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ONから大谷翔平まで!本当のスーパースター20人「凄いにもほどがある!」驚愕証言

日刊大衆 / 2024年5月11日 12時0分

写真はイメージです

「凄いにもほどがある!」驚愕証言昭和の昔から令和の現在まで――。球史に燦然と輝く、数多の巨星たち。その衝撃エピソードを一挙に紹介!

水谷一平ショックも

 日米騒然の“一平ショック”も、どこ吹く風。我らが大谷翔平(29)が早くもエンジン全開だ。

「開幕当初こそ騒動の影響が心配されましたが、そんなものは我々の杞憂だったよう。待望の今季1号を放った4月3日以降は打棒も爆発。開幕16戦15長打のMLBタイ記録をマークした他、さすがの活躍を見せています」(在京スポーツ紙元デスク)

 そんなスーパースターぶりを発揮する大谷は、もはや“凄い”の一語だが、日本プロ野球が誇る歴代レジェンドたちも、“凄さ”にかけては負けていない。

 そこで今回は、球史を彩る新旧スーパースター20人の“凄すぎ”伝説の数々を、関係者の証言とともに届けよう。

王貞治一本足の転機

 まずは、件の大谷の打撃センスに花巻東高校時代から惚れ込み、「僕のホームラン記録を抜く日本人は大谷だろう」とまで“予言”していた“世界の王”王貞治。

 王といえば、代名詞である“一本足打法”を生んだ恩師・荒川博コーチとの二人三脚で知られるが、

「初実戦となった1962年7月1日の時点で“一本足”は実はまだ未完成。試合前の会議で、同僚コーチの別所毅彦氏から“王が打てないから勝てない”と罵倒された荒川氏が、怒りに任せて“今日から一本足で打て”と命じたことが、大きな転機となったんです」(スポーツジャーナリスト)

 半ば“見切り発車”だった、その試合で見事、本塁打を放った王は、初戴冠の同年から、13年もの長きにわたって本塁打王に君臨。

 80年の最終年でさえ、30発を放つ“超人”ぶりで、今なお残る868本塁打の世界記録を打ち立てた。

 王の晩年、75年の中日ドラ1としてプロ入りした田尾安志氏が振り返る。

「巨人戦で塁に出ると一塁の王さんから声をかけてもらえる。まだ若かった僕は、それが嬉しくて頑張ったところもありました。“1-3から1球見逃したけど、『待て』のサイン?”“違うなら、あの球は打ったほうがよかったな”とかね。そういうやりとりはいまだに鮮明に覚えていますよ」

長嶋茂雄カリスマ性は健在

 その王自身が“憧れの存在”と公言するのが、盟友としてともに一時代を築いた“ミスター”長嶋茂雄。

 きたる5月3日の阪神戦では、「長嶋茂雄DAY」と銘打ったメモリアルな一戦が組まれるなど、引退から半世紀を経た今も、そのカリスマ性は健在だ。

「昨秋のファンフェスタに車椅子姿でサプライズ登場した際も、ミスターが自らマイクを握っての“勝つ!”の三唱で東京ドームが一つになった。もし今回も、ご本人登場が叶うなら、チームにも弾みが付きそうです」(夕刊紙記者)

 前出の田尾氏には学生時代に、そのミスターと“初対面”した思い出も。

 75年6月。当時、同志社大に在学中の田尾氏は、懇意にしていたカメラマンの紹介で、2学年下の江川卓(法大)とともに、自宅を訪問する機会に恵まれた。

「巨人が最下位になったのはあの年だけ。長嶋さん自身、監督1年目で大変な思いをされていたはずなのに、気さくに接してくれてね。

 日米大学野球出場のために、その足でアメリカに発つと話したら、帰り際に“お土産でも買いな”と500ドルを持たせてくれた。まだ1ドルが300円ぐらいの時代ですから、学生には大金。それをドル紙幣でというのも、スマートで格好よかったですね」

“ID野球”野村克也

 そんな国民的人気を誇る華やかなミスターに強烈な対抗心を燃やしたのが、“実力のパ”を象徴した“ノムさん”こと野村克也だ。

 ストライクゾーンを9分割した“野村スコープ”や、今では投手必須のクイック投法といったノムさん由来の“発明”は数知れず。

 経験とデータの蓄積に裏打ちされた代名詞たる“ID野球”は、現代野球のあり方そのものをガラッと変えたと言ってもいい。

「自らを“月見草”と卑下していましたが、通算安打は張本勲さん、本塁打・打点は王さんに次いで、いずれも歴代2位。監督としても、同5位の1565勝を挙げるなど“名選手、名監督にあらず”の定説を覆した不世出のスターであるのは間違いない。テスト入団から三冠王にまで昇りつめる選手など、今後も、そうは現れないでしょう」(前出のジャーナリスト)

