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今年の大阪アジアン映画祭を振り返る エドワード・ヤン“映画界入り初仕事作品”の貴重な裏話も【アジア映画コラム】

映画.com 2024年4月21日 15時0分

 今年も大阪アジアン映画祭(第19回)に参加してきました。同映画祭のプログラミングディレクター・暉峻創三(てるおか・そうぞう)さんとお話する機会がありましたが、今年は“予想以上の応募本数”だったそうです。

 「本当に驚きました。応募本数が、とても増えたんです。もちろん毎年少しずつ増えていますが、今年はきちんと統計できていませんが、3割以上は増え、1300本を超えています。非常に良いことだとは思いますが、今回は逆に悔しさを感じています。時間が本当に足りない――見たい作品がもっとありました」

 毎年、大阪アジアン映画祭に参加していますが、一番感じているのは“映画祭への絶対的信頼”です。「大阪アジアン映画祭で上映される作品なので、絶対見に行く」という方がたくさんいて、平日の回でも、会場は多くの観客で賑わっています。一方、出品する側も大阪アジアン映画祭での上映は、多くの観客への披露だけでなく、日本での配給の可能性、さらに海外映画祭への展開にもつながっていきます。

 暉峻さんは、大阪アジアン映画祭が注目される理由について、このように話しています。

 「コロナの時期でも“一度も止まっていなかった”ということが大きいと思います。コロナ以前には、ほかにも似たような映画祭が多かった。ですが、コロナの影響で多くの映画祭が止まったり、オンライン開催になったりしましたよね。大阪アジアン映画祭は毎年スケジュール通り、フィジカル開催を実現していました。映画祭への信頼度なども一気に上がったと思っています」

 今年の特集のなかでは「タイ・シネマ・カレイドスコープ2024」が非常に注目されていました。特に、昨年タイ国内でさまざまな記録を更新したコメディホラー映画「葬儀屋」は、大阪アジアン映画祭で日本初上映。総勢40人以上のゲストが来日し、映画祭を盛り上げました。

 タイ映画業界の変化に関して、暉峻さんも詳しく語ってくれました。

 「今回の一番の大きな目玉は『タイ・シネマ・カレイドスコープ2024』です。いまタイ映画界は激変していて、タイ映画はどんどん新記録を作っている。昨年、タイ映画の市場シェアは、これまでの20%から40%に上がりました。そういう意味でも、タイ映画特集を組めるのは、タイミング的にも非常に良いと思いました。それと、タイ政府が映画文化を海外に積極的に発信したいと動き出しています。おそらく、韓国の成功を見て、多くのヒントを得たのではないかと。しかも、海外発信に関しては、今までは政府主導でしたが、いまでは民間の専門家や映画業界の人々も一緒に参加し、国家ソフトパワー戦略委員会という組織が設立されました。この国家ソフトパワー戦略委員会は、大阪アジアン映画祭を非常に評価し、ベルリン国際映画祭、ロッテルダム国際映画祭とともに、タイ映画の海外発信展開における“3つの重要映画祭”の1つに選ばれました。今回はタイから多くの映画人が大阪に集まり、THAI NIGHTも盛大に開催されました。非常にいい経験でしたね」

 オープニングを飾ったのは、今年の旧正月に公開された香港エンタメ大作「盗月者」。大阪アジアン映画祭は、もともと香港映画に高い関心を持っていました。大作やインディーズ作品を含め、香港の最新作をいち早く映画祭で紹介しています。近年、日本でも新世代の香港映画への注目度は上がっていて、ほかの映画祭でも最新の香港映画が上映されています。今年の大阪アジアン映画祭でも、素晴らしい香港映画が数多く上映されました。

 「香港新世代の映画は日本国内における他の映画祭でも上映されています。まだまだ面白い作品が結構ありますし、いまの香港映画界は本当に元気ですね。スペシャル・オープニングの『盗月者』に関してもお話しましょう。いままで大阪アジアン映画祭では、人気アイドルグループ『MIRROR』の出演作を何本か上映しましたが、基本的にヒューマン・ドラマ系の作品が多かった。ところが、今回の『盗月者』は完全にエンタメ大作。昔のチョウ・ユンファ映画のような感じなので、ある意味、本当に新しい時代が来たと感じました。しかも、本作は日本の銀座でロケを行っているので、かなり“アジア”なんです」

