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「支えてくれた人に背を向けられない」――ブラジルレストランを経営する元プロ野球選手・瀬間仲ノルベルトの波乱万丈人生

集英社オンライン / 2022年6月10日 17時1分

群馬県・大泉町にある「カミナルア」は、元プロ野球選手の瀬間仲ノルベルト氏が経営するブラジルレストランだ。戦力外通告、リーマンショック、震災、コロナ禍と、ここに至るまで、いや今でも瀬間仲氏の前には困難が立ち塞がる。しかし彼はへこたれず、常に前を向く。その波乱満場人生とは。

ブラジルタウン大泉に開いたレストランにコロナ直撃

高級感のあるフロアを回って、テーブル席のお客に笑顔でお客に声をかける大柄な紳士。ポルトガル語と日本語を交えて接客しているのは、この店のオーナーである瀬間仲ノルベルトさん(37)。かつて日本の高校野球では甲子園で活躍し、その後中日ドラゴンズに在籍していた元プロ野球選手だ。引退した今は、このレストラン「カミナルア」を営む。朴訥でやわらかな雰囲気が印象的な紳士である。



「いちばん人気のメニューはパステルですね」

元プロ野球選手で、いまではレストランオーナーとなった瀬間仲ノルベルトさん。堂々たる体躯は現役時代のまま

と、瀬間仲さんが運んできてくれたのはブラジル風のパイ。さくさくに揚がった生地の中に、牛ひき肉や玉ねぎ、チーズ、卵、オリーブなどが入っているブラジルのソウルフードともいえるスナックだが、「カミナルア」のものはとにかくでっかい。一般的なサイズの5倍はあるんじゃないだろうか。巨漢の瀬間仲さんが持ってもなお大きく映る。

「これを食べにわざわざ遠くから来てくれるお客さんもいるんです」

そしてもうひとつのおすすめ「バイアウン・デ・ドイス」は、米と豆を一緒に、スパイスや肉などと炊き込んだもので、瀬間仲さんのパートナーの故郷、ブラジル北部の郷土料理。これまたボリューミーだ。ほかにもさまざまなブラジル料理が並ぶが、コロナ禍のために店の経営はなかなか厳しい。

ブラジル北部の郷土料理、豆と米を炊き込んだバイアウン・デ・ドイス(1250円)

とくに「カミナルア」のある群馬県邑楽郡大泉町はコロナ禍の影響が大きい。ここは1990年代から工場労働者として日系南米人の受け入れを始めた町として知られている。それからおよそ30年、ブラジルやペルーからたくさんの日系人がやってきて、製造業を下支えしてきた。しかし、ほとんどはいまも派遣社員であり、その生活は景気に左右されやすい。とりわけ地域の主力産業ともいえるスバルやパナソニックが減産ともなれば、下請けの町工場で働く日系人がまず影響を受ける。

「操業が止まっているところもあると聞きますね」(瀬間仲さん)

解雇されたり、出勤日が減ったり、あるいは残業ができなくなったり。時給いくらで稼いでいる派遣社員の日系人にとって、勤務時間が減るのは大きな痛手だ。だから外食どころではなく、街にたくさんあるブラジルやペルーのレストランはどこもしんどい。それは「カミナルア」も同様なのだが、瀬間仲さんの顔に暗さはあまり見られない。というのも瀬間仲さんはこれまでずっと、波乱万丈の人生を乗り越えてきたからだ。

ずっとやわらかな表情だったが、大泉町に暮らす日系人たちの境遇に話が及ぶときだけ、厳しい顔つきになった

鮮烈な甲子園弾からプロ入りも、3年で退団

「父がブラジル人とイタリア人のハーフで、母のルーツが沖縄なんです」

母方の祖父母は沖縄からブラジルにやってきた移民だった。明治時代から戦後にかけて、たくさんの日本人が南北アメリカ大陸に移民として渡っていった時代があるのだ。日本がまだまだ貧しく海外雄飛に希望を見出した人たちがいたこと、現地では大規模プランテーションでの労働力を求めていたこともあった。とりわけ本土よりもさらに経済的に厳しかった沖縄からの移民が多かった。第2次大戦では焦土となってしまったため、故郷をあとにする人々はさらに増えた。

