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中東やインドの女たちの英知 - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 2015年3月13日 14時35分

 中東で、北アフリカで、「イスラーム国」(IS)は相変わらず暴虐の限りを尽くしているが、それは少し脇において、3月は退職の季節だ。どこの大学でも長く教鞭をとっていた学者たちが、来し方行く末振り返って、学問の出発点を語る最終講義を行う。

 今週は、長く親しくしていた先輩を囲む会があった。インドを専門とする女性研究者で、女性で途上国研究を志して海外に単独で出かけて行くなどというケースが、まだ数少ない時代に研究を始めた先輩だ。筆者も、研究所時代、途上国のタフな生活を生き抜く先輩たちの話を聞きながら、でも楽しそうにその体験を話す姿が眩しかった。

 30年以上の年月を経ても、先輩の体験談は面白い。だが、若い頃には気が付かなかった、妙味が見えた。先輩が、インドで出会った忘れがたい女の子たちの話をしたときだ。

 読み書きもできない、貧しく地位も低いインドの女性が、路上生活で稼ぐ人たちの、なけなしのカネを預かって、彼らの家族に届ける仕事をしていたという。地図は、読めないどころか存在せず、住所もないところに住む家族に届ける。なにより男たちが生活の糧を安心して渡せるほど、その女性は彼らの信頼を得ていたわけだ。知識はなくても、英知はある。

 もう一人の少女は若いお嫁さんで、実家から持ってきた彼女の財産すべてが入ったカバンを開けて見せてくれたという。その宝物とは、まだ履いたこともない色の落ちていないペチコートとか、日本でいえば夜店で売っているような安物のアクセサリー。

 そんな、貧しくても健気で、ぎゅっと守ってあげたくなるような田舎の無教育の人たちというのは、途上国を研究していると、必ず数人かは、出会う。私が生活していたカイロでも、近所の貧しい家に住んでいた若い母親がそうだった。住んでいる部屋は玄関戸もない土間だし、文字も書けず教育も受けていないけれど、びっくりするような英知があった。

 たとえば、お葬式。急に雇われ先の大奥様がなくなったからというので、葬儀に行く準備をしたのだが、黒の喪服がないと困っている。そこで曰く、「昔出稼ぎに行ってたサウジは白でもよかったのよね。エジプトは黒じゃないとみっともないと思われる。死を悼む気持ちは、変りがないのに」。

 宗教的に厳しいと思われるサウジが自由だと言い、社会慣習にがんじがらめになるエジプトが不自由だと言う。なかなかの達観だと思った。

 その彼女が、子供が転んで脳に障害が出たのでは、と心配して病院に行ったときも、感心した。一人で連れていくのは不安なのでついてきてくれ、という。レントゲン写真なんか読めないし、医学知識も何もないよ、というと、それでもいいからというので、ムスリム同胞団が経営している近所の病院に行った。安くて夜も開業していて、貧しい人たちには評判がいい。

 で、同行したところで筆者は何も役に立たなかったのだが、彼女の目論見は、こうだ。外国人の、しかも学問を生業にしている高学歴の女性が診断を見張っていれば、医者も患者にへんなことはできないに違いない、と。筆者は恰好の「脅し」の材料にされたのだ。礼拝も断食もちゃんとやる、普通の信仰厚いイスラーム教徒だったが、イスラームを冠した病院だからといって医者が篤信家だとは限らないと、彼女は見抜いていた。

 退職する先輩学者が伝えたかったことは、途上国の健気な無知の美しさではない。西洋的教育を受けていなくても人は決して知がないわけではない、ということだ。そして、彼女たちの貧困を教育の欠如や西欧的常識の不足に帰して、それを施すべきとする、「人道」とか「白人の義務」とかに議論を集約させてしまうと、とても素敵な彼女たちの英知が見えなくなってしまうということだ。

 もちろん、教育なんか与えないほうがいいとか、女の子は無知なほうが素直でいいとかいう話ではない。ターリバーンに殺害されそうになったマララさんに、ターリバーンの幹部が、「インド亜大陸は西欧教育に冒される前にはもっと英知に富んでいた」と主張して、だから西欧型教育のプロパガンダを止めろ、と手紙で書いた、その主張が正しいわけでもない。

 問題は、途上国の貧困や教育の遅れや社会慣習の制約を学者が問題視するとき(それは確かに問題なのだが)、それをすぐ教育と差別の問題に落とし込んでしまうことだ。フリーターの稼ぎの運び屋をやる女性の度胸や、医者に馬鹿にされないように外国人を利用する若い母の知恵が持つパワーは、伝統社会のマイナス面を繕うために仕方なく発達した姑息な手段としか、認めてもらえない。でもそういうふうにしか見ないことは、何かとても重要なことを見逃しているのではないか。何を見逃しているのかは、はっきりと言語化できないのだが。

 途上国のことを学ぶということは、それが「遅れて」いることを「改善」するためでもなければ、「遅れていることにもいい面はある」と弁護するのでもない。彼女たちのパワーをどう「正しい」方向に導くかではなく、彼女たちの英知がアジアや中東、アフリカ社会の何を表しているのかを解明することこそが、途上国研究の妙味なのではないだろうか。同情するのでも愛おしがって触れずにいるのでもなく、この素晴らしい知をどのように概念化していくか、それを現代社会の住人たちに「ちゃんと」伝えていくか、それが研究者に与えられた使命なのでは、などと考えた。

 途上国と付き合っていたら、誰しも似たような感動の経験をしている。しかし、駆け出しの時期から四半世紀以上を経て、先輩の最終講義でそのことに気が付くなんて、いやはや、鈍感なことです。

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