 ストライクゾーンを9分割した“野村スコープ”や、今では投手必須のクイック投法といったノムさん由来の“発明”は数知れず。

 経験とデータの蓄積に裏打ちされた代名詞たる“ID野球”は、現代野球のあり方そのものをガラッと変えたと言ってもいい。

「自らを“月見草”と卑下していましたが、通算安打は張本勲さん、本塁打・打点は王さんに次いで、いずれも歴代2位。監督としても、同5位の1565勝を挙げるなど“名選手、名監督にあらず”の定説を覆した不世出のスターであるのは間違いない。テスト入団から三冠王にまで昇りつめる選手など、今後も、そうは現れないでしょう」(前出のジャーナリスト)

落合博満は三冠王3回

 そのノムさんに代わり、80年代のパ・リーグで一躍、台頭したのが孤高の天才打者・落合博満。

 三冠王に輝くこと最多の3回。その卓越した打撃技術には、関係者からも「今の大谷でもかなわない」との声が上がるほどだ。

 野手転向後に薫陶を受けた愛甲猛氏が、プロ1年目に感じた凄みを、こう語る。

「あれは川崎球場での南海戦。抑えの金城(基泰)さんから、オチさんがレフト最上段にサヨナラ本塁打を放ってさ。

 その直前、初球の真っすぐに空振りしたのに違和感を覚えて本人に聞いたら、“よく気づいたな。ドカ(香川伸行)は、空振りした球を決まって、もう1回要求すんだよ”と。そのとき思ったよ。この人は、なんて恐ろしい人だって」

 その後、愛甲氏が野手として頭角を現した86年には、こんなやりとりも。86年と言えば、落合が2年連続50号&三冠王を手にした、まさに全盛期だ。

「川崎での阪急戦。ちょうど左翼から右翼に強風が吹いていてね。代打で出た俺が佐藤義則さんから右翼席に一発。次の打席でも引っかけながらもスタンドまで運んだことがあったんだよ。

 そしたらオチさんが珍しく褒めてくれて“分かっただろ、猛。風が吹く方向に打てば、ああやって簡単に入るんだよ”だって。そこまで読んで狙えたら、俺ももっと打ってるよね(笑)」

“鉄人”衣笠祥雄の連続試合出場世界記録

 他方、“鉄人”衣笠祥雄によって、連続試合出場の世界記録が塗り替えられたのも、この86年。全試合出場は翌年の引退まで、実に17年連続。2215試合連続出場は、今も燦然と輝く日本記録だ。

 後輩を連れ歩くことなどめったになかった衣笠に、ことのほか目をかけられたという西山秀二氏が言う。

「僕が広島に移籍したのが87年だから、全盛期のキヌさんは直接知らないけど、身近に金本(知憲)という存在がいただけに、試合に出続けることの大変さは分かる。

 金本なんかも、痛いそぶりはおくびにも出さない。骨折で見るからに指が曲がっているときでも“ハリのいい先生がおるから、それで治す”って、そのまま次の試合にも出てたしね」

 そんな西山氏が垣間見た、衣笠本人の凄さは、酒の席での“鉄人”ぶり。2人で食事に行って、ワインを3本。衣笠一人でボトルを2本、空にしてしまうこともあったとか。

「一度、麻布十番の行きつけのバーに連れて行ってもらったときは驚いたね。一口飲んだだけで火を噴くぐらい度数の強いカクテルがあって、それをキヌさんはお気に入りだって、平気な顔をして立て続けに5杯ほど頼んでいた。

 僕もお酒は好きだけど、そこが1軒目じゃないからね。とてもじゃないけど、あれは、よう飲まなかったよ(笑)」

 とはいえ、そこは国民栄誉賞の人格者。どれだけ深酒をしても、荒れることは一度もなかったという。

「酒の席はもちろん、球場の内外でも、声を荒らげる姿は一度たりとも見たことがない。誰が相手でも接し方は丁寧で変わらないし、いつもニコニコして、とにかく野球談義が大好きでね。人としても尊敬できるところしか、なかったね」

“ゴジラ”松井秀喜

 西山氏といえば、並み居る強打者と数多の名勝負を繰り広げた広島の正捕手。中でも「凄かった」と語るのが、96年8月27日の巨人戦。“ゴジラ”松井秀喜から打たれた一発だ。

「内角に要求した紀藤(真琴)さんの速球を狙い打ちされてね。インパクトの瞬間の、何かが潰れたようなものすごい音は今でも耳に残ってる。あんな金属バットみたいな音は後にも先にも、あの一度だけだしね」

 瞬く間に広島市民球場の場外に消えていった豪快な一発には、さすがの赤ヘルナインもなすすべはなし。直後、集まった内野陣からも、ただ感嘆の声が上がっただけだったという。

