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ブライアン・イーノが歌う「感情の時代」 最新作『FOREVERANDEVERNOMORE』を考える

Rolling Stone Japan / 2022年10月31日 17時30分

ブライアン・イーノ(Photo by Cecily Eno)

ブライアン・イーノが最新作『FOREVERANDEVERNOMORE』をリリース。アンビエント・ミュージックの提唱者による17年ぶりのボーカルアルバムについて考えた、若林恵(黒鳥社)による仮想対談をお届けする。(協力:佐藤優太、小熊俊哉)


『FOREVERANDEVERNOMORE』はイーノのプライベート・スタジオにて、Dolby Atmosによる立体音響を想定して作曲・制作が行われた。「私は三次元音楽と呼ぶ音楽に長年にわたって取り組んできましたので、とてもエキサイティングに感じています」と本人もコメント。

ツンドラのような冷たさ

─最新作『FOREVERANDEVERNOMORE』がリリースされて3週間ほどが経ちますが、評判は悪くなさそうですね。

そうですね。現在の世界の状況に対するイーノからのステートメントとして、上々の評価のように感じます。

─地球環境をめぐるステートメントというということですよね。

はい。まずはアルバムのアウトラインを理解していただくためにも、いくつかの主要メディアにおけるレビューを見てみましょうか。まずは、The Guardianが10月15日に掲載したレビューです。

 イーノの22枚目となる新作は、環境破壊を感情的に表現している。うねるようなサウンドスケープは憧れと驚きに満ちている。と同時に、悲嘆に胸を締め付けるようなエレガンスもある。「There Were Bells」は、2021年にアテネのアクロポリスで行われたイベントのために作曲され、気温45度の猛暑のなか初演された。「文明の発祥の地で、その終焉を目の当たりにしているような気がした」とイーノはその日を回想している。
 イーノは、怒りや後悔の念を波立たせながらも、深く威厳のある声をもってカメレオンの皮膚のような輝きを放つ。娘のダーラがボーカルを務める豪奢なシングル「We Let It In」は、瞑想的な宝石のようだ。イーノが歌うのを聞くのは感動的だ。これらの曲は個人的で親密で、同時に切迫感を与える。


『FOREVERANDEVERNOMORE』には盟友のレオ・エイブラハムズ、ジョン・ホプキンスに加えて、音楽家兼ソフトウェア・デザイナーのピーター・チルヴァース、ボーカリストのクローダ・シモンズ、弟のロジャー・イーノ、姪のセシリー・イーノ、娘のダーラ・イーノが参加。国内盤パッケージは、環境アクティビストでもあるイーノのメッセージを込め、リサイクル素材と堆肥可能素材を使用。

─いいですね。聴きたくなります。

さらに、The New York Timesが10月13日に掲載したレビューはこうです。

 74歳になったイーノは、賢人のようなストイックな余裕を身にまとっている。この最新作は、イーノがすでに地球の状態に懸念を抱いていた2005年にリリースされた歌中心のアルバム『Another Day on Earth』の宿命的な続編のような作品となっている。本作は、イーノはパーカッシブなサウンドをサステインに置き換え、ほとんどの曲で長いドローンを使用し、古代の神秘的な音楽の伝統を反映する。
 イーノはゆっくりとした聖歌のようなフレーズを歌い、歌詞は鮮明な子音よりも開放母音を好む。ギタリストのレオ・エイブラハムズはしばしば「ポスト・プロデューサー」としてクレジットされているが、彼のプロダクションは、すべてのトラックにおいて、まるで虚空を見つるかのような広大な知覚空間を開いていく。


最新作における自身のボーカルについて、「私は自身のアンビエントのバックグラウンドにも頼りながら、新しい歌、これまで聴いたことのなかったタイプの歌を作ろうと試みています」とイーノはコメント。

