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郊外の多文化主義(4)

ニューズウィーク日本版 2015年12月10日 15時27分


論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、法哲学を専門とする首都大学東京准教授、谷口功一氏による論文「郊外の多文化主義」を4回に分けて転載する。(※転載にあたり、表記を一部変更しています)


※第1回:郊外の多文化主義(1) はこちら
※第2回:郊外の多文化主義(2) はこちら
※第3回:郊外の多文化主義(3) はこちら

福祉国家とナショナリズム

 わたし自身が日系ブラジル人問題を初めてはっきりと認識した原点は、映画『サウダーヂ』(2011年)だった。この映画は、山梨県甲府近辺の貧困家庭に育った日本人愛国ラッパー、日系ブラジル人、日本人建設労働者、そしてタイ人ホステスの四つ巴の人間模様の交錯を描き出したもので、郊外の徹底的な凋落とその思いも寄らないグローバル化を完膚なきまでに剔抉(てっけつ)したものである。登場人物のすべてに共通するのは、圧倒的に「出口なし」の現状から脱出できない苦悶である。物語の終盤、登場人物のひとりである愛国ラッパーは、精神に異常をきたした弟から自作の三種の神器を授けられ、自らの個人的窮状のすべての原因をブラジル人に帰した上で、彼らのひとりを路上で刺傷する。

 サミュエル・ジョンソンの有名な言葉に「愛国心はならず者の最後の避難所である(Patriotism is the last resort of scoundrels.)」というものがあるが、これはアンブローズ・ビアスが後に正しく言い換えているように「最初の避難所」の間違いなのである。しかし、「ならず者」たちが、そこを最後にせよ最初にせよ、拠り所にするのには、彼らなりの理由があるのではないか。――労働市場の逼迫を支えてきた日系ブラジル人も、劣悪な家族環境・労働環境に苦しむ建設労働者兼愛国ラッパーも、同じ苦界でもがく「同胞(compatriot)」なのではないか。

 近年においては、とうとう青年誌に連載されたマンガ媒体でも日系ブラジル人ギャングが真正面から描かれることとなる。『ギャングース』の作中、振り込め詐欺の金庫の張り番をしていた日本人・張本は、自分たちの弟や妹たちを守る場所を手に入れたいと願う日系ブラジル人ギャング少年の左のような絶叫に接し、義侠心から「俺は今から日本人をやめる! 俺のことは今後ホセと呼べ!」という絶叫をもって共振する。


「別に死んでもいいし殺してもいい! 金作って俺らの弟や妹たちとか俺らの子供が生きてていいって場所を作るためなら......わかったかニッポンジン!」(肥谷圭介・鈴木大介『ギャングース』講談社、第9巻)


 他方、張本の金庫を強奪したタタキ屋(犯罪者の収益を狙う強盗団)の日本人少年たちは、劣悪な生育環境とその後の境遇(養護施設出身、少年院あがり)がために「ピカチュー」も「嵐」も知らないことから、合コンの席上、同世代の女子たちから「施設とか怖いし......あんたたちマジで日本人?」と言い放たれる(『ギャングース』第8巻)。――闇金の金庫の張り番も日系ブラジル人の少年ギャング達も、施設・少年院出身の強盗団の少年達も、みな同じなのだ。そして彼らが欲するのは弟妹や子どもが安んじて暮らすことの出来るパトリ(patrie)なのだ。

 最後に、以上のような問題状況のすべてを考える上で最も重要な視座について検討し、本稿を締めくくることとしたい。それは「福祉国家」と「ナショナリズム」の関係である。これまで述べてきたような人びとが安んじて暮らすことの出来るパトリは、福祉国家によって制度的に提供されるものであるが、福祉国家体制は、そもそもドメスティックな再分配を前提とするものであり、そこではコスモポリタンな再分配は排除されていることが明確に意識されなければならない。

 福祉国家による給付対象の範囲画定はナショナリティの問題であり、それは「同胞とは誰か」という問いに他ならないのである。この点については、ドメスティックな福祉国家体制がナショナリズムと不即不離であることを論じたデイヴィッド・ミラー(David Miller)の議論が参考になるだろう。ミラーはリベラル・ナショナリズムの代表的な論者であるが、次のような形で福祉国家の基礎としてのナショナリティ/ナショナリズムの必要性を論じている。


「とくに、市場での取引を通じて自活できない者に対する再分配を含む枠組みを各個人が支持する条件について考えるとき、信頼は特別な重要性を帯びるようになる。この意味での福祉国家を目指し、同時に民主的な正統性も保持しようとする国家は、構成員がそうした正義の義務をお互いに承認しあっている共同体に基礎を置いていなければならない。......ナショナルな共同体は、実際にこの種の共同体である」(富沢克・長谷川一年・施光恒・竹島博之訳『ナショナリティについて』風行社、2007年、訳163頁)


 ミラーによるなら、このような意味でのナショナリティは、既存のナショナリティを支持する多数者側が安穏と、もたれ掛かることができるものとしてではなく、国内のすべての社会集団を包摂しうるものとして、民主的討議を通じた解釈作業によって修正可能なものでなければならない。

 外国人研修生のような恥ずべき不公正な搾取を許容しない、「健全なナショナリズム」と「真摯な福祉国家」の結合以外にドメスティックで公正な国家像の構築など、どだい無理なのである。ゲイツ財団のように租税回避した上で飢餓救済に資金を注ぎ込むようなコスモポリタンな再分配を遂行する覚悟がないのなら、われわれに残された選択肢は「ナショナルな社会民主主義」以外に存在しない。「ナショナリズム内国再分配派」と「コスモポリタニズム世界再分配派」のいずれか一方をしか選べない、ということを可能な限り多くの人びとが理解すべきであり、このことを明晰判明に了知しない者は、右派も左派も滅ぶべきである。

 以上からも明らかなように、今後、福祉国家を適切に維持しようとし続けるのなら、われわれは自らのナショナリティ、つまり「日本人であるというのはどういうことなのか」という問いに対して真剣に向き合い、場合によってはその内容を改訂する身を切るような努力をしてゆかなければならなくなるだろう。もちろん、この努力は大きな痛みも伴うものだが、しかし、それに耐えられないのならば、福祉国家体制の前途は存在しない。敢えて言うが、われわれは「われわれ自身のナショナリズム」と正しい形で真摯に向き合わなければならないのである。

〈補記〉本稿で論じたような問題状況を理解する上で非常にすぐれた読み物として、以下の2冊をこの際、是非、お薦めしておきたい。かつて井上達夫(法哲学)から教わった「哲学者の朝の祈りは新聞を読むことである」という言葉をわたしは愛好するが、優れたノンフィクションを読むことには同様の功徳があるはずだろう。

安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』光文社新書、2010年
安田峰俊『境界の民――難民、遺民、抵抗者。国と国の境界線に立つ人々』角川書店、2015年

※郊外の多文化主義(補遺):モスク幻像、あるいは世界史的想像力 はこちら

[執筆者]
谷口功一(首都大学東京法学系准教授)
1973年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。日本学術振興会特別研究員を経て現職。専門は法哲学。著書に『ショッピングモールの法哲学』(白水社)、『公共性の法哲学』(共著、ナカニシヤ出版)など。
ブログより:移民/難民について考えるための読書案内――「郊外の多文化主義」補遺

※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。





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『アステイオン83』
 特集「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス


谷口功一(首都大学東京法学系准教授)※アステイオン83より転載

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