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〈日本クマ事件簿〉腹部をえぐった爪痕が…逃げても逃げてもヒグマは追いかけてくる。「福岡大ワンダーフォーゲル」3日で6回襲撃の惨劇

集英社オンライン / 2023年6月1日 18時1分

熊撃ち猟師の経験談、専門家の研究成果も参考にし、なぜクマが人を襲うのかを実在した事件から迫った『日本クマ事件簿』(三才ブックス)より、クマが見せた異様な執念が生んだ事件を一部抜粋、再構成してお届けする。

日本最高峰の山で起きた凄惨な事件の予兆

日高山脈の最南端である襟裳岬から、道央と道東の境界となる狩勝峠まで約150キロにわたり、標高1500メートルを超える山が悠々と連なる「日高山脈」。「北海道の背骨」ともいわれるこの大山脈に、事件の舞台となったカムイエクウチカウシ山、通称「カムエク」はある。

カムエクは山脈の主稜線上ほぼ中央に鎮座し、そのピラミッド型の山容から、最高峰である標高2052メートルの幌尻岳を凌ぎ、「日高の盟主」とも呼ばれる日高山脈第二の高峰だ。標高は1979メートル、整備された登山道はなく難所も多いことから、アイヌの言葉で「クマの転げ落ちる山」を意味するその名の通り、山頂までの道のりはとても険しい。


1970(昭和45)年7月14日、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5人のパーティーは、夏季合宿として日高山脈を縦走するべく、北端の芽室岳(清水町)登山口から入山した。13日をかけて、山脈中部に位置するペテガリ岳を目指す計画だった。

入山後は芽室岳を経てルベシベ山、ピパイロ岳、戸蔦別岳と主脈を南下。23日午前10時30分頃、戸蔦別岳と幌尻岳を結ぶ尾根下に広がる七ツ沼カールに到着した一行は、当初の計画から大幅に遅れていることから、残りの日数と食料を鑑みて、今季合宿は途中のカムイエクウチカウシ山で打ち切ることを決めた。

その後、幌尻岳に登頂し、新冠川を経て25日にはエサオマントッタベツ岳と春別岳の山頂を踏んだ。さらに南下し、九ノ沢カールにテントを張ったのは、同日午後3時20分頃だった。この約1時間後に、クマによる一度目の襲撃が起こる。

人を襲わないはずのクマが3度にわたりテントを襲撃

夕食後、全員がテント内で休んでいたところ、テントから6〜7メートル先にクマがいるのを一人が見つける。黄金色と白色の毛並みが目立つ、体長130センチほどのヒグマだ。しかし最初はみな怖がる様子もなく、興味本位で観察をしていたという。というのもこの当時、日高山系でクマの目撃情報はたびたびあったものの、人を襲うということはまず考えられていなかったからだ。もしクマが近づいてきても、大きな声を上げたり、大音量でラジオを流すなどすることで逃げて行くと周知されていた。

クマは離れたところからテントの様子を窺っているようだったが、徐々に接近してきたのち、外に置いていたザックを暴いて食料を漁り始めた。5人は隙を見てテント内にザックを引き戻し、ラジオを流して火を焚き、食器を叩くなどしているうちに、30分ほどでクマは立ち去って行った。

しかし午後9時頃、クマは再び現れる。テントに鼻息を吹きかけ、爪で拳大の穴を開けたが、また姿を消した。その夜はクマの襲撃に備え、2人ずつ2時間交代で見張りをし、午前3時に完全起床。出発準備を終えようとしていた午前4時30分頃、クマは三度現れた。

今度は大胆にもテントに手をかけ侵入しようとしたので、テントが倒れないよう中で必死にポールを握り、幕を掴んだ。5分ほどクマとテントを引っ張り合ったが堪えきれず、5人はクマと反対側の幕を開けて一斉に逃げた。50メートルほど走ったところで振り返ると、クマはテントを倒し、中にあるザックを漁っているところだった。

北海道学園大学のパーティーも
前日午後に襲われていた

再三にわたる襲撃を受け、ハンターの出動要請をかけるべく、5人のうち2人のみが下山した。なぜ全員で下山しなかったのか。それは金銭などの貴重品が入ったザックや、テントを取りに戻りたかったためだったとされている。実際、2人が下りている間に、クマがいなくなった頃合いを見て、残りのメンバーがザックとテントを取り返している。

