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幅広い「哲学対話」 仏教思想から宇宙観まで『むすんでひらいて 今、求められる仏教の智慧』玄侑宗久インタビュー

集英社オンライン / 2024年2月9日 12時1分

2001年、『中陰の花』で芥川賞を受賞した臨済宗僧侶の玄侑宗久さん(福島県三春町の福聚寺住職)。仏教や禅を背景にした小説や著作を数多く出してきたが、2月には、「死」や「生」についての広範な哲学対話『むすんでひらいて 今、求められる仏教の智慧』が刊行される。聞き手の哲学者、大竹稽さんと3年近く、メールで丁寧にやりとりしたものをまとめた。

幅広い「哲学対話」仏教思想から宇宙観まで

2001年、『中陰の花』で芥川賞を受賞した臨済宗僧侶の玄侑宗久さん(福島県三春町の福聚寺住職)。仏教や禅を背景にした小説や著作を数多く出してきたが、2月には、「死」や「生」についての広範な哲学対話『むすんでひらいて 今、求められる仏教の智慧』が刊行される。聞き手の哲学者、大竹稽さんと3年近く、メールで丁寧にやりとりしたものをまとめた。


「死」は、コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻で世界的に日常化している。二人とも身近な若者の自死も経験したことから、大竹さんが、死生観にも詳しい玄侑さんに「死の意味」を問いかける格好でスタートした。「生きる意味」を考え合い、いのちや魂の根源、それらを貫く仏教思想・宇宙観にまで対話は深まった。「仏教の魅力は私などの理解を遥かに超える」(玄侑宗久「はじめに」より)、と玄侑さんは言う。
なかでも玄侑さんが強調するのは「華厳」の教えである。人がこの世を支配しているのではなく、山川草木すべてが一つの命から生まれた対等の存在で、全体として生態系を形成していると指摘。いのちは「みんなと一体」で、序列や力による覇権を無化する。これこそがロシアの覇権主義などを「解毒」する教えだと語る。
本のタイトル『むすんでひらいて』は懐かしい児童唱歌からとった。どんな思いが込められたのか。思い込みや自己規定で自らを固く「結ぶ」(自縄自縛)のではなく、自らを「開く」という解放への可能性の話だろうか。人間関係から国際関係に至るまで、「融通無碍」の世界が待っている。

聞き手・構成=土岐直彦/撮影=佐藤祐樹(Grit)

――『むすんでひらいて』というこの本は対話形式ですが、昔で言えば交換日記のような感じです。会ってしまえば3時間ぐらいで終わるものを、1日とか間を措くことによって、質問する側も理解できなかったことを考えたりできる面白い形式の原稿だと思います。先生(玄侑さん)はいかがでしたか?

自分一人では決して考えつかないようなことを問いかけられるので、面白かったですよ。私のなかで未整理だった仏教思想を総点検する作業にもなりました。
実は前に私、岸本葉子さんと「いのち」についての往復書簡の本を出したことがあるんですけど、ほぼ同じ分量なんです。問題は中身ですけど。

―― 聞き手の、仏教についての寺子屋を主宰している大竹さんは、自分が不惑の40歳を超えてもお悩みのようで、それを先生に相談するというスタンスで始まったものが、最後は仏教の奥義、華厳の世界について、わかりやすく語る方向に導かれていきます。初めから意図されていましたか?

いや、意図してはいませんが、うまいことご縁が結ばれていったという感じですね。意図が強すぎるのもどうかと思うし、意図と自然にそうなった部分と、両方ないと面白くないでしょう。でも結局、私が自由に語らせていただいた感じですかね。
「コロナ禍とウクライナ戦争」というテーマから始まるじゃないですか。二つの問題に対する特効薬は「華厳の思想」だろうとは当初から思っていたのですが、それだけでは済まなくなって、話はどんどん深まりつつ広がり、「空」や「唯識」から「渾沌」や「気」、ついには「菩薩道」にまで及んでいます。

他者の命を奪う「戦争」
最初の「殺人」は創世記に!

―― ウクライナ戦争が2022年に始まり、日々テレビの報道やSNSの発信で、死の映像を頻繁に目にします。その前の2020年からのコロナ禍で、日本中の人々が行動制限されて、死が日常にも迫るものとして感じられるような不思議な3年間を、私たちは過ごしました。この本の対話は、こうした時期に行われたのですが、この数年間を通して日本人の死生観は変わったと思いますか?

