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シド・ヴィシャスの死後、母が見つけた直筆のメモ「一緒に死ぬ約束をしてたんだ」…パンクのアイコン的存在として君臨した男の劇的な最期

集英社オンライン / 2024年2月2日 18時1分

1979年2月2日にセックス・ピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャスはこの世を去った。過激なパフォーマンスや破天荒な生きざまに多くの若者が憧れ、パンク・ムーブメントの伝説的存在となった彼の最期を紹介する。(サムネイル/1986年発売『Sex Pistols / Sid Vicious – Last Show On Earth / Drugs Kill』(MBC Records)のB面ジャケット)

「今時、アホなラブソングなんて歌ってられるか」に全英の若者が夢中に

1970年代半ば。ロックの商業化や有名バンドのアメリカ逃れ、深刻化する経済不況や失業問題、搾取が蔓延る社会体制への不満などが絡み合いながら、ニューヨークで生まれたパンク・ロックは大西洋を隔てたロンドンで爆発した。



ファッション・デザイナーでブティック経営者のマルコム・マクラーレンという30歳過ぎの野心家は、自分の店にたむろする少年たちにバンドを結成させる。それがセックス・ピストルズだった。マルコムがシナリオを描き、4人のメンバーが演じるプロジェクトのようなもの。

『Agents Of Anarchy 』(アナログレコード/DOL)。写真/shutterstock

インパクトのあるファッションや髪型、ロックの衝動を蘇らせたラフな演奏と反体制溢れる歌詞、レコード会社との違約金目当てのトラブル、各地のライヴ会場での締め出し、TV番組での過激な発言やパフォーマンスは、フラストレーションが溜まった全英の若者たちから熱い支持を得る。

「今時、アホなラブソングなんて歌ってられるか」と言い放ったピストルズの登場によって、イギリス中に次々とパンク・バンドが生まれ、無数のパンクスたちがストリートを歩くようになった。1976〜77年はパンクがすべてになったのだ。

さらに1977年6月、全英チャートでピストルズの『God Save the Queen』が2位に到達。10月には唯一のアルバム『Never Mind the Bollocks』をリリースして遂にナンバー1に。マルコム劇場は頂点を迎える。

『Sex Pistols - God Save The Queen』。Sex Pistols Officialより

しかし翌年1月、アメリカでのツアー中にジョニー・ロットンが突如として脱退。ピストルズはあっけなく失速していく。

その後は残されたメンバー3名(スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、シド・ヴィシャス)で活動は継続されるが、パンク・ロックの牽引的存在としての役割は事実上終えていた。

どうしようもなく面倒で幼い二人だった

パンクが蒔いた種は、インディペンデント・レーベルやニュー・ウェイブの花となってイギリス中に咲き誇ることになる一方で、体制側には“鉄の女”サッチャー政権が誕生する。

そんな矢先の1979年2月2日。4ヶ月前に20歳で世を去った恋人ナンシー・スパンゲンの後を追うように、シド・ヴィシャスが21歳の若さで逝く。麻薬の過剰摂取が原因だった。

ピストルズの二代目ベーシストとして加入後、そのカリスマ性で「シドこそリアル・パンクス」という評価がある反面、「あいつはミュージシャンじゃない」「ただのジャンキーでどうしようもない奴」との声もある。

だが、ステージ上で血まみれになってベースを弾く姿や、エディ・コクランのカバー『Something Else』や『C'mon Everybody』、フランク・シナトラのカバー『My Way』を歌うシドを目にすると、この男がもし生きていたらと、虚しい想像をしてしまう。

ジョニー・ロットンから誘われてピストルズの新メンバーになったシドは、ある日アメリカから来たナンシー・スパンゲンと出逢う。虚言癖があり、ジャンキーで約束も守らない彼女とパンクな日々を送るシドは、まだ運命の関係となることに気づいていない。