2人は九ノ沢を下りた先の八ノ沢出合で、北海道学園大学のパーティーと出会った。実は彼らもクマに襲われ、予定を変更して下山している最中だった。

北海道学園大学も夏季合宿として、当初エサオマントッタベツ岳を経由してカムエクを目指していた。福岡大が最初にクマに襲撃された前日の24日に、春別岳の山頂で休憩をしていた5人のパーティーは、笹藪からこちらを見ているクマを発見。クマは人間を怖がる様子もなく、まっすぐに近づいてきたという。

慌ててザックを担いで下山し始めたが、クマもその後を追ってくる。後方10メートルほどまで迫ってきた時に、5人は高さ2メートルある岩に飛び乗った。姿勢を低くしながら唸るクマとしばらく睨み合いが続いたが、次の瞬間、5人の間を割るようにクマが飛びかかる。勢い余ったクマはそのまま反対側の斜面を転がり落ち、すぐさま体勢を立て直して再び襲いかかってきた。5人はザックを先に落として30メ-トルほど走り振り返ると、クマは人間を追うことなくザックの中身を漁っていたという。

かろうじて、5人は全員無傷で生還した。果たしてこのクマが、福岡大を襲ったクマと同一かどうかは定かではないが、日時と場所、攻撃性の高さから、そう見てもおかしくはないだろう。

気がついたら10メートル後方に…
最初の犠牲者が出てしまう

下山途中だった北海道学園大学のパーティーが、ハンターの出動要請を引き受けてくれることになり、2人は「まだ上に仲間がいるから」と再び沢を登って引き返した。

午後1時頃、カムエク近くの稜線で5人は再び合流。鳥取大学のパーティーと出会い、少し会話を交わした後、午後3時頃に標高1880メートル地点にテントを張った。翌日、カムエクをピストンして八ノ沢へ下りるルートが付近にあったこと、また沢よりも高所である稜線上の方がクマの行動をとらえやすく安全だと判断したからだ。しかし、夕食を済ませて寝る準備をしていると再びクマが現れた。午後4時30分頃のことだ。

5人はテントを離れ、1時間半ほど様子を見た後、八ノ沢カールに幕営すると言っていた鳥取大学に合流させてもらおうとして稜線を下り始める。しかし、気がついた時にはクマは10メートル後方まで迫っていた。

「クマだ!」と誰かが叫び、全員が散り散りになりながら逃げていた中、生い茂るハイマツの中で「ギャー!」という悲鳴とともにゴソゴソと格闘している音が聞こえてきた。途端にAがそのハイマツ帯から飛び出して「チクショウ!」と大声で叫び、クマに追われるかたちで足を引きずりながら八ノ沢カールへ向かって走って行った。これが、Aが目撃された最後の場面となる。

その後、リーダーが集合をかけたが、集まったのは3人のみ。30メートルほど下からBの応える声が聞こえたが、姿は見えなかった。

※④~⑪の出来事は八ノ沢カール。参考:『北海道新聞』1970(昭和45)年7月28日(16版)。『日本クマ事件簿』より

「すべてが不安で恐ろしい」仲間とはぐれ
詳細をメモに残す

1人はぐれてしまったBは、翌27日の午後3時頃までは生存していたことが遺品のメモからわかっている。

メモによるとBは、リーダーの声が聞こえたものの判別できず、崖下に焚き火が見えたため下り始めたところ20メートル先にクマを発見。クマが向かってきたため15センチほどの石を投げて命中させ、10メートルほど後退した隙に、下のテント目がけて逃げ込んだが、中に人はいなかった、とある。明朝午前7時、「沢を下ることにする。(中略)テントを出て見ると、5メートル上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる」「いつ助けに来るのか。すべてが不安で恐ろしい」。メモには、クマに襲われる寸前まで、不安と恐怖に駆られながらテントの中で救助隊を待っていた様子が生々しく綴られていた。