ううん。例えば東日本大震災で多くの死にわれわれは遭遇しましたけど、それによって変わったという感じはしますよね、とにかく命は大事にしたいという。ところがコロナとウクライナ戦争では、全然そういう方向に向かっていない。日本の国内でも大量殺人とか、あるいは若者の自殺が多く、「命の大切さ」が言われない。
これは何なんだろう、日本中が西洋的な感覚になってしまったのかなと。その説明のために創世記の話をします。神様が創造したアダムとイブが原罪を背負うきっかけはヘビにそそのかされて知恵の木の実を食べたことですが、イブは「ヘビにそそのかされたんだ」と見苦しい言い訳に終始するわけです。

―― それが人類の元祖なんですもんね。

そうそう。しかも、カインとアベルという二人の息子ができて、兄のカインは農業を、弟のアベルは放牧をしていましたが、神へのお供え物をしたら、アベルの方を神は気に入った。ねたんだカインはアベルを殺す、弟をですよ。世界で最初の殺人がそんなに早い時点で起こっているわけです。

―― それも嫉妬による殺人です。

ええ。翻って今、イスラエルとパレスチナの問題も本当に底なし沼に入っていて、非常に憂慮しています。殺戮を正当化する理由はどちらにも幾らでもあります。

―― 殺戮の連鎖は結局、憎しみを次代に持ち越す。それを私たちはライブで映像を見ながらも、自分事として感じられなくなっている。

そう思いますね。それこそ、第三者の死って身に迫らないんですね。それで、他者の命を奪うという「困ったこと」をする人たちが増えてきたんじゃないでしょうか。カインの末裔になっちゃったんですよ。しかも言い訳して、人のせいにして。

―― 生々しい死を隠そうという風潮も、死の重みをわからなくさせますね。例えば東日本大震災において、亡骸がそのままになっているような状況をあえて日本のメディアでは伏せました。また現場で救助活動をされた人たちにはすごく深い悲しみや動揺があったと聞いています。でもそれらを公表することはできなかったと。

できなかったですね。遺体は映さないという自主規制が、明文化されてはいないんですが、あったんですね。ちょうど民放連の集まりに講演で呼ばれて行ったんですが、そこで明らかに自主規制していたっていう話をしていました。

―― 先生の『華厳という見方』というご本にも書かれていましたけれど、そういう忖度を求められているのが今の日本の現状で、閉塞感につながるということなのでしょうか。

ええ。つまり反対の意見の人と話し合う方法を、持ってないんですね。反対の考え、例えば汚染水、福島県の原発からの処理水の処分方法をめぐっても、漁民らとの合意手続き自体を踏まないわけですから。手続き自体を踏まないで、政府が勝手に決めた事を通達したわけです。考えられないですよね。本当に、戦時中と一緒だなという感じですね。

―― 先生は、今の世情の空気というか、昨今の軍備増強などの動きを非常に危ういと思っていらっしゃるんですね。

まあそうですね。

―― コロナ禍のときの「自粛警察」だったり、マスク装着を監視する「マスク警察」みたいなものが諸外国より日本は目立ちましたが、日本は忖度社会ゆえに自主規制で済んでしまうというのは、逆の意味で恐ろしいことですよね。

そうですね。「翼賛会」がいっぱいできたんですね。

―― ああ、戦時中の。そういう名前ではないけれど、(大政)翼賛会的なものが日本のあちらこちらに生まれてしまうきっかけが、コロナ禍での振る舞いにありましたよね。

ええ。仰るとおりだと思います。

「この世のすべては無常」
日本人の死生観のベースに

―― そういったなかで、昔の日本人の死生観は今とは違いましたか。本書では、仏教的な無常観を述べた「いろは歌」を基に解説されています。「いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす」。

日本人の死生観のベースにあると思える考え方です。「あんなに色鮮やかに咲いていた花も散ってしまった。世のすべては無常、それがこの世の定めなのだ」ということでしょう。これはお経の翻訳で、日本人がごく自然にそう思えるというものではないでしょうが、でもあれが流布してみんなが「そうなんだな」と思ったことで、死生観はえらく変わった。平安後期にあんな歌が作られたのは驚きです。
昔は長寿だった人の死に際しても、いろは歌を書いたりしているんですが、「色は匂へど 散りぬるを」ですから、若死にが意識されていると思います。当時、若い方の死が本当に多かったのでしょう。

―― 後半に「有為の奥山けふ越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」とあるのは、今でいうと天国じゃないんですけれど、違う世界に魂が行ってしまうと?

