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徳川家康から織田信長など歴代将軍に受け継がれた名刀「大般若長光」。室町時代で既に時価6,000万円!?  戦国から江戸、明治を見つめてきた日本刀の物語

集英社オンライン / 2023年7月2日 19時1分

日本刀の歴史には、合戦を経て受け継がれてきた伝説の名刀がいくつも存在する。その代表格ともいえるのが、「大般若長光」と号された太刀で、今日では国宝に登録されている。NHK大河ドラマ『どうする家康』のキャストで説明すると、古田新太(足利義昭)、岡田准一(織田信長)、松本潤(徳川家康)そして白洲迅(奥平信昌)へと受け継がれた名刀だ。

武田軍に包囲された長篠城

戦国最強といわれた武田氏の騎馬軍団が台頭著しい織田信長・徳川家康の連合軍に大敗したのが、天正三(1575)年の長篠(ながしの)の合戦だ。また、この合戦は鉄砲戦術の威力を証明した戦いでもあった。

合戦の舞台となった長篠城(愛知県新城市)は、元は武田方の長篠菅沼(すがぬま)氏が代々居城としていた。ところが、同元(1573)年、武田信玄が没すると、家康は長篠城を攻めた。このとき、武田方の奥平貞能(おくだいらさだよし)・貞昌(のちに信昌(のぶまさ)に改名)父子が離反し、家康と内通して城の明け渡しに協力している。



その後、長篠城主・菅沼正貞(すがぬままさただ)は降伏し、徳川氏に城を明け渡した。同3年2月、家康はその城主に徳川氏に服属した貞昌を任じた。家康は武田氏の抑え役という大役を弱冠20歳の若き城主・貞昌に委ねたのだ。

一方、信玄亡き後、武田氏の当主となった武田勝頼(かつより)は、長篠城を奪い返そうと反撃に出た。武田軍は足助(あすけ)城(愛知県豊田市)や高天神(たかてんじん)城(静岡県掛川市)を次々と攻落(こうらく)し、同3年4月、長篠城を包囲した。

長篠合戦図屏風(模本)

長篠城は豊川の上流・寒狭(かんさ)川と大野川(宇連川)の合流点、標高60メートルの崖上に築かれた天然の要害(ようがい)だ。しかし、城を包囲する武田軍は1万5千とも1万8千ともいわれ、対する籠城軍の兵力はわずか500。堅城で知られた長篠城とはいえ、落城は時間の問題と思われた。

設楽ヶ原(したらがはら)で決戦が始まる

同年5月、武田軍の攻撃が始まった。猛攻撃が連日続くが、籠城兵は必死に防戦し武田軍を撃退。しかし、やがて劣勢となり、武田軍に兵糧庫も奪われた。貞昌以下籠城兵全員が本丸(ほんまる)に退くと、勝頼は兵糧攻めに出た。

5月14日、貞昌はこの窮地を脱するため岡崎城(愛知県岡崎市)の家康のもとへ伝令を送り援軍を求めることにした。そこで伝令となったのが、足軽の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)だ。強右衛門は敵の包囲網を掻い潜り岡崎城にたどり着くと、家康に長篠城の窮状を訴えた。

すると、家康は信長に救援を要請。信長はただちに3万の軍勢を率いて出陣した。家康も8千の兵力を率いて出陣し、計3万8千の連合軍が長篠へと向かった。18日、連合軍は長篠城の西方に位置する設楽ヶ原(新城市)に着陣(ちゃくじん)すると、武田騎馬隊の攻撃に備え、陣の前面に土塁(どるい)や馬防柵(ばぼうさく)(騎馬の侵入を防ぐ柵)を構えた。

一方、連合軍の到着を知った武田軍は、本陣内で対応を協議。山県昌景(やまがたまさかげ)や馬場信春(ばばのぶはる)など信玄以来の重臣らは連合軍の大軍との戦いを避け撤退することを主張した。しかし、跡部勝資(あとべかつすけ)や長坂長閑斎(ながさかちょうかんさい)は決戦を強硬に訴え、勝頼もまた決戦を望んだ。

19日の夜、勝頼が主力部隊を設楽ヶ原へと進軍させると、翌日の夜、家康は重臣・酒井忠次(さかいただつぐ)率いる別動隊に武田方の付城・鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)(新城市)の奇襲を命じた。この別動隊の奇襲によって主力部隊の後方が混乱した。すると、士気が上がった籠城兵も城を出て攻撃に加わった。