一方、集まった3人は鳥取大学のテントに避難。鳥取大学のパーティーは焚き火を起こしてくれたり、ホイッスルを吹いてくれたが、午後7時頃に下山していった。

3人ははぐれたメンバーを探すためだろうか、一緒に下山はせず、安全な場所と思わしき岩場に登って身を隠し、朝が来るのを祈るように待った。その夜は、一睡もすることができなかったという。

27日は朝から霧が濃く、視界は5メートルほどだった。気象条件は決して良いとは言えなかったが、一行は午前8時頃から行動を開始した。15分ほど歩いた頃、一瞬の霧の晴れ間から、下方2〜3メートルにたたずむクマの姿が目に飛び込んできた。一瞬、唖然としたが、「死んだ真似をしろ」と1人が声を上げ、すぐさま身を伏せたもののすでに遅く、クマが恐ろしい唸り声を上げてこちらへ向かってきた。Cが立ち上がってクマを押し退け逃げようとするも、クマも負けじとCに襲いかかる。

Cはクマに追われながら、八ノ沢カールの方へ走り去っていった。
残された2人は反対方向へ懸命に山を下り、五ノ沢の工事現場でトラックに拾ってもらい、無事に下山している。

損傷の激しい3人の遺体を発見…
八ノ沢カールにて荼毘に付す

事件を受け、カムエクをはじめとする日高山脈中部の入山は禁止とされ、十勝岳連盟や帯広警察、猟友会などからなる救助隊が編成された。捜索の結果、29日午後に、Cの遺体が最後に過ごした岩場下方の涸沢のガレ場で、さらに、その100メートル下方のガレ場でAの遺体が発見された。両者ともに顔面の損傷が激しく、頸動脈を切られ、身体中に無数の爪痕が残されていた。腹部をえぐられ、内臓が露出している箇所もあったという。

30日にはBの遺体も発見された。Aの現場から300メートル下方の涸沢だった。天候が悪かったため遺体を下ろすことが難しく、31日午後5時に3人は八ノ沢カールにて荼毘に付された。

3人の命を奪ったクマは、29日午後4時30分頃、八ノ沢カール下方から現れたところをハンターによって射殺されている。2歳6カ月くらいの若い雌で、警戒する様子もなく出てきたという。その後はく製にされたのち、現在は中札内村にある日高山脈山岳センターに保管されている。

1970(昭和45)年7月28日(16版)の『北海道新聞』。『日本クマ事件簿』より

〝所有物〞を取り返すべくクマが見せた異様な執念

なぜ、加害グマは数回にわたり襲ってきたのか。最初のきっかけは、ザックの中に入っていた食料ではないかと考えられている。三度目の襲撃の際に、テントから離れた人間を追うことなくザックを漁っていたことがその理由だ。

そうしてクマは、一度「自分の物」と認識したザックを人間に取り返された=奪われたと感じ、その相手を徹底的に排除するべく執拗に攻撃したのではないか。クマと人間の間で、ザックの行き来が何度かあるうちに、次第にクマの行動も大胆になってきているのがわかる。とりわけ雌は、雄に比べてしつこい傾向にある。

ところでクマは、夏の時季は主にハイマツの実を食べて過ごす。現場付近にはハイマツ帯があったにも関わらず、初めからザックの中の食料を狙っていたことから、もしかすると事件よりも前に人間の食料を口にした経験があったのかもしれない。

北海道の山岳史上で最も悲惨ともいわれるこの事件から50余年。最近では、2019(令和元)年7月に、単独登山をしていた2人が相次いでクマに襲われ、北海道は現在もカムエクの登山自粛を強くお願いしている。

八ノ沢カールには、「高山に眠れる御霊安かれと挽歌も悲し八の沢」と追悼の句が刻まれたプレートが、今も岩場に残されている。


『日本クマ事件簿』

三才ブックス

2022/5/20

1,760円

208ページ

ISBN:

978-4866733159

昨今、ニュースでも話題に上ることの多い、クマによる獣害事件。絶対的対処法のない巨大生物に、人はどう付き合うべきなのか。
本書は、明治から令和にかけて、人がクマに襲われて亡くなった事件のうち、記録が残るものはほぼ全て収録。当時の報道や、関係者の証言から浮かび上がる衝撃の現実。熊撃ち猟師の経験談、専門家の研究成果も参考に、「森の王者」クマの実態に迫ります。

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