ええ。前半とは視点が反転して、その主体は死に行く本人なのです。人生全体が「夢」として思い返されるということは、死が「目覚め」かもしれないという認識です。覚めたから、もう夢は「見るまい」ということ。苦しんでいるのは見送っている側だという視点がありますから、みんな黒い服を着ているけど「私なんかもう自由よ」といったところです。

―― 先生は僧侶のお仕事も日常なのですが、人間は死んだらすべてがなくなるのではなくて、どこかに魂が残っているというふうにお考えですか。もし魂というものがあるとしたなら、その魂も何らかの循環というか、また何らかの形に。

昔からの考え方では、結局、三十三年で本然忌といって、もともとのほどけた状態に戻るわけです。五十回忌で神になる。だから亡くなってしばらくは、仏になる、ほどけるまでの過程ですよね。
ほどけ切ったら、和魂になるというか、祖霊神になるわけです。そしてまた産土の神になって、子どもになって生まれてきたり、歳徳神になって年始に下りてきたり、農業を守りに来たりというような、循環の思想がそこには感じられます。

―― では、体の循環と同じように魂もきっと循環していると。それで、その魂がつながっているような状態というか、「むすんでひらいて」のタイトルにもつながってくるのでしょうが、心と心、魂と魂がお互いに縁を持ち合う、というのはどういうことなのかなと?

何て言うか、下手な目的を持たなければ否応なく無数の縁と関わるんです。ところがわれわれは、目標というのを常に持とうとする。すると、その目標に向かう最短距離以外は全部切り捨てられます。無限の網の目が無駄になる。そういうことじゃないですかね。

―― 仏教では人の命を奪う殺生がいかにおぞましいかを説いています。

お釈迦さまの「命を大切に」という徹底ぶりってすごいですから。一人っ子のわが子をかわいがるように、ゴキブリもハエも慈しまなきゃいけない。
西洋の神の話に戻すと、アダムとイブが食べた「知恵の木の実」は「善悪の知識の実」と訳す本もあるのですが、命の木と善悪の木の実を神だけが食べていた。それをアダムとイブが黙って食べたので許せなかった。だから善悪の虜なわけですね、神は。
そして神は、アダムとイブを創ったことを後悔する。カインによるアベル殺害のこともあったのでしょう。そこで大洪水を起こして、ノアだけを生き残らせようなんて変な話になるんですけどね。

―― 先生の西洋宗教批判、結構過激です。でもその点、日本の神々はおおらかですね。

私は過激ですよ。だって、カインのアベル殺しってやっぱりひどいですよ。

―― この本のなかで、「神は結ぶもの 仏はほどけるもの」って仰ってるんですが、「むすんでひらいて」というタイトルをお付けになった理由を伺ってよろしいですか。

歌は「結んで開く」と始まりますが、これは神と仏です。神はカミムスビの神やタカミムスビの神を持ち出すまでもなく「結ぶ」ものです。現れること自体を「結ぶ」というわけです。どうすれば現れるかというと、手を拍つんですね。
人間はさまざまな思いを言葉で結びますが、きつく結びすぎて自縄自縛になるのが常です。そんなときのために、今度は「ほどける」仏の登場になります。仏は解脱した存在ですから、私たちにも「ほどけよ」と促します。
私はこの歌を思うと、さまざまな人生の問題って、そんなに簡単に解決できるものじゃなくて、何度も結んだり開いたりしながら向き合っていくものだと思えてくるんですよ。何にでも「一つの正解」があるという今の若い人たちの考えに一石を投じたいというのはありますね。人生はひたすら目的に向かって進み続けるのではなく、結んだり開いたりして、付き合っていくしかない相手でしょう。

――「開く」というのは具体的にいうと?

このためにはこういう方法しかないと思い込んでいたのに、そうでもなかったり、あるいは、こういうふうに進んでいくためにはこんなステップを踏まなきゃいけないはずだという、それも思い込みですが、要は無数の思い込みから解放されることですね。

―― 何かに集中し過ぎてしまうと、ちょっと離れて自分を見るということが難しいというか。思い詰めてしまいがちですよね。大事なことは、一度ほどいて、大事なものを選びなおすということでしょうか?