写真/shutterstock

そして、21日の早朝、設楽ヶ原でついに両軍が激突する。従来、この長篠の合戦は武田騎馬隊の怒涛のような波状攻撃を、信長考案の鉄砲隊の三段撃ちで撃破したというのが定説だった。しかし、近年の研究では騎馬軍団の波状攻撃も鉄砲の三段撃ちもなかったという説が有力だ。ただし、連合軍の鉄砲戦術が武田軍の襲撃を阻んだことは間違いないとされる。また、馬防柵の効果も大きかったという。

この合戦で武田軍は山県昌景・馬場信房・内藤昌豊(ないとうまさとよ)など多くの勇将が討ち死し、武田軍は約一万人の死傷者を出した。大敗した勝頼は敗走し、連合軍は長篠城の落城を防いだ。

信長から贈られた名刀

戦後、長篠城を守り抜いた貞昌は、信長・家康の二人から戦功を称えられた。信長は偏諱(へんき)を与え信昌(のぶまさ)と名を改めさせた。また、福岡一文字の太刀・長篠一文字(国宝)を下賜(かし)した。そして、家康は備前長船派(びぜんおさふねは)の刀工・長光(ながみつ)の名刀・大般若長光(だいはんにゃながみつ)を与えた。

「大般若長光(だいはんにゃながみつ) 太刀 銘 長光」鎌倉時代中期より繁栄した備前長船(おさふね)派を代表する長光の傑作とされる名刀で国宝。現在も東京国立博物館に所蔵されている。

大般若長光はもと足利(あしかが)将軍家に伝来した重宝で、室町時代に六○○貫(※現在の価値でおよそ6,000千万円)の高値がついた。仏教の経典・大般若経(大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)の略)が六○○巻だったことから大般若長光という号になったという。

ところが、この名刀は第十三代将軍・足利義輝(よしてる)が三好(みよし)三人衆らに殺害されたとき、三好政康(みよしまさやす)または松永久秀(まつながひさひで)に分捕られてしまった。

その後、信長の手に渡ったが、信長は姉川の合戦で自ら援軍を率いて参戦した家康に感謝し、戦後、この大般若長光を贈った。つまり、家康は盟友・信長から贈られた名刀を惜しげもなく家臣に下賜したわけである。そのくらい貞昌の戦功は、家康にとって大きなものだったのだろう。

貞昌改め信昌に下賜された大般若長光は、子の忠明(ただあき)に引き継がれた。その後、忠明は家康の養子となって「松平」姓を与えられ、江戸時代、大般若長光は武蔵国忍藩(むさしのくにおしはん)(埼玉県行田市)松平家に伝来した。

そして、大正時代になって大般若長光は松平家から売りに出された。これを刀剣蒐集家(しゅうしゅうか)として知られた貴族院議員の伊東巳代治(いとうみよじ)伯爵が購入。伊東は明治から昭和にかけて活躍した官僚・政治家で、伊藤博文のもとで大日本帝国憲法の調査・起草にたずさわった。

伊東は長くこの名刀を愛蔵したが、昭和十六(1941)年、帝室博物館(のちの東京国立博物館)が買い上げ、現在も同館に所蔵されている。


文/刀剣ファン編集部
長篠合戦図屏風(模本)/国立博物館所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-7104?locale=ja
大般若長光/国立博物館所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/E%E7%94%B2312?locale=ja

『日本刀が見た日本史 深くておもしろい刀の歴史』

刀剣ファン編集部

2022/2/27

1,980円

168ページ

ISBN:

978-4635823661

主な内容
1章 古代~室町時代
神話時代の日本刀/蝦夷征伐(坂上田村麻呂の刀)/一条天皇と三条宗近/平将門の乱/源平合戦(薄緑丸)/承久の乱と後鳥羽上皇/蒙古襲来と相州伝の勃興/

2章 戦国時代~江戸時代
川中島合戦/桶狭間の戦い/姉川合戦/中国攻め/長篠合戦/本能寺の変/小田原征伐/朝鮮の役/関ケ原合戦/徳川幕府誕生/明暦の大火/赤穂事件/享保の改 革/池田屋事件/寺田屋事件

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