─地球環境の問題を、惑星規模のスケールで、しかも、古代から現代へと連なる長い時間感覚において音楽がイメージされているということですね。

そうですね。でありながら同時に内省的であるところもポイントだと、NMEは10月12日のレビューで指摘しています。

 『FOREVERANDEVERNOMORE』は、慰めを与えるアルバムでも絶望を与えるアルバムでもない。むしろ、このふたつの間にある広大な距離を探り、混沌のなかに安定を見出す手段として内省を利用する。このアルバムは、人類の広大な存亡の危機に対する結論や解決策を提示するものではないが、私たちがそれらに取り組むためのスタートを切るための基礎となるものを示してくれる。

─地球環境をめぐる壮大な作品でありながら、明示的な感情やメッセージは必ずしも表出されていないということですね。

そうなんです。本作を「親密な作品」と捉えるレビューもないわけではないのですが、10月18日のPitchforkのレビューの以下の指摘の方が、作品のトーンを正確に語っているのではないかと感じます。

 『FOREVERANDEVERNOMORE』の不思議なところは、その音楽から醸し出される温もりや気まぐれさのなさにある。イーノの最も重要なボーカルベースの1975年のアルバム『Another Green World』でイーノは、世界のさまざまな地形や生態系を「ポップ」な曲を通して斜めから映し出した。それから約50年後、彼は地球を明示的に描くが、そのサウンドは、まるで氷に閉ざされたツンドラのようだ。

─『Another Green World』の人懐っこさや丸みがなく、ひんやりと冷たいテクスチャーだと。

はい。そこは一聴して気になったところなんですね。イーノ特有のモヤった感じ、人肌感がなく、今作はやたらとクリスタルクリアなサウンドに終始していまして、それそれでもちろんクールでカッコいいのですが、微妙に違和感を感じたところです。そして、これはPitchforkが指摘していることですが、イーノが本作をリリースするにあたって発表した375ワードのステートメントのなかで、実に13回も「feelings=感情」ということばを使い、さらにアーティストというものが「『感情の商人』である」とさえ語っているのですが、そのことと、ツンドラのようなサウンドの冷たさの距離が気になるんですね。

─ヘイリー・ウィリアムス(パラモア)のポッドキャストのタイトルがそのまま「Everything is Emo」だったりしまして、「エモ」ということばが何かと使われる時代ですが、そこだけ読むと「イーノもエモかよ」となってしまいそうですが、どうなんでしょうね。

そこをどう考えるかはまさに本作の重要なポイントだとは思うのですが、確かにいまの時代は「感情」の時代だというのは間違いないと思うんです。とはいえ、これまでのイーノは、ポップスやアンビエントとスタイルはさまざまですが、そうした「感情」といったものを切り離して、音そのものと自分の関係──つまり環境──にフォーカスした作品をつくってきたという気もしますので、正直イーノが「感情」を語ることには驚きと戸惑いもありますが、ここではむしろ、そのイーノをして「感情」を語るほどに、「感情」というものが時代の中心的な主題になっていると考えるべきなのかもしれません。


Photo by Cecily Eno

「感情の動き」に耳を澄ます

─ただ、そこでイーノが言っている「感情」というものは、もはやただのクリシェとなりつつある「エモ」や「共感」と本質的には同じだとしても、より深みのあるものと考えられていそうです。

音自体には、そういう意味でのウェットな共感性や、感情に基づく連帯みたいな響きはありませんから、やっぱりここでいう「感情」は、いわゆる「エモ」に、もう少し複雑な襞(ひだ)を与えたものには違いないかと思います。

─そうですね。

ここでいう「感情」というものは、身体的な反射としての感情というよりも、むしろメンタルヘルスの文脈で語られるような心の動きのことを言っていると考えた方がいいのではないかと思うのですが、そこでは、ある感情と過去に負った「傷」や「痛み」といったものが深く関わり合っていると考えられているのではないかと思います。そうした観点から「感情」というものを考えていくと、それは常に過去や記憶というものと結びついた極めて固有性の高いもので、それは「喜怒哀楽」の分類にすんなりと収まるようなのっぺりしたものではないはずなんです。