こうしてブラジルにはおよそ26万人の日本人が移住し、苦労をしながらも現地の社会に溶け込んでいったが、瀬間仲さんもサンパウロ州トゥパンでそんな一家に生まれた。小さいころから親しんでいたのは野球だ。ブラジルといえばサッカーのイメージが強いが、アメリカからの植民者が野球を持ち込み、それが日系移民たちの間に広がっていった。日系人の母と結婚して日系社会とつながりがあったためか、ブラジル人の父も野球を好んだ。その影響を受けて、瀬間仲さんも自然と野球に親しむようになっていった。

しかし日系人にしてはブラジルの血も濃い顔立ちの瀬間仲さんは、

「日系人の多い野球チームの中ではブラジル人って扱われて、でもブラジル人社会の中では日本人と言われて育ったんです」

と笑う。ハーフゆえの苦労もあったようだが、才能はすぐに開花。中学時代からブラジル代表に選ばれ、4番を打つようになる。国際試合を経て日本でもその打棒が知られるようになるが、実のところ瀬間仲家にとっては経済的になかなかきつかった。野球選手として活動するのに道具やユニフォームなどお金がかかるからだ。

「ブラジルで野球をやるってたいへんなんです。でも両親は苦労しながら応援してくれた。3人きょうだいで一番下なんですが、兄と姉も支えてくれた。だから〝いつかプロ野球選手に〟というのは、自分だけじゃなくて家族の夢でもあったんです」

店内には野球に関する想い出の写真や道具が飾られているが、今はあまりプロ野球も見ないという。「注目しているのは大谷選手くらいですかね」

その夢がかなえられるならどの国でもいいと思っていたが、声をかけてくれたのは日本だった。現地の日系企業の尽力によって建てられた野球アカデミーを経由して、15歳のときに日本の地を踏み、宮崎県の日章学園に入学した。

「はじめは言葉がまったくわからなかったですね」

日系人とはいえ、生まれ育ったのはポルトガル語の環境だ。日本語はほとんど話せない。もともと読書好きなのに、日本の本が読めないことがもどかしかった。日本の街中で書店を見ると、出入りしている日本人の客を羨ましく感じた。野球や学校生活で不便なこともあったが、いつか日本語の本を読めるようになりたいというモチベーションで勉強をはじめた。

「日本語を読みながらわからない単語が出てくると携帯電話で調べて、少しずつ読み進めていく。そんなことを繰り返していました」

その甲斐あって2年目からはだいぶコミュニケーションも取れるようになってきた。そして高校3年の2002年、憧れだった甲子園に出場。ブラジルから観戦に来た両親の前で、ライトスタンドに豪快なホームランを叩き込む。チームは初戦で敗れたが、この一発が注目されて、同年秋のドラフト会議で中日ドラゴンズから7巡目で指名される。家族の夢が叶ったが、そこが野球選手としてのピークだった。

商売のモットー「感謝」を名前にした会社を立ち上げた瀬間仲さん

「プロは本当に厳しい世界でした。2年目に怪我をしてしまって、それからは2軍でも試合に呼ばれることがなくなっていきました」

結局、一軍出場がないまま05年、戦力外通告を受ける。3年間だけのプロ野球選手生活だった。

ブラジル人のための語学学校をつくるが……

野球はやめたが、ブラジルに帰ろうとは思わなかった。

「日本では宮崎の人たちや日章学園の監督さんなど、いろいろな人が支えてくれた。野球がだめになったからといって、その人たちに背を向けて帰ることはできなかった。日本で成功している姿を見せることが、恩返しだと思ったんです。それに、日本が大好きになっていたしね」

新しい道は、野球からだいぶ方向を変えて、教育の分野だった。日本に暮らすブラジル人のための語学学校をつくりたい。それは瀬間仲さん自身が来日したばかりの頃に言葉で苦労したからでもあるし、異国でなかなか成功できない同胞のキャリアアップのためでもあった。

「野球をやっていた時期はとにかく楽しくて本当に幸せな時間だったけれど、自分はずっと野球しかやってこなかったことに気がついたんです。だからまるで違うことをしたいという気持ちも強かった」

