景として考えられるが、高尚な音楽を大衆化させる、という戦中の啓蒙教化的な「軽音楽」観とも親和的であることには注意が必要だ。

昭和25年にハワイ慰問公演を行った笠置シヅ子(中央)、服部良一(右)
提供=笠置シヅ子資料室
昭和25年(1950)にハワイ慰問公演を行った笠置シヅ子(中央)、服部良一(右) - 提供=笠置シヅ子資料室

■「ジャズ・カルメン」の評判は良くなかったが…

残念ながら、服部が心血を注いだ『ジャズ・カルメン』の評判は芳しくない。「その企画は買えるのだが、現実に舞台に現れたものは至極安易平凡で、新しさとか野心的意図は全く見られないといっていい(略)全体にもっと徹底した近代化が大胆に行われていない点不成功といわざるをえない」(世界日報1947年2月7日)。

主演の笠置も、妊娠中で大きな動きができなかっただけでなく、「歌唱法には初めから限界があり、その上こんどは、いつもの生気がなく、非個性的である」(東京新聞1947年2月5日)。笠置の体調を考えると酷な批評ではあるが、いくらスウィング版とはいえ、そもそも笠置がオペラ曲を歌うのには無理がある。ただ、「もっと徹底した近代化」を望む批評からは、こうした方向性自体は社会的に広く認められていたことが伝わる。

妊娠中にもかかわらず『ジャズ・カルメン』に出演した笠置は公演後休養し、出産直前に恋人エイスケと死別する。恋人を失った悲嘆の中、忘れ形見の愛児・エイ子をひとりで育てる決意を固めた笠置に依頼されて服部が作った新曲が「東京ブギウギ」だった。

■出産直前に恋人と死別した笠置のために「東京ブギウギ」を作曲

「センセ、たのんまっせ」
と言われて、ぼくは彼女のために、その苦境をふっとばす華やかな再起の場を作ろうと決心した。それは、敗戦の悲嘆に沈むわれわれ日本人の明日への力強い活力につながるかも知れない。
何か明るいものを、心がうきうきするものを、平和への叫び、世界へ響く歌、派手な踊り、楽しい歌……。
このような動機と発想から『東京ブギウギ』は生まれたのである。(『ぼくの音楽人生』)

しかし服部が「ブギウギ」のリズムを用いるのは「東京ブギウギ」が初めてではなかった。

服部の自伝によると、「この八拍の躍動するリズムは、ぼくは昭和十七年ごろ、『ビューグル・コール・ブギウギ』の楽譜を手に入れて知っていた」という。服部が「実地応用」を試みたのは、「すでにジャズ禁止の時代に入っていた」1943年の映画『音楽大進軍』で大谷洌子(きよこ)が歌った「荒城の月」においてで、これはラジオの国際放送でも放送したという。

■歌って踊れる「ブギウギ」を流行歌にしようと思った服部

ともかく、服部がブギウギを「アメリカの新リズム」で、ステージで「歌って踊る」ものと捉えていることがわかる。

戦後の『ジャズ・カルメン』でも「トランプのコーラス」「闘牛士の歌」で取り入れている。

「三度、テストは行なっていた。今度は、いつ、ブギのリズムで流行歌を作るかということである」として、「それより少し前」にジャズ評論家で「雨のブルース」の作詞も手掛けた野川香文と夜の銀座を飲み歩いていた際のエピソードが自伝に記されている。「こんな女に誰がした」という歌詞の「星の流れに」がどこからか流れてきて、服部が「焼け跡のブルース、というのはどうだろう」と言うと、野川は、「いや、今さらブルースではあるまい。それに、今はブルースを作る時機ではない。ぐっと明るいリズムで行くべきだ」と答え、それに対して「それならブギウギがいい」と意気投合して「まるでミュージカルの主人公のような足どりで銀座の舗道を踊り歩いた」という。

服部良一氏
服部良一〔毎日新聞社「毎日グラフ」(1950年5月10日号)より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕

このエピソードの中では笠置への言及はなく、「流行歌」と限定していることからも、笠置の「センセ、たのんまっせ」より前だっただろう。実際、服部の作品リストには、「東京ブギウギ」以前の1946年に「神戸ブギ」なる曲が笠置シヅ子で録音されたとある。このレコードは見つかっておらず、発売されなかった可能性もある。いずれにせよ、服部がブギウギのリズムを用いた新曲を計画していたことは疑いない。

■電車の振動音が生んだ名曲「東京ブギウギ」

服部が実際に「東京ブギウギ」の着想を得たのは、「笠置シヅ子の再起の曲を引き受けて間もなく」、コロムビアで「胸の振子」を録音した帰りの終電に近い中央線の中だった。服部楽曲中のメロウでセンチメンタルな方向では一、二を争う名曲(凡庸な評価だが、個人的には「蘇州夜曲」と「胸の振子」がツートップだと思う)を録音した余韻の中で「東京ブギウギ」が発想されたというのはあまりに劇的だ。

レールをきざむ電車の振動が並んだつり革の、ちょっとアフター・ビート的な揺れにかぶさるように八拍のブギのリズムとなって感じられる。ツツ・ツツ・ツツ・ツツ……ソ、ラ、ド、ミ、レドラ……

電車が西荻窪に停るやいなや、ぼくはホームへ飛び出した。浮かんだメロディーを忘れないうちにメモしておきたい。駅舎を出て、目の前の喫茶店『こけし屋』に飛び込んだ。ナフキンをもらって、夢中でオタマジャクシを書きつけた。

■作曲の服部が「東京ブギウギ」の一番大事な歌詞も考えた

輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)
輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)

『サンデー毎日』1948年5月16日号「ブギウギ由来記」にはもう少し詳しく、「『ソラドミレドラ』というテーマメロディ」と「『リズム浮き浮き心ずきずきわくわく』という一種の語呂合せのような詞」が頭に浮かび、「歌詞も無いのに自然に、第二テーマに続くヴァリエーションが流れ出た」という。

そして「この一連の語呂合せのような詞を生かしてこのメロディに相応しい歌詞を書いてくれ」とコロムビアに出入りしていた鈴木勝(まさる)に依頼する。禅をアメリカに広めた鈴木大拙の息子である鈴木勝については山田奨治(しょうじ)『東京ブギウギと鈴木大拙』を参照されたい。クレジット上の作詞家は鈴木だが、「リズム浮き浮き心ずきずきわくわく」という決定的な一行が服部由来であることは重要だ。

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輪島 裕介(わじま・ゆうすけ)
大阪大学大学院人文学研究科教授
1974年石川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究など。著書に『創られた「日本の心」神話「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書。第33回サントリー学芸賞、国際ポピュラー音楽学会賞)、『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)がある。

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(大阪大学大学院人文学研究科教授 輪島 裕介)

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