2016年12月17日に公開された映画『SAD VACATION ラストデイズ・オブ・シド&ナンシー』(キュリオスコープ)のDVDジャケット。シド・ヴィシャスと、その恋人ナンシー・スパンゲンの破滅的な関係を描くドキュメンタリーだ

次第にドラッグに深く溺れてバンド活動もまともにできなくなっていくシド。ジョニーはナンシーに悪因があることを見抜くが、強気なナンシーはシドと別れない。

アメリカのツアー先でバンドが分裂すると、二人はパリを旅行して『My Way』を撮影後、ニューヨークで暮らし始める。常宿となったのは、作家・ミュージシャン、画家や俳優が居住することで有名なチェルシー・ホテル。

しかし、一歩も外に出ずにベッドでドラッグをやり続けるか、金に困るとギグをするか、その繰り返しだけで時を過ごしてしまう。どうしようもなく面倒で幼い二人は、ナンシーの家族からも煙たがられ、心の居場所を永遠に失う。

金もドラッグも尽きようとした時、悲劇は起こる。

チェルシー・ホテル。写真/shutterstock

シド逮捕、バスルームでは血まみれのナンシーが…

「俺はイギリスに帰ってまともになるんだ」
「できっこないわよ! いつも同じことばっかり!!」
「うるせえ!」

1978年10月13日。シドが目覚めると、ベッドは血の海で、バスルームでは血まみれのナンシーが倒れていた。シドは容疑者となり、警察に拘束される。

シドがナンシーを殺したのか? 凶器となったのはナイフ(シドの所有物)だった。

しかし、そのナイフは指紋が拭き取られている状態で、シドの手元に入ったばかりの
『My Way』の印税2万ドルがすべて無くなっていた。

シドはナンシー殺害とされている時刻には、睡眠薬の過剰摂取によって昏睡状態にあり、医師による調べの中で服用した量から推測すると、少なくとも5時間は意識のない状態だったことが分かっている。

その間、チェルシー・ホテルの二人の部屋には、複数人が出入りしたことも確認されており、彼が昏睡状態だったことが証言されている。

「俺達の間には“死の取り決め”があった」

ナンシー殺害についてはいくつかの説がある。

当時ナンシーにドラッグを売っていた男が、前日には酒代をせびるほど金に困っていた様子だったにもかかわらず、ナンシーが殺害された翌日には新品のブーツとレザーパンツ姿でバーに現れたというのだ。

その他にも、二人が自殺を図り、昏睡したシドを死んだと思ったナンシーが自殺したという説もあるが、これだと指紋が拭き取られて置いてあったナイフと、消えた2万ドルの謎とは結びつかない。

後日、シドはレコード会社(ヴァージン)が多額の保釈金を支払ったことにより保釈された。シドはリハビリ生活を送るものの、精神的にも非常に不安定な状態にあった。

そして翌1979年2月2日。ベッドの上に倒れていたシドを母親が発見。ベッド脇のテーブルにはドラッグを使用していた形跡が残されていた。さらに革ジャンのポケットの中から直筆の遺書らしいメモも発見された。

「俺達の間には“死の取り決め”があった。一緒に死ぬ約束をしてたんだ。こっちも約束を守らなきゃいけない。今から行けば、まだ彼女に追いつけるかも知れない。お願いだ。死んだらあいつの隣に埋めてくれ。レザージャケットとバイクブーツを死装束にして。さようなら」

母親は息子の遺言に従って、ナンシーの遺族にそのことを申し入れたが、強く反対された。後日、人知れず息子の墓を掘り起こした母親は、その遺灰をナンシーの墓に撒いたという。

以降、ファンの間ではナンシーの墓を「シド&ナンシーの墓」としている。その墓標は、アメリカのペンシルベニア州にあるキング・ダビデ・セメトリーの外れにひっそりとたたずんでいる。

文/TAP the POP

引用元・参考文献
・映画『シド・アンド・ナンシー』
・『シド・ヴィシャスの全て VICIOUS―TOO FAST TO LIVE』(ロッキング・オン)/アラン・パーカー (著), 竹林 正子 (翻訳)

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