─なるほど。

韓国ドラマを観ていますと、やたらと食事のシーンが出てくるのですが、驚くのは、そうしたシーンが単なる挿話として置かれるのではなく、むしろ物語の山場となる場合が印象として少なくないことです。そこでは食事というものを通して、それまでの過去の物語が一気に凝縮して涙として表現されることになったりするのですが、そこで表出する「感情」というものは、悲しいとか嬉しいとか一言で言い表せるようなものではなく、むしろことばにならない複雑さを湛えたものなんですね。

─まさに「万感の思い」ということですね。

はい。料理というものは、そうした千々に乱れる感情をひとつに凝縮する媒介の役割を果たすことになるのだと思うのですが、イーノが語る「感情の商人としてのアーティスト」というものは、まさにそうした媒介をつくり出す人であり、その人たちが行う営為を指しているのだろうと感じます。

─その意味では料理人は最も身近なアーティストと言えそうですね。

そうなのかもしれません。

─ちなみにいまお話された韓国ドラマって具体的には何を指して言ってるんですか?

念頭にあるのは『サイコだけど大丈夫』で、このドラマはタイトルからしてお分かりいただける通りメンタルヘルスの問題を扱ったドラマですが、印象的な食事シーンがいくつもありますが、大人気の『ウヨンウ弁護士は天才肌』にもいい食事シーンがありますし、『シスターズ』でも大根の若菜のキムチが重要な役割を担っています。個人的には『操作された都市』という映画で、シム・ウンギョンがつくったご飯を、主人公のチ・チャンウクが食べるシーンが、めちゃくちゃ好きです。

─観てると、こっちも食べたくなりますよね。

そうなんですよね。



─いずれにせよ、記憶や傷と深く結びついたものとしてある感情は、簡単に癒されるものでもないどころか、それを明示的に語ることができるものでもない、ということですね。

だろうと思います。しかもそれは個別にパーソナルなものですから、それを抽象化して共有可能なものにするということは、決して簡単なことではないはずです。ですからイーノが感情というものを本作で扱ったと言っても、それは単純にイーノが自分自身の感情を表出させたということではないですし、ましてや、聴いた人たちが「エモい」気分になれる何かをつくるということでもないはずです。

─といって、ものすごく客観的に色々な感情を音楽で描写したという感じもしません。

近年、特にコロナ禍を経て、アンビエント音楽が改めて非常に面白いものになってきているように思いますし、また、フィールドレコーディングも人気だと言います。例えばフローリスト(Florist)や、クレア・ラウジー(Claire Rousay)、モア・イーズ(More Eaze)、ペリラ(Perila)といったアーティストの作品を聴いていると、音楽スタイルはバラバラですが、共通して自分自身の感情と環境とがどういう風に関わり合っているのかを探っているような感覚がある気がします。ある意味で「エモい」のですが、少なくとも単純な感情のエクスプレッションにはなっておらず、むしろ、自分の感情の動きを聴いて測定するための行為として、音楽づくりがあるような感じがするんです。

─自分の心の動きや感情が、自分のコントロールの外にある、みたいな感覚がありますよね。

そうなんです。自分の感情が自分の知らない未知のものとしてあって、それに耳を澄まそうという態度なんですよね。一種の観察と言いますか。





Photo by Cecily Eno

建築家ではなく、庭師のように考える

─ちなみに、イーノ自身は最新のインタビューのなかで、「このレコードを作り始めたとき、これまで作ってきたような、ある種の音楽風景の中に人間の姿を置いてみたい、と思いました」と語っています。加えて「これは自伝的なアルバムではなく、誰かが作ったかもしれない演劇作品」のようなものだと説明しています。

イーノ的な言葉を使うなら「感情というものは予測不能なものである」という前提で、それとどう向き合うかということを考えたということなのかもしれません。イーノは常にアンコントローラブルなものごととどう向きあうかということに興味をもってきたアーティストだと思いますし、「計画」や「管理」「制御」といった考えから離脱することを長いこと奨めてきました。昨年ロンドンで行われた「In a Garden」というエキシビジョンでは、計画や管理、制御ができない何かと応答しながら何かをつくりあげていくことを、「庭師」に擬えて、こう語っています。