 映画祭期間中、「盗月者」のユエン・キムワイ監督と話しました。“日本と香港のスタッフの考え方が全く違う”と前置きしながらも「一緒にいい映画を作るという目標は同じ。銀座で香港映画が撮れたのは、非常にいい経験だった。今後はもっと日本の映画人と映画を作りたい」と振り返っていました。

 そして、今年の大阪アジアン映画祭のラインナップの中で、おそらく最も注目されていたのは、エドワード・ヤンの記念すべき映画界入り初仕事作品「1905年の冬」(脚本&出演)でしょう。

 「今年『1905年の冬』を上映できたのは、一番嬉しいこと。この映画に関しては、以前から自分も見たかったですし、どこかの映画祭で上映されるかどうかをずっと調べていました。でも、この映画は作られた当時からほとんど正式に公開できていなかったんです。本作の監督ユー・ウェイチェンの弟・ユー・ウェイエン(エドワード・ヤン作品『クー嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』『エドワード・ヤンの恋愛時代』『ヤンヤン 夏の想い出』などのプロデューサー)は長い付き合いです。彼や、そしてエドワード・ヤンにもこの作品について色々聞いていたんですが“プリントがどこにあるのかはわからない”という答えでした。長い年月が経ち、やっと台湾電影資料館が本作を修復したと聞いて、すぐ動き、日本での公開を実現しました」

 「『1905年の冬』について感慨深いのは、本作が台湾ニューシネマの起源となる作品であり、しかも日本で撮影され、日本の物語という点で、これがより意義深いと思います。日本人のスタッフも多く『1905年の冬』の撮影に参加しました。今回の上映で、監督と事前に相談したら、80年代はメールやSNSなどはないので、日本人のスタッフとは誰とも連絡が取れていない状態でした。こちらとしては、上映だけでは少々寂しいので、人探しも始めましたね。色んな人脈を使って、やっと今回の上映イベントを実現することができました」

 「1905年の冬」は3月2日、シネ・リーブル梅田で日本初上映されました。トークイベントには監督のユー・ウェイチェン、評論家で映画監督でもあるラウ・シンホンが登壇しました。2人は撮影当時の秘話を披露しながら、撮影から40年以上が経ったにも関わらず、日本で上映できたことに“非常に感無量だ”と語っていました。また上映時には、本作に携わった俳優やスタッフも観客と一緒に作品を見ていました。これは歴史的瞬間と言ってもいいと思います。

 上映終了は、23時過ぎ。観客の方々は帰ろうとはせず、ロビーで足を止め、監督たちと「1905年の冬」やエドワード・ヤンのことなどを楽しく話していましたね。本当に素敵な時間でした。

 そして今回は、ユー・ウェイチェン監督にインタビューを依頼したところ、短い滞在時間にも関わらず快諾していただきました。貴重なお話をたくさん聞きましたので、是非ご一読ください。

――「1905年の冬」の企画経緯を教えていただけますか?

 当時私は香港で仕事していました。香港ニューウェーブはちょうど1970年代後半から始まりました。私も台湾に戻って、映画を撮りたいと思ったんです。そこでエドワード・ヤンに連絡しました。彼はもともと映画好きだったので、私の話を聞いて、台湾に戻りました。

――なぜ実在の人物・李叔同(日露戦争の時代、西洋絵画と音楽を学ぶために日本を訪れ、帰国後、中国の美術界に影響を与えた若き知識人)の話を映画化したいと思ったのでしょうか?

