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「95人の男と寝た」のちの東大寺トップ(36歳・男)が誓った呆れた言葉…「男色自体については反省もしていない」という指摘も

集英社オンライン / 2023年6月24日 19時1分

学校の授業では決して教えてくれない歴史的な男色の事実から史実を読み解く『ヤバいBL日本史』(祥伝社新書)から、日本の仏教界における男色の歴史を一部抜粋・再構成してお届けする。

彼が三十六歳の時に誓った五か条というのがスゴイ

日本の仏教界では、女犯を避けるため男色が盛んだったというのは有名な話です。

文芸にも枚挙にいとまがないほど男色話は満ちていて、前近代の僧侶が男色にいそしんでいたことは誰もが知る常識に近いものがあります。

が、「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、文芸の男色話に馴れた私も、松尾剛次『破戒と男色の仏教史』で紹介されている実在の人物の交遊ぶりには驚かされました。

彼の名は宗性 (一二〇二~一二七八)。



建仁二(一二〇二)年生まれですから男色盛んなりし院政期、似せ絵の名手として知られる藤原隆信の孫としてこの世に生を受けました。

十三歳で出家した宗性は、のちに東大寺の別当(長官)にまでのぼりつめます。そんな彼が三十六歳の時、誓った五か条というのが凄いのです。以下、松尾氏の前掲書から訳文を引用すると……。

現在までで、九五人である。男を犯すこと百人以上は、淫欲を行なうべきでない

「一、四一歳以後は、つねに笠置寺に籠るべきこと。
二、現在までで、九五人である。
男を犯すこと百人以上は、淫欲を行なうべきでないこと。
三、亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
四、自房中に上童を置くべきでないこと。
五、上童・ 中童のなかに、念者をつくらないこと。」

松尾氏によれば、この誓文は、弥勒菩薩の浄土とされる兜率天への往生を望んで作られたといいます。また笠置寺に籠るというのは隠遁を誓っているといいますが、宗性はのちに大安寺や東大寺の別当に任命されており、結局誓いは守り通すことはできませんでした。

凄いのは、三十六歳の時点ですでに関係した男色相手が九十五人にものぼっていたという点です。しかも宗性は大貴族ではなく中級貴族出身で、当時は大法師という中級クラスの僧侶でした。

松尾氏はそこに注目し、
「男色相手の数については上限を設定しても、男色自体については反省もしていない点や、その数から判断すると、中級の大法師クラスの官僧たちにまでも、男色は一般的であったと考えられます」
「中世の官僧世界における男色関係の広がりの予想外の大きさが推測されることになります」
と指摘しています。

出世してますます男色の機会も増えていく中…

ちなみに上童や中童というのは僧侶に仕える童子のことで、必ずしも子どもとは限りません。この童子には、稚児(上童)と中童子と大童子の三種があって、平安時代の歴史物語『栄花物語』では花山院のお供に大童子の大柄で年輩の者四十人、中童子二十人、召次といった雑事係やもとから院に仕えている俗人どもが奉仕している、とあります(巻第八)。

大童子とは年を取っても童形のまま寺院で働く下働きの者のことで、その序列についても従来は曖昧だったり諸説あったりしたのですが、寺院の童子を詳細に研究した土谷恵によれば、兒(上童)→中童子→大童子の順といい、古典文学での描かれ方を見ても、土谷氏の説が最も納得できます(『中世寺院の社会と芸能』)。

そんなわけで、亀王丸とは宗性が寵愛していた上童(あるいは中童子?)らしいのですが、笠置寺に籠るという誓いも守られなかったわけですから、三十六歳の時点ですでに九十五人と男色関係にあった宗性が、その後、出世してますます男色の機会も増えていく中、百人以上と関係しない……という誓いが守られたとはとうてい思えません。

『古今著聞集』の伝える仁和寺覚性法親王の寵童たち

宗性より少し前に生きた覚性法親王(一一二九~一一六九)も、当然のように男色を嗜んでいました。

覚性法親王は、鳥羽院と待賢門院璋子の皇子で、仁和寺の御室(長官)でした。保元の乱で、同母兄の崇徳院と後白河天皇が敵・味方に分かれ、敗れた崇徳院が彼の留守中に仁和寺に逃れてきた時は、そのことを後白河天皇に告げ(『保元物語』中)、後白河天皇の味方をしています。

