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【桟原将司連載#3】思い出の6年生大会で優勝! その後の世界大会で日本初Vに貢献したのに…

東スポWEB / 2024年5月10日 11時9分

泉尾東小学校時代のユニホーム姿

【桟原将司 ハナの剛腕道中(3)】泉尾東小学校2年で野球を始め、その2年後の4年生の頃には野球好き過ぎる自分の父が、僕も所属していた4年生のチームの監督になっていました。

6年生には総監督がいて4年生の担当が父という図式ですね。父は高校に入ってからすぐに野球部を辞めたそうですが、野球経験者ではあるそうです。どんな大会かは分からないですが、父が勤務していた会社が出場した草野球大会に出て首位打者を獲得したそうです。自宅にもトロフィーが飾ってありました。

6年生の大会では忘れられない思い出もありました。220チームが出場する大きな大会があって、決勝戦の当日に父方の祖母が亡くなったんです。

父は朝方に泣きながら、試合に同行するのは無理になったからと、実家に帰っていきました。当然、自分のお母さんですからね。そこから総監督と父が連絡を取って、チームの指揮を代わってほしい旨を伝えていました。

決勝戦ではこれまで勝ったことのないチームと対戦して勝つことができました。僕と、バッテリーを組んでいたあだ名が「ゴリラ」の捕手と2人で打ちまくって乱打戦を制し優勝することができました。スコアは10―9みたいな試合だったと思います。試合が終わってから僕は祖母の元に金メダル持って優勝の報告にいきました。

その後、各地区の連盟から1、2人が選ばれ大阪代表候補選手がノミネートされました。総勢50人ほどが集結しテストを経て13人の大阪代表が選出されました。そこに僕も選んでいただきました。国際的なルールにのっとって7月以降の誕生日が同学年とみなされて、選手が選ばれたのも覚えています。

日本代表は大阪代表、北海道代表、関東東北大会優勝、準優勝チームの4チームで構成されていました。正確なことは記憶にないですが、開催地の東京・江戸川区の連盟がホストという形で運営されていて、僕はその時の大阪代表のエースとして投げさせてもらったんです。世界各国から16チームが集結し、2日間大会で優勝チームを決める形態でした。

僕たち大阪代表はその大会で結果的に世界一になります。全4試合を戦ったのですが、そのうち3試合で僕は登板させてもらいました。先発完投、連投が当たり前の当時であっても小学6年生に4試合というのは、投げさせ過ぎだという認識があったんでしょうね。というわけで僕は決勝戦には投げず野手として出場しています。

1回戦で韓国代表と対戦し僕は結構、打たれちゃったんですけどサヨナラヒットを打ったんです。2回戦は中国代表で僕が投げて2―1で勝利。で、3回戦にはメキシコ対策で軟投派の投手を用意していたんですが、そこを撃破した開催国日本代表Bチームのオール江戸川と対戦してしまい勝利。決勝の台湾戦は僕は投げずにレフトを守っていて、日本初優勝となったのですが…。

少年野球あるあるで、大会での表彰が決勝戦しか反映されてなくてMVPとか最優秀投手賞、首位打者などたくさんの受賞者が選出されたにもかかわらず僕は何もなしに終わるというオチで。ただ、地元に帰ってから「桟原のおかげで世界一になれた」と言われて盾を作ってもらったんです。それはうれしかったので思い出に残っています。

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