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裏切りの連続になすすべなく…徳川家康を苦しめ続けた宿敵・武田勝頼が、自らの身を滅ぼすこととなった「賄賂」の享受

集英社オンライン / 2023年7月9日 18時1分

徳川家康の人質時代から関ヶ原合戦までに彼が克服した大きな危機を取り上げて詳しく解説した『徳川家康と9つの危機』(PHP新書・河合敦 著)より、家康を悩ませ続けた武田勝頼の最後を一部抜粋・再構成してお届けする。

長年、武田信玄・勝頼父子との戦いに苦しめられてきた家康

天正十年(一五八二)三月十一日、武田勝頼が死んだ。織田の大軍に攻め込まれ、さしたる抵抗もできずに、逃亡途中に敵の襲撃を受けて自刃して果てたのである。

この一報を耳にしたとき、徳川家康の胸にはどういった思いが去来したのだろうか。

周知のように、家康は長年、武田信玄・勝頼父子との戦いに苦しめられてきた。そういった意味では宿敵であり、憎悪や畏怖の対象でもあったはず。



そもそも武田氏との因縁の発端は、武田滅亡から十四年前にさかのぼる。家康は信玄と盟約を結んで東西から今川領へなだれ込んだものの、信玄が取り決めに反して軍勢を家康の取り分である遠江国まで入れてきたのだ。

不信感をつのらせた家康は信玄と袂を分ち、元亀元年(一五七〇)に越後の上杉謙信と同盟を結んで、武田氏と敵対状態に入った。織田信長が双方の和睦を働きかけようとしたが、家康は頑として姿勢を変えなかった。

嫡男の松平信康を奉じて家康を倒し、織田と手を切り武田と結ぼうとする動き

結果、元亀三年(一五七二)十二月、家康は三方原で武田軍に完膚なきまでに叩きのめされ、あやうく討ち死にしそうになる。もし数カ月後に信玄が逝去しなければ、徳川領の大半は信玄に奪われ、家康自身も大名として存続できたかどうか怪しい。

ただ、信玄の死で徳川家が安泰になったわけではなかった。むしろ逆だった。後継者の勝頼が信玄に劣らぬ勇将で、果敢に徳川領内に侵入してきたため、家康は高天神城をはじめ次々と領内の城を攻略されてしまった。天正三年(一五七五)、信長の後援を得て長篠合戦で大勝したものの、勝頼は短期間で態勢を立て直すや、再び徳川領に入り込んでは家康を悩ませ続けた。

こうした状況のなか、徳川家中では動揺や不満が広がり、嫡男の松平信康を奉じて家康を倒し、織田と手を切り武田と結ぼうとする動きが具体化したようだ。おそらく、勝頼が積極的に工作を働きかけたのだろう。このため家康は天正七年(一五七九)、我が子・信康を生害し、禍根を断たざるを得なくなったという説もある。

勝頼の軽率な行動が原因で、徳川方に有利に傾く

しかし、この頃から情勢は、徳川方に有利に傾いていく。

それは、勝頼の軽率な行動が原因だった。

天正六年(一五七八)三月、越後の上杉謙信が急死すると、謙信の養子の景虎と景勝が家督争いを始めた。勝頼は、小田原の北条氏政の依頼もあり、両者の調停に乗り出すが、途中から賄賂を受け取って景勝に加担。これにより勢いを得た景勝は、景虎を敗死させ、上杉家の実権を握ったのである。

景虎は北条氏政の実弟だったので、激怒した氏政は、武田氏との同盟を破棄し、徳川と結びついてしまった。このため勝頼は、織田・徳川・北条を相手に苦しい戦いを強いられることになった。

武田の弱体化を見て、天正八年(一五八〇)秋、家康は膠着していた遠江国の高天神城攻めを本格化させた。付け城を多く配置して徹底的に城を包囲し、激しく攻め立てたのである。

岡部元信は絶望的な状況のなか、ついに徳川方に降伏を申し入れた。が…

勝頼をこの城におびき寄せて一気にたたくか、あるいは、来援できない勝頼の不甲斐なさを天下に知らしめるのが狙いだったと思われる。

事実、周囲の敵との戦いで、勝頼には高天神城へ後詰に向かう余力がなかった。

高天神城の城将・岡部元信は、絶望的な状況のなか、ついに徳川方に降伏を申し入れた。

そこで家康が城方の意向を信長に打診したところ、天正九年正月、信長は「降伏を認めてはならない」と返答してきた。そこで家康は兵糧攻めを続け、それから二カ月後の三月、高天神城に総攻撃をかけた。進退窮まった城兵は突撃を敢行、六百人が討ち死にし、ついに堅城は陥落した。こうして家康は、遠江一国を完全に掌握したのである。

勝頼の威信は失墜し、武田領内の重臣や国衆たちの勝頼離れが加速化

なお、高天神城を見殺しにしたことで勝頼の威信は失墜し、武田領内の重臣や国衆たちの勝頼離れが加速化する。

こうしたなか、翌天正十年(一五八二)二月一日、勝頼の重臣で一門衆・木曽義昌(妻は信玄の娘)が織田方に内通してきたのだ。そこで信長は、二日後の二月三日、嫡男の信忠に武田領への進撃を命じた。信忠は配下の森長可と団平八を先鋒として木曽口から侵攻させ、十二日、自身も武田攻めの総大将として岐阜城を発し、十六日に岩村口から武田領へ入った。