そうでしょうね、そのとき、そのときで……。もちろん根本的には、あらゆる思い込みから解放してくれるのは「瞑想」ですが。

「華厳の教え」だと
この世のすべてが対等のいのち

―― 先生は本書に「今、求められる仏教の智慧」という副題を付けていらっしゃるのですが、仏教に何を学んでほしいですか。

お釈迦さまが一番嫌うのが「単因論」ですが、こういう状況になったのはこのせいだと、原因を一つに絞り込んでいくことです。それで助かることもあるにはありますが、実際はあらゆる現象は無数の原因の結果です。
結局みんな、「個」があると信じて、「個」というもので悩んでいるわけですが、これは常に関係性のなかで流動するものです。「仮和合」と仏教では言うんですけど、仮に和合したものとしての存在しかありませんから、個の問題としては解決しないんです。諸法無我とも言いますが、だから、全体を緩めてやる、そしてもう一回結んでみる。そこに仏教的な智慧の活かしどころがあると思うんです。
西洋哲学において個というのは欠かせないものになってしまいましたが、東洋哲学では世界の根源を個を超えた「渾沌」(カオス)とみるわけです。

―― 渾沌という概念は西洋にはないと言われています。渾沌を良しとする東洋的な考え方を大切にしたいということでしょうか?

「渾沌」は産みだす力です。西洋の「混沌」は混じっちゃって取り出せないという、無秩序状態ですよね。でも、東洋の「渾沌」はすべてを産みだす母体ですよ。日本神話でも命を産みだす運動の源です。

―― そこで教えていただきたいのですが、「渾沌」は宇宙がビッグバンで生起した極初期の状態や地球の海に命が芽生えた状態を想起させます。つまり、無から有が生まれたということでしょうか?

そこに「縁」が加われば、生起するわけですが、「渾沌」はそうして縁によって姿形を取って来る前の状態ですね。だから、何にでもなれる状態というのかな、iPS細胞のようなものですかね。
私は「気」が通じ合うのも、元々一つの受精卵から分かれた細胞同士だからじゃないかと思うんです。また「量子もつれ」(宇宙物理学用語)は宇宙の端と端であっても起こるだろうと言われていますが、これもビッグバン以前は一つだったからじゃないですか。元は一つだったから、今もつながっているものがあるんじゃないか、そんな気がしてならないですね。

―― 最後に、世界と日本の諸問題の処方箋になりうると先生がみておいでの「華厳の教え」について教えてください。

西洋的な「個性」とか「個人」とかは神と向き合うなかで出来上がってきたものです。しかし、「華厳」的な見方からすると、個人というものは初めから単独では存在しない。「みんな」と一体。ですから私だけが幸せということはありえないんです。八百万の神に喩えるとわかりやすいかと思います。岩があって様々な樹木が生え、そこに川が流れて魚が泳ぎ、鳥も飛んで、全体としてこの世をつくっている。いわゆる生態系ですね。華厳の教えだとすべてが対等の命。みんなが「もちまえ(性)」を発揮しながら「布施」しあっているんです。

―― つまり、生き物すべてが仏性が宿る対等の存在とする「華厳の世界」では、他者の命を奪うような覇権主義はもってのほかだということですね。現実に戦争が拡大している今の状況にこそ、この華厳思想が広まってほしいですね。

ええ。本当にそう思います。

むすんでひらいて

著者:玄侑 宗久、聞き手:大竹 稽

2024年2月5日発売

1,980円(税込)

四六判/272ページ

ISBN:

978-4-08-781748-5

【よりよく生きるために、死と向き合い、人と人のつながりを考える】
ウクライナや中東の戦争の死傷者は増え続け、突然の災害の被害者も尽きない。一方、日本では年間3万人を超える自殺者が年々増えている。「死」は数値化・映像化したものを見るばかりで、「実感としての死」は遠ざかっているのではないか……。そんな今だからこそ、改めて「己や身近な人の死」や「いのちの大切さ」、「人と人とのつながり」について真面目に語り合いたくなる。
「死んだら魂はどこにいくのか?」、「愛する人の死を、どのようにしたら乗り越えられるのか?」、妹のようだった少女の自殺を忘れられない哲学者が、玄侑和尚と生と死に関する対話を重ねることで、いのちの不思議さ、人と人との時空を超えた縁に導かれていく。
寄り道をするように対話は進み、平安時代の「いろはうた」に秘められた日本人の死生観や、突然に自殺をしてしまう人の心境、人生という物語を紡ぐ意味、東洋思想の根本に流れる「気」のはたらきなど、さまざまな話題に展開する。さらに多くの宗派に分かれた日本の仏教の歴史や、ブッダの説話が語る「宿縁」や「縁起」の考え方、輪廻転生ついてなどの仏教の教えが、玄侑先生ならではの現代的でわかりやすい言葉で語られる。
圧巻は、過去・現在・未来のすべての生命や事象がつながりながら変化し続けいていくという「華厳の思想」で、その雄大で深遠な世界観は、これからの時代に「いのちの大切や人と人のつながり」を見つめなおす鍵となるだろう。表題の「むすんでひらいて」は戦後にはやった唱歌だが、その意味するところも奥深い。
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