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「政治的」「思想の押し付け」朝ドラ『虎に翼』への批判が的外れなワケ。ただ気になったのは

女子SPA! 2024年9月28日 8時46分

 2024年4月1日から放送を開始した『虎に翼』(NHK総合)が、9月27日に最終回を迎えた。

 戦前、戦中、戦後。ひとりの女性法曹の生き様や本作全体の作品態度を通じて、どれだけの視聴者の考え方がアップデートされたことだろう? 一方で、戦後の激動をまるまる描く後半部は、ちょっと駆け足過ぎたかな。SNS上ではたびたび思想の押し付けだとか、「箇条書き」という批判の意見が散見された。

 イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、大きく前半部と後半部にわけて考えながら、本作の社会性、政治性、映像表現に奉仕する役割を問いてみたい。

◆社会派と呼ぶべき作品だろうか?

“社会派”という形容がある。筆者はこの形容の使われ方、そしてこの言葉自体があまり好きではない。社会に属していれば、誰もが社会派の側面があるのではないか。どうしてわざわざ社会派と形容する必要があるのか。逆に社会派ではない状態とはいったい、何派なのか。

 戦中に日本初の女性弁護士、戦後には裁判官になった主人公・佐田寅子(伊藤沙莉)の生涯を描き、全130回の放送を終えた『虎に翼』は、社会派と呼ぶべき作品だろうか? ざっくり前半部と後半部にわけて考えてみる。女学校時代から明律大学で法律を学び、戦後に判事となり新潟に異動するまでの前半部は、丁寧な物語の運びとテーマに対する描写力、省略を駆使した映像処理が寸分違わずに的確だった。

 新潟編以降の後半部に関しては、SNS上でも「前半はちゃんとドラマしてたけど後半は箇条書き」などと批判的な意見が多く投稿されているように、判事になった寅子が戦後の社会問題に果敢に取り組む一方、あまりにも駆け足な詰め込み方がどうも気になった。

◆『虎に翼』は政治的かどうか

 現代史の集中授業を受けているような気分になったのは確かだ。同性愛や夫婦別姓、原爆裁判、尊属殺の重罰規定が合憲か違憲なのか等々、社会問題を次々取り上げる作品態度を社会派と形容することは容易に思える(第21週第101回でオープンリーゲイ俳優を起用した社会的意義!)。

 そうした社会性に連動して、本作が政治的過ぎて思想の押し付けだとする見方もネット上ではさかんに言われていた。一般の視聴者から識者までさまざまな意見があったが、中にはエンタメと政治は切り離すべきという暴力的な言い方まであった。

 映像作品に限らず、日本の音楽界でも例えばよくアーティストが政治的発言をすると、すぐに批判の対象になる。批判者はみんな口を揃えてこう言う。音楽に政治を持ち込むな、と。

 でもこれってすごくおかしなことではないか。映像でも音楽でも作り手が世界(社会)に属する限り、作品にはその人が社会をどう見つめ、考えているのか、その思想が意識的、無意識的問わず込められる。特に映像は、恣意的に切り取られたフレーム自体が、たぶんに政治的であり、自ずと社会派的な機能を内在している。

◆一言、言えば済むことを

 直接的なメッセージの有無に関わらず、作品が作品である以上は、当たり前にソーシャルでポリティカルだということ。だから、いちいち、社会派だの政治的だのと議論するのが、そもそも野暮な話なのだ。

 ただし、作品とは作り手のメッセージを語り、伝えるための道具(手段)ではないことも理解しておく必要がある。『虎に翼』の場合、第23週の原爆裁判あたりから、加速度的に問題提起と解決のための議論を繰り返す説明的場面が増えた(尾野真千子によるナレーションしかり)。

 これが後半部に感じる「箇条書き」的で現代史の授業のような印象を強めた。授業のための資料映像ならまだしも、本作はエンタメ的なテレビドラマだ。どれだけ社会的に意義があるメッセージを込めようとも、なるべく慎ましく簡潔に伝える工夫をしなければならない。

 はっきり言ってしまえば、一言、言葉で言えば済むことをわざわざ映像表現でやらなくてもね……、という。映像とは言葉よりもっとパワフルなメディアである。長く説明的な会話は映像表現を間延びさせる。

 前半部は演出面を含めた映像表現が抜群だっただけに、後半部は脚本レベルのメッセージ性をきれいに再現するための映像の羅列にしか見えなかった。

◆エンタメと政治が切り離せない好例

 例えば、前半部には(社会的・政治的)テーマ性と映像表現が見事に噛み合った場面があった。それは明律大学女子部を卒業した寅子が、猪爪家の食卓でビールを飲んで、へべれけになる祝宴。

 深川麻衣主演映画『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018年)でも片手に持ったビールがやけに様になっていた伊藤沙莉が、朝ドラでもやっぱりビール場面できめてくれる。なんて思い嬉しくなってしまったが、寅子による痛快な喉越しと痛飲が伝えるのは、太平洋戦争が開戦して激動の時代が迫る前夜との対比であったこと。

 楽しい場面のすぐ隣にとてつもないテーマ性が顔をのぞかせ、画面上でオーバーラップしていた。エンタメと政治が切り離せない好例ともいえる場面だが、それをさりげない演出の計算と配慮で描写したことに、本作前半部の圧倒的力強さと品格があった。

 でもそういう素晴らしい場面に限って、昭和10年代の女性が大ぴらにビールを飲むことがあるのか?みたいな難癖的な意見がネット上を飛び交うこともあった。まぁそんな横やりでさえ、寅子の口癖である「はて?」と一言疑問符で返しておけば、簡単に済んでしまうことかもしれないけど。

◆映像表現に純粋に奉仕する役割

 後半部にだって素晴らしい場面はある。早足な現代史の授業化の一方、逆に社会的・政治的背景とは関係なく(見えるように)、純粋に映像表現が粒だつ瞬間が観測できた。

 第18週第90回。新潟篇で、寅子とのちに伴侶となる同僚判事・星航一(岡田将生)が、初めて心のうちを吐露する場面だ。馴染みの喫茶「ライトハウス」で、戦時中に総力戦研究所の一員であり、戦争責任の一旦が自分にもあるのではないかと語る航一。「外で頭を冷やしてきます」と言って外に出た彼の頭上、わずかに降り積もった雪の粒が、まさに本作最大の粒だちの美しさをたたえた場面だった。

 あるいは、東京地方裁判所所長、続いて最高裁判所第5代長官になった桂場等一郎(松山ケンイチ)が、第1週第1回から一貫して厳粛な存在感を固定し続け、ひとり所長室や長官室の室内場面で孤独な演技を極めた功績をたたえなければならない。この桂場の存在があったなら、もう他に余計な言葉なんて全然必要ない。背景の説明だって不要だ。

 最終週第129回、退官した桂場が、大好きなあんこ団子をゆっくり口に運び、寅子に見つめられながらその味を噛み締める姿は、特に際立つわけでもないのに、視聴者を納得させてしまう力がある。

 社会派かどうか。政治的かどうか。長官という本作でもっとも社会的な地位があり、政治的立場に置かれた人物が、実は一番それに縛られずに映像表現に純粋に奉仕する役割だったことこそ、特筆すべき事実だと筆者は思う。

<文/加賀谷健>

【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu

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