「確か、正田(耕三)さん、野村(謙二郎)さん、それと江藤(智)だったと思うけど、思わず誰もが“凄かったなぁ”“あんだけ打たれたら気持ちええやろ”と。僕の配球が悪かったと言われたら、それまでやけど、あれは忘れられないね」

“安打製造機”イチロー

 その松井の1学年上で同時期にブレイクしたのが、世界を驚かせた“安打製造機”イチローだ。

 愛知出身の彼は、幼少期は中日ファン。中でも憧れたのが前出の田尾氏だ。

「“チチロー”こと宣之さんからも、“子供の頃は、よく真似をしていた”“ウチにある野球選手のサインは田尾さんだけ”なんて言ってもらえてありがたい限りですけど、プロでの実績は比べるのもおこがましいほど、彼のほうが凄い。まだ2軍の無名選手だった頃から、その片鱗は一目ですぐに感じましたからね」

 それは解説者の田尾氏が、オリックスの宮古島キャンプを訪れたときのこと。まだ若かった田尾氏は、その場で、打撃投手を買って出ることがよくあった。

「2人相手にして、そのうちの1人が、1軍に帯同していた当時2年目とかの彼でした。その頃から芯に当てるのがうまくて、“おやっ?”とは思ったけど、当時はまだ重心が前足に乗りすぎているような構えでね。

 その場でそこを指摘したら、次に見たときはもう“振り子”に変わっていた。そこからの活躍は皆さんもご存じの通りですよ」

レジェンド投手、江夏豊

 では、投手はどうか。復活も待ち遠しい、投手・大谷との比較で、しばしば名前の挙がるレジェンドと言えば、やはり江夏豊か。

 本人いわく「カーブは阪神に入ってから覚えた」。実質ストレート1本でドラ1指名まで勝ち取っているのだから、とてつもない。

 日本ハム時代を間近で見ている前出の愛甲氏は、現役晩年でも「凄かった」オーラを、こう表現する。

「カートに乗って登場する姿からして威圧感がハンパじゃない。今風に言うなら、あれぞ“ラスボス”。“顔で抑える”ってよく言うけど、晩年の江夏さんはホント、そんな感じだったね」

 その威圧感の凄まじさを物語る逸話もある。広島在籍時の巨人戦のことだ。同僚からそそのかされた中畑清が、彼との対戦で審判にボールチェンジを要求したことがあったという。

「土でボールをこねるのが江夏のルーティン。それを知る巨人ベンチは、何も知らない中畑をあえてけしかけたわけです。怒った彼はマウンドから降りて、“10年早は ぇんだ”と一喝。

 その形相に縮み上がった中畑は次に来たクソボールで空振り三振に倒れ、スゴスゴとベンチに帰ったとか」(前出のジャーナリスト)

黄金期の阪急の大エース・山田久志

 そんな江夏とは両極端な存在が、黄金期の阪急を支えた大エース・山田久志。

 その折り目正しさは細部にまで至り、関係者によれば「試合前は鏡の前でベルトからはみ出る上着のたゆみまで、ミリ単位で整えていた」ほどだったとか。

「悲壮感すら漂う武骨な村田(兆治)さんを間近で見ていたから、余計に山田さんがスマートに見えてね。

 まるでスーツを着ているかのように、いつもビシッと格好がよかった。俺が中日に行ったときにちょうどコーチでいたけど、それこそ、ネクタイが曲がっている姿なんて一度も見たことがなかったしね」(愛甲氏)

野茂英雄と佐々木主浩がドラフト1位でプロ入り

 その山田の引退から1年後、平成屈指の“大豊作ドラフト”となった89年には、のちに全米を席巻する野茂英雄、佐々木主浩が、ともに1位でプロ入り。

 プロ1年目の90年から4年連続で最多勝に輝いた野茂に対し、佐々木は、その野茂の渡米と時を同じく、95年から4年連続“大魔神”として君臨した。

「打者心理からすると二つに一つ、というのは逆に難しい。野茂や佐々木のように仮に真っすぐとフォークしかなくても、それが、どちらも一級品なら、そう簡単には打てっこないよ」

 こう指摘する愛甲氏によれば、野茂は「細かいコントロールはなかったが、フォークは落とし方を変えて、巧みに投げ分けていた」。

 一方の佐々木も、カウントによって落とす角度を自在に操っていたという。

「96年の日米野球で組んだけど、彼のフォークは途中まで軌道が真っすぐと同じ。打者からすれば、本当に“消える”ように見えたはず。本人いわく、ストライクを取りたいときは捕手のマスク、決めにいくときは膝を目がけて投げていたようだね」(前出の西山氏)

 今の大谷があるのも、レジェンドたちが築いたプロ野球の礎があればこそ。色褪せないレジェンドたちの偉業に思いを馳せるのも、プロ野球の醍醐味だ。

【画像】綺羅、星の如し、今も輝きを放つ名選手たち

※名前の下の数字は通算成績。

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