そしてブラジルで英語教師をしていた姉が合流し、学校の運営をはじめる。選んだ土地は、宮崎でも名古屋でもなく、ブラジリアンタウンとして知られるようになっていた群馬県・大泉だ。

瀬間仲さんのレストラン「カミナルア」

この街では1990年代から日系ブラジル人が増えはじめた。バブルの好景気の中、製造業の人手不足を埋めるため、日本政府が呼んだのだ。1989年に出入国管理及び難民認定法(入管法)が改正され、「日系2世と3世、その配偶者」が日本に定住し、働けるようになる。この決定を受けて、南米に渡った日本人の子孫が、今度は出稼ぎ労働者として舞い戻ってきた。現地からの逆移民ともいうべき現象だが、とりわけ工場の多い群馬県の大泉は町を上げて日系ブラジル人を誘致した。

彼らは地域の産業の支え手となったが、同時に文化の違いや言葉の問題からトラブルになることも多かった。それに、親についてきた子供たちはブラジル人学校には通っても、日本語を学ぶ機会はあまりない。だから卒業後の進路は限られてしまう。親と同様に工場での肉体労働に従事するか、あるいは道に迷い、グレる子も多かった。そこを、どうにかしたいと思っていた

「せっかく日本にいるんだから、日本語を学んで、日本の教育を受ければ、日本社会の中でのチャンスが広がると思うんです」

加えて、英語を学べば、ブラジルに帰っても選択肢は広がる。そう考えて、瀬間仲さんと姉は日本語・英語を学べる学校を開いた。07年のことだった。

キッチンカーから始めた飲食業

しかし08年、リーマンショックが襲いかかる。世界的な金融危機から消費は鈍り、製造業は軒並みの減産。大泉の主力産業である富士重工業(現スバル)も三洋電機(現パナソニック)も大打撃を受け、その下請けで働いていた日系ブラジル人は次々とクビを切られた。大泉に住む日系ブラジル人の8~9割が無職になった、ともいわれる。当然、教育にお金をかける余裕などなくなる。

さらに11年、今度は東日本大震災が発生。福島第一原発の事故から放射能を恐れた外国人がいっせいに帰国する動きが広がったが、大泉も同様だった。

「せっかく買った家や車を捨てて帰った人もいました。正しい情報を理解して判断するだけの日本語力がない人が多かったんです」

だからこそ学校が必要だと感じたが、肝心の生徒はずいぶんと減ってしまった。そこで、もうひとつなにか経営の柱を……と考えて、飲食に手を広げた。

「最初はパステルの移動販売だったんですよ」

キッチンカーを仕立ててイベントに出店し、パステルを売り歩いた。すると、その大きさや味が話題になって、「店はどこにあるのか」と聞かれることが多くなる。これはいけるかもしれない、と瀬間仲さんは考えた。

「それなら、自分たちで店を構えてみようかと」

広々とした店内。日本人の野球ファンもときどき足を運ぶ

パステルをメインにしたレストランを大泉に開いたのは15年のこと。少しずつメニューを増やし、景気の回復もあって地元のブラジル人のお客も増えてきた。「あの瀬間仲ノルベルトの店か」と日本人の野球ファンもときどきやってくる。ようやく軌道に乗ってきたか……というタイミングで、今度はコロナだった。

「ふしぎですよね(笑)。学校を始めたらすぐにリーマンショックで、学校だけじゃと思って飲食を始めたら飲食を直撃するコロナで」

しかし、瀬間仲さんはさらなる新しい目標をすでに持っていた。

「実は、前から〝トレーダーになりたい〟という夢があったんです。コロナで時間ができて勉強しているところです。けっこう楽しいです」

なんて笑うのだ。どこまで行ってもめげない男なのである。

それでも、この街で暮らす人々のためにという気持ちは変わっていない。学校の運営にも引き続き力を入れている。レストランでの取材時、よく来るのだという家族連れの女の子をかまっていた瀬間仲さんは、しみじみと言った。

「この子は小さいころにブラジルから来て、日本の学校にも通っている。だから日本語もポルトガル語もわかるんです。こういう子たちが、自分たちの代表になってくれればって思います」

(撮影/室橋裕和)

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