 庭について考え、わたしたちがなぜそれが好きなのかに思いを馳せることは、実りの多い逸脱だった。人はアートを建築のように考えがちだ。つまり、何かをつくる前には必ず「プラン」や「ビジョン」が必要で、それができてからつくり始めるものと想像してしまう。しかしわたしの感覚では、アートの制作を考えるにあたって有用なのは、むしろそれをガーデニングのようなものとして考えることだ。

 あるいは別のところでは、もっと端的にこう語っています。「建築家ではなく、庭師のように考える。つまり、終わりではなく、始まりをデザインする」。


『FOREVERANDEVERNOMORE』には、「Garden(庭)」をタイトルに掲げた曲が2つ収録されている

─かっこいいですねえ。先に名前のあがった近年のアンビエント音楽家を語る上でもしっくりくる表現だと思いますし、そこでは感情というものも、管理や制御のできない庭のようなものと同じように扱われているのかもしれません。

イーノはそうした態度を「委ねる=Surrender」ということばで、これまでよく語っていますが、よくよく考えてみますと、私たちの身体からして、私たちの完全なる管理下に置かれているのかといえば、決してそんなことはないわけでして、例えば、腸内細菌について考えてみればわかるように、自分の意識や意志とは関係のないところで、身体というのは微生物という無数の「他者」による自律的な運動によってバランスが保たれていたりするわけですよね。感情といったものも、そうした「内なる他者」として理解することが大事なのかもしれません。

─イーノは「(環境問題などで)狭まっていく不安定な未来」について考えた上で、「地球を救う唯一の希望は、私達が地球に対して異なる”感情”を抱き始めること」だとも語っていますが、腸活の延長線上に地球を感じるみたいなことを言ってるのかもしれませんね(笑)。

イーノ先生が腸活をしているかどうかは知りませんが(笑)、とはいえこれは決して冗談ではなく、微生物レベルで見れば、人間の身体はまわりの環境とオープンにつながった開放系のシステムですから、それ自体がエコシステムの一部だったりするんですね。『失われてゆく、我々の内なる細菌』という非常に面白い本がありまして、これを読むと、人間が抗生物質のようなものをもって、いかに自らをそのエコシステムから自己疎外してきたかがよくわかるのですが、本来は、これは環境問題というもののひとつの大きな論点であるべきものだと思うんです。

─環境から自分自身を進んで自己疎外している存在が、環境を語るなんてちゃんちゃらおかしい、と。

環境を考えるということは、そういう観点からいくと、どうやったら自分たちがもう一度その環境のなかに「入り直す」ことができるのかということのように思うのですが、それこそがまさにイーノが語る「庭師」の比喩のポイントなのではないかと思います。

─イーノが本作について「これはプロパガンダではない」ということも語っていますが、それはまさに、地球環境というものを「管理」や「制御」の対象として扱うことへの警鐘でもあるわけですね。

だろうと思います。


Photo by Cecily Eno

私の中にいる「私たち」の声

─さらに本作はイーノの17年ぶりの歌ものアルバムですけど、今までの歌もの作品にあったポップさは希薄でして、それはまさに冒頭でPitchforkのレビューが指摘した通りだと思うのですが、本作に限らず、先にあがった音楽家たちの作品を聴いていても、「歌もの」と「アンビエント」の境界線が曖昧になってきている感じがとてもします。

17年前の歌ものアルバム『Another Day On Earth』が出たときに、イーノは「音楽で一番難しいのは作曲だ」と言っていますが、特にメロディと歌詞のある「歌」は、環境的なものであることが難しいものですから、それをどうサウンドのなかに置くのかは、確かに難しいのかもしれません。

─歌が出てきた瞬間に、どうしたってその他の音が背景になってしまいがちですよね。

それこそ、クレア・ラウジーやモア・イーズは、最近盛んに歌ものにチャレンジしていますが、アンビエント的な感覚で歌やメロディを扱うことを実践している感じがあって興味深いです。鼻歌のような、きちんと構造化される前のメロディをフィールドレコーディングとして置いてみたり、あるいはオートチューンを用いて声をバーチャル化したり、と面白いですよね。