 これは本当に偶然でして、伝記本を読んで、非常に興味が湧いたんです。特に日本で愛人を作り、中国に連れて帰る。その後に出家して、愛人を日本に帰らせるという怒涛の展開が、なかなか凄かった(笑)。他人が書いた伝記モノなので、本当かどうかは正直なところわかりませんが、当時はすぐに映画化したいと思いましたね。

 私はもともとアメリカに留学していました。海外で勉強することがどういうことなのか――学生であれば自分なりの考えを持っていますが、我々の留学生活を映画化してもあまり意味がない。やはりあの激動の時代(1910年代前後)を舞台にしたいと考え始めました。当時の李叔同は何でもできる才能の持ち主で、しかもお金持ち。では、なぜ最終的に出家したのか。その答えを、映画を通じて探したかったのです。

 そこで、私はエドワード・ヤンにも李叔同の伝記を読ませました。彼は読んだ後、李叔同の考え方には共感できず、現代的視点で李叔同を“クズ男”と言っていました(笑)。脚本作りの際は、もうひとりの登場人物を入れたいと提案し、ツイ・ハークが演じた「恐怖分子」のようなキャラクターが映画の中に登場することになりました。

――ツイ・ハークの出演。これは凄いキャスティングですよね。かなりの熱演でした。

 ツイ・ハークは昔から知っていて、彼もアメリカに留学に行きました。確かに私が香港に帰った後に、彼も香港に戻りました。最初はテレビ局に務めましたが、映画が好きで、台湾でデビュー作を撮りました。私たちは常に交流していたので、私が『1905年の冬』の話をした後、彼はすぐ出演を快諾してくれしました。その時、彼はアニメーションにも興味を持っていました。「蜀山奇傅 天空の剣」は、最初アニメで作りたかったようですが、なかなか難航していて実現しませんでした。ただ、当時の『スター・ウォーズ』の影響が大きくて、最終的には実写化をして大ヒット。彼も香港映画の巨匠となりました。

――なにより日本でロケを行っている点に驚きました。当時の日本での撮影はいかがでしたか?

 当時の撮影は大変でした。私は、アニメーション作家の川本喜八郎さんと仲が良く、いつか一緒に中国の物語をアニメ化したいと思っていたので、常に交流していました。そこで、日本で川本さんと会った時、その場で川本さんのプロデューサー・山上博己さんと知り合い、日本で映画を撮影するための方法を色々と教えてくれました。本作に参加した日本の役者やスタッフは、全部山上さんの紹介で、彼も少しだけ出演しました。山上さんには非常に感謝しています。

――撮影は、飛騨高山でも行っています。東京からはかなり離れていますよね。

 「冬のシーンを撮りたい」と言ったら、勧められた場所なんです。当時、撮影機材はすべて東京にあったので、車で飛騨高山まで運びました。当時運転していたのは、エドワード・ヤンでしたね。エドワード・ヤンはアメリカではよく運転していましたが、日本は左側通行で道が狭い……いま思い出すと、かなり危なかったです。無事に着いて、本当に良かったです。

――「1905年の冬」は、当時フランスの映画祭でも上映されたようですね。

 当時、キン・フー監督の作品を欧米に紹介したカンヌ国際映画祭のプログラマーと仲が良かったんです。私がフランスに行った時は、常に彼の家に泊まっているほど。彼に「1905年の冬」の話をした時は後「カンヌ国際映画祭に紹介したい」と言われましたが、結局製作が間に合わず、最終的にはドーヴィルの映画祭で上映されました。その後、カイエ・デュ・シネマの特集でも紹介されましたね。反対に、当時の台湾では本作の上映が禁止されていました。それについては、とても残念でした。香港ではプレミアを行って、ツイ・ハークを含む香港の映画人たちがたくさん見に来ました。

――トークイベントで「映画は愛人でアニメは妻。日常生活には妻が必要です」と語っていました。その後、監督はアニメーションの世界に行きましたよね。一方、エドワード・ヤンは台湾ニューシネマの旗手となり、いまでも世界中に多くの映画ファンに愛されています。改めて、エドワード・ヤンと一緒に「1905年の冬」を作れたことについて、どのように感じていらっしゃいますか?

 エドワード・ヤンがこの映画に参加したあと、私は彼を映画界の色々な人に紹介しました。最初の頃、台湾でシルビア・チャンのプロデュース作品であり、テレビドラマシリーズ「十一個女人」の1話「浮萍」を監督しています。それがおそらく台湾ニューウェーブの始まりだと思います。その後、私はアニメ制作に没頭し、映画製作にはあまり関わっていなかったのですが、「1905年の冬」でエドワード・ヤン、そして私の弟・ユー・ウェイエンと一緒に映画を作ったことは、大きな財産だとずっと思っています。

(徐昊辰)

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