信長の出陣命令は同じく二月三日、徳川家にももたらされた。そこで家康は駿河口から攻め込むことになった。

なお、信長と同盟関係にあった北条氏政にも、二月十九日に信長から出陣要請がなされた。こうして各地から武田領に織田方の軍勢が侵攻していった。武田征伐の始まりである。

二月十八日、家康は浜松城を出立して同日中に掛川城に入り、さらに二十日に大井川を越えて駿河国に侵入、田中城を落とし、二十一日に駿河府中まで進んだ。

梅雪の裏切りのおかげで、徳川軍はスムーズに甲斐国の八代郡市川へ

同時に家康は、武田一門衆の穴山梅雪(信玄の甥で、正室は信玄の娘)に接触を始めた。梅雪は巨摩郡下山を拠点にしていたが、勝頼の時代に駿河国へ移って江尻城主となり、数年間にわたって最前線で家康と対峙してきた。

だが、信長が総力を結集して襲来してきたので、梅雪は武田の将来を見限り、三月二日、家康の誘降に応じた。梅雪の服属により、その後はほとんど抵抗を受けることなく、徳川軍は興津、「まくさ」を経て三月十日、ついに甲斐国の八代郡市川に入ることができた。

いっぽうの信忠軍だが、武田の諸城は戦わずして開城し、小笠原信嶺などの重臣も次々と降伏を申し出てきた。勝頼の弟・仁科盛信が守る信濃国高遠城は抵抗したが、信忠自身が城の塀際に取り付き、柵を引き破って塀上に上がり、「いっせいに乗り入れよ」と下知したこともあり、三月二日、堅城の高遠城は一日で陥落した。信忠は休むことなく進軍し、翌日、諏訪に到ると、各地に放火。さらに勝頼の籠もる韮崎の新府城を目指した。

ようやく信長が安土城を出立したのは、それから二日後の三月五日のことであった。

信長は、信忠の猛進撃に危惧を覚え、信忠を支援する重臣の滝川一益や河尻秀隆に対し「信忠は若いので、粉骨して名を上げようと気負い立っている。軽率な行動だ。俺が到着するまで先を急がぬよう申し聞かせよ」と命じた。

だが、信忠は父の命を無視し、進撃速度を緩めず七日には上諏訪から甲斐に入ってしまう。そして武田一族や重臣たちの屋敷を襲撃し、隠れ潜んでいる者たちを引きずり出しては成敗していった。

武田勝頼の最期

さて、武田勝頼だが、裏切った木曽義昌を討つべくいったん出陣したものの、その後、穴山梅雪の離反を聞いて居城の新府城へと引き返した。しかし、織田軍の猛進撃を知ると、三月三日に城に火をかけている。この城では敵の大軍を防ぎ切れないと判断したのだ。そして一族や妻子を引き連れ、七百名の家来とともに郡内の小山田信茂の岩殿城へ退避することにした。

ところが小山田氏が土壇場で反旗を翻し、勝頼一行を拒んだのだ。ここにおいて勝頼は自刃を覚悟し、先祖の武田信満が討ち死にした天目山を目指した。

『三河物語』によれば、勝頼に従う人々は激減し、田野という土地(河原)で休息をとっていたところ、滝川一益率いる織田軍の襲撃を受けたという。このとき近臣の土屋惣蔵が鬼神のような働きをして敵を斬りまくり、その間、勝頼は息子の信勝や側室たちと腹を切ったとある。惣蔵は主君らの介錯をしたあと、自らも腹を十文字に割いて果てた。

『信長公記』では、勝頼は田子(田野)にある屋敷に柵を設けて陣を敷いていたが、滝川一益らに見つかったため、勝頼は一族の女と子供をすべて刺殺させた後、部下とともに打って出たという。このときやはり、土屋惣蔵がすさまじい働きをした後、自刃したと記されているが、勝頼の死に様については一切触れられていない。いずれにせよ、勝頼は三月十一日に命を落とし、ここに名族武田氏は滅び去ったのである。

同日、家康は穴山梅雪とともに甲斐国府中(甲)の信忠の陣所に入っているので、ここで武田滅亡を知ったと思われる。

勝頼の首は、滝川一益から信忠のもとに運ばれたが、信忠は関可平次と桑原助六にそれを持たせて信長のところに届けた。三月十四日、信長は下伊那の浪合(『信長公記』では飯田)で首を確認し、京都で獄門にかけるよう命令した。

『徳川家康と9つの危機 』(PHP新書)

河合敦

2022年9月16日

1188円(税込)

‎256ページ

ISBN:

978-4569853048

いま、「徳川家康」像が大きく揺れ動いている!

徳川家康といえば、武田信玄に三方原の戦いで完敗した際、自画像を描かせ、慢心したときの戒めにしたとされる。「顰(しかみ)像」として知られる絵だが、近年、それは後世の作り話との説が出されている。それだけでなく、家康に関する研究は急速に進み、通説が見直されるようになっているのだ。
一例を挙げれば、家康の嫡男・松平信康が自害に追い込まれた事件は、織田信長の命令によるものとされてきた。しかし近年では、その事件の背景に、徳川家内部における家臣団の対立があったことが指摘されているのだ。
本書はそうした最新の研究動向を交えつつ、桶狭間の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、関東移封、関ヶ原合戦など、家康の人生における9つの危機を取り上げ、それらの実相に迫りつつ、家康がそれをいかに乗り越えたかを解説する。そこから浮かび上がる、意外かつ新たな家康像とは――。

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