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ベルリンの壁崩壊をめぐる3つの誤解

ニューズウィーク日本版 2014年11月11日 16時50分

 東西ベルリンを隔てていた壁の崩壊から25周年を迎えた11月9日、壁のすぐ東側にあったブランデンブルク門には大勢の人々が押し寄せ、四半世紀前の歴史的な出来事に思いをはせた。だが東西冷戦を終結させた大事件をめぐっては、多くの人が気づいていない「誤解」もある。代表的なものを3つ挙げよう。

(1)本当の意味で壁が崩壊したのはハンガリーだった

 自由を求める東ドイツ国民の「無血革命」がベルリンの壁崩壊に貢献したのは間違いないが、壁に最初にヒビを入れたのはハンガリーだった。

 壁崩壊のおよそ半年前に当たる1989年5月、ソ連の衛星国だったハンガリーはソ連の最高指導者ミハエル・ゴルバチョフが掲げていたペレストロイカ(改革)路線に応える形で、西側の一員であるオーストリアとの国境を開放した。これによって、東ドイツ国民がハンガリー経由で西側に亡命できる可能性が浮上。多くの東ドイツ国民が、自国に隣接するチェコスロバキア(当時)やその先のハンガリーに押し寄せた。
 
 9月になると、ハンガリー政府は国内で亡命許可を待つ東ドイツ国民のオーストリアへの出国を正式に承認。その後3日間で1万5000人が西側に流入したという。

 東ドイツの国家元首エーリヒ・ホーネッカーは慌ててチェコスロバキアとの国境を閉鎖したが、時すでに遅し、だった。

(2)壁が町を二分していたわけではない

「東西を隔てる壁」と言うからには、町の中心にまっすぐに境界線が引かれ、それが西側世界と東側世界を分断していたと思われがちだ。だが実際の壁はジグザグにうねっており、ベルリンの町をきれいに二分していたわけではない。

 しかも、ベルリンは東ドイツの中心部に位置しており、町の一部である西ベルリンを取り囲むように壁が建設されていた。つまり、西ベルリンは共産圏の真ん中に飛び地のように存在する陸の孤島だったわけだ。

 そのため、西ベルリン市民の生活にはさまざまな困難があった。例えば週末に自家用車を運転して西ドイツの大都市ミュンヘンまで出かける、といった過ごし方は不可能だった。西ベルリンから出るためには、ビザを取得し、数少ない国境検問所を通過しなければならなかったからだ。そのため、西ベルリン市内に都市型キャンプ場と農場を開設し、子供たちに「西側的」な体験をさせるといった奇妙な代替策まであったほどだ。

 西ドイツ政府は陸の孤島に暮らす西ベルリン市民を財政的に支えたが、西ベルリンが本当の意味で発展することはなかった。



(3)政治家の勘違いが壁を崩壊させた

 ジーンズ姿の東ベルリン市民が次々に壁をよじ登るシーンを見ると、東欧最強といわれた東ドイツの秘密警察「シュタージ(正式名称・国家保安省)」に社会主義体制の維持を断念させたのは、自由を求める市民の力だったと思いたくなる。だがベルリンの壁崩壊の引き金を引いたのは、ある政治家の勘違いだった。

 11月9日、東ドイツを率いる社会主義統一党のスポークスマンだったギュンター・シャボウスキーは、国民の大量出国問題に関する記者会見で、政府が「すべての東ドイツ国民に国境検問所からの出国を認める」決定を下したと語った。いつからこの決定が適用されるのかと記者に質問されたシャボウスキーは、資料をめくりながら「私の理解では、直ちにだ」と回答。数時間後には、ボルンホルマー通りの検問所に市民が大挙して押し寄せ、壁を乗り越えていった。

 後になって、政府はすべての国民の自由な国境通過など認めるつもりではなかったことが明らかになった。政府が狙っていたのは、東ドイツ国内で抗議活動を主導する一部の不満分子を国外追放して再入国させないというシナリオだった。

 シャボウスキーはその計画が話し合われた会合に出席しておらず、誤った発表をしてしまった。歴史を変えた最大の功労者は、政治の混乱だったわけだ。

ジェーソン・オーバードーフ

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