─『FOREVERANDEVERNOMORE』は、前半はゴスペルや聖歌を思わせる歌でしたが、後半はオートチューンが印象的に使われていました。そもそもイーノの声ってオートチューンを使わずとも、オートチューン感ありますよね。なんというか実体感のない声です。

無機質というか、中性的というか。聴いていてどういう気持ちになって良いのかよく分からない声。

─ちなみに、ゴスペルとオートチューンというキーワードで言いますと、ジェイムス・ブレイクがデビューした頃、ゴスペルのレコードを聴くのが好きだとインタビューで語っていた記憶がありますが、イーノもゴスペル好きで、今も自分のアカペラグループで毎週火曜に歌っているそうです。

「多声性」というものへの興味ということなんでしょうかね。


イーノが参加した、ジェイムス・ブレイク「Digital Lion」

2012年にエストニア合唱団のコンサートを観て、いたく感激したという記事も残っていまして、そのステージにはイモージェン・ヒープが参加したそうで、彼女の「Hide And Seek」をクワイアとともに歌ったようです。ハーモナイザーを駆使した、いわゆる「デジタルクワイア」の先駆けとなった17年前の名曲です。ちなみにこれは余談ですが、イーノの愛弟子で新作にも参加しているジョン・ホプキンスとレオ・エイブラハムズは、キャリアの出発点がイモージェン・ヒープのツアーバンドだったんですね。

面白いですね。ハーモナイザーやオートチューンの面白さは、その分人性にあると思うんです。トラヴィス・スコットのオートチューンのかかった歌を聴いていると、比喩的に言いますと、SNSのなかで分裂してしまっている自分が表現されているように感じるんですね。




─ああ、わかります。デジタル空間上の自分は、自分だけど自分じゃないみたいな、そういう感覚ですよね。

そういう意味では、イーノのオートチューンも、自分の声を、自分というひとつの主体に収斂されることを拒んでいるところがあるようにも感じます。先ほどの腸内細菌の話ではないですが、内なる他者の存在を認めてしまうなら「わたし」というものは「ひとつの声」に還元されてはならないはずで、むしろ、それは自分のなかの知らない他者の声も含めた、「私たちの声」として表現されないといけないということなのかもしれません。

─私の中にいる私たち。

イーノが、「委ねること」といったキーワードでずっと批判してきたのは、ある意味の近代的な〈個人〉なんだとも言えるかと思います。

─「主体性をもった一貫性あるただひとつの個体であれ」という圧力ですよね。

はい。「説明責任」といったことばがもたらす圧のなかで、みんなが必死になって自分というものを「ひとつの主体」のなかにまとめ上げなきゃいけないという要請はますます強くなっているように感じます。「社会的分断」といったことばが昨今頻繁に語られますが、そうした要請が強まれば強まるほどますます分断が加速していくのも当然ですよね。

─そりゃそうですね。みんながひたすら自分の一貫性にこだわって、変わることができなくなっていくわけですからね。これはいわゆるキャンセルカルチャーにも通底する問題ですね。

前回Rolling Stone Japanでインタビューした際に、イーノは「『川辺にしばらく座って、川の水が流れるのを一緒に眺めよう』という世界を提供する音楽があってもいい」と語ってくれましたが、当事者研究やケアの研究者の熊谷晋一郎さんは人のアイデンティティ/トラウマについてこんなことを語っています。

 アイデンティティには「永続性」と「連続性」のふたつがあるということです。変わることなく自分はこういう存在だと「パターン」として理解される永続性と、一回しか起きないけれど経時的に連続している連続性。そのふたつがアイデンティティを構成します。

─ああ、なるほど。言われてみると川のモチーフですね。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」って。『方丈記』ですね。

イーノには「By This River」という曲もありますが、ここでいう川は、もしかすると自分自身のことなんですね。誰かと一緒に、それぞれが自分という川を眺める。そういう歌なのかもしれません。



ブライアン・イーノ
『FOREVERANDEVERNOMORE』
発売中
国内盤CD:日本限定ボーナストラック「Breaking Down」収録
再生・購入:https://BrianEno.lnk.to/al_FOREVERANDEVERNOMOREWE

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