覚性法親王には、鎌倉時代の説話集『古今著聞 集』によると、千手という〝御寵童〟がいました。美形で性格も優美で、笛を吹き、今様(流行歌)などを歌ったので、〝甚だしかりける〟寵愛ぶりでした。が、新参の三河という童が、箏の琴を弾き、歌を詠んだりすると、御室(覚性法親王)はこちらも寵愛し、千手の影が少し薄くなったのです。千手は面目がないと思ったのか、退出して久しく参上しませんでした。

御室は我慢できなくなって、千手を抱いて御寝所に

そんなある日、酒宴があり、さまざまな遊びがあった際、その座にいた御弟子の守覚法親王(一一五〇~一二〇二。後白河院の皇子で覚性法親王の甥)が、「千手はなぜおらぬのでしょう。召して笛を吹かせ、今様などを歌わせたいものです」と言ったので、すぐに使いを出して千手を呼んだものの、所労を理由に千手は参りません。

三度目の使いにやっと参上した千手は、目のさめるような装いに身を包みながらも、物思いに沈む様子が明らかで、塞ぎ込んでいました。人々が千手に今様を勧めると、

〝過去無数の諸仏にも すてられたるをばいかがせん
現在十方の浄土にも 往生すべき心なし
たとひ罪業おもくとも 引接し給へ弥陀仏〟

と歌いました。「諸仏に捨てられる」というくだりを少しかすかな声にして歌った様子が、思い余った心の色が表れて、しみじみと胸を打つので、聞く人は皆、涙を流し、その座はしんみりしてしまいました。

御室は我慢できなくなって、千手を抱いて御寝所に入ってしまったので、一同は、御室の極端な行動に大騒ぎになってその夜は明けたのでした。

告げたいものです。私が入ってしまった山の名を

その後、御室が御寝所を見回してみると、 紅の薄様(薄い紙)を二枚重ねにしたものを引き裂いて、枕元に立てた小屛風に張り付けてあります。そこには三河の筆跡でこうありました。

「探して下さるような君でしたら告げたいものです。私が入ってしまった山の名を」(〝尋ぬべき君ならませば告げてまし入りぬる山の名をばそれとも〟)

御室が昔の寵童に心を移したことを見て、こんな歌を詠んだのでした。三河は高野山にのぼり、法師になってしまったということです(巻第八)。

ちなみに平重盛の子に当たる資盛(清盛の孫)は、『愚管抄』によると後白河院に可愛がられて威勢があったため、平家が劣勢になって都落ちする際、院の御意を伺おうと……つまりは院に助けてもらおうとして、清盛の弟の頼盛と共に、比叡山に行幸中の院を訪ねました。

頼盛は、清盛に殺されるはずの源頼朝の命を救った池禅尼の生んだ子です。いわば頼朝の命の恩人の息子である上、院の異母妹の八条院に仕える女房を妻にしており、縁故がありました。

案の定、院から八条院のもとへ行くようおことばがあり、女院にかくまわれることになるものの(もっとも『平家物語』巻第七「一門都落」によると女院はそっけない対応をしたとされています)、資盛に関しては、院に取り次ぐ者もなく、お返事すらもらえずじまいとなった。そのため、一門と共に都を落ちていくことになったのでした(『愚管抄』巻第五)。

ヤバいBL日本史 (祥伝社新書)

大塚ひかり

2023/5/1

1,034円

232ページ

ISBN:

978-4396116798

BLは日本史の表街道である

BL(ボーイズラブ)、すなわち男同士の恋愛や性愛が描かれた作品は、近年のエンタメ業界で存在感を高めている。
こうしたBL作品を理解するうえで欠かせないのが、「妄想力」を土台とする「腐の精神」だ。
そして、これは突然変異で生まれたものではなく、日本の歴史に脈々と受け継がれてきた精神であると著者は言う。
本書は、『古事記』から『万葉集』『源氏物語』『雨月物語』といった古典文学や史料を題材に、「腐」を軸とした鮮やかな解釈で、新しい歴史観を提供するもの。
院政期に男色ネットワークが築かれた本当の理由や、男色の闇にあった差別と虐待の精神史など、これまで語られてこなかった日本史の本質を描き出す。

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