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こんまりの魔法に見る「生と死」

ニューズウィーク日本版 2016年2月1日 15時1分

 日本人の書いた本がアメリカでベストセラーになるのは珍しい。だから近藤麻理恵の『人生がときめく片づけの魔法』の英語版が出たとき、さっそく手に取ってみた。読む前に驚いたのは表紙カバーのデザイン。水彩で描いた空のような水色の背景に、タイトルが控えめに、それもすべて小文字で入っている。

 もしかして、これって(アメリカで80年代にはやった)癒やし系の自己啓発本? まるで「あなたの心は危うくて、大文字の角にも耐えられないほど傷つきやすい。でもこのパステル調のカバーを開けば、希望と前へ進む力が見つかります」と言っているみたいだ。

『片づけの魔法』が説くのは、家にあふれるがらくた類はきっぱり捨て去れということ。片づけのプロとして、近藤の世界観は明確で揺るぎない。ときめかない物は捨てる。ときめく物は大切に。その2つに1つで、第3の道はなし。

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 彼女は自分の蔵書を情け容赦なく選別して30冊に絞る一方で、誰かがビニール袋にためた小銭を見ると「お金としてのプライド丸つぶれ」だと思って「せつない」気分になるという。

 近藤は服を適切に畳むことをある種の精神修行と見なし、「『片づけを学んだことがある』という家政学科出身の方でさえ、『片づけられない』」と嘆く。とことんシンプルな家事を追求する彼女の姿勢は、救世主的な情熱を帯び、従え、さもないと地獄に落ちるぞと詰め寄るカルトリーダーさながらの勢いだ。そして信者たちは、自宅の押し入れや棚を一掃した話を自慢げにネットで公開する。

 がらくたが苦にならない性分の私にとっては、およそ縁のない世界。定期的に(せめて時々)掃除する方法を教えてくれる本なら大歓迎だけれど。

 私も捨てることは大好きで、捨てた物が数カ月後に必要になって、後悔したことが何度もあるほど。片づけのエキスパートに言わせると、そんなことはまず起きないはずだ。でも私が予備のボタン(近藤によれば「とっておいても捨てても、使わない」)を瓶に入れているのは、それが実際に役立ったことが一度ならずあるからだ。

 しかし『片づけの魔法』とその続編を読んで驚いたのは、そこにパステル調とは程遠い感情の深い泉があったことだ。著者自身は気付いていないかもしれないが、実のところ彼女は「何事にも限界はあるという事実に目をつぶりたがる」という人間の根源的な習性と徹底的に闘っているのだ。

 例えば本の整理に関する章で、近藤はきっぱり申し渡す。いつか読むつもりで積んである本を、あなたがいつか読むことはない。永遠に、ない。

 30代の近藤は自分の言葉の深い意味に気付いていないかもしれない。でも表紙カバーをデザインした人は気付いていたらしい。そう、この本は80年代風の自己啓発本ではない。むしろ「同情」や「哀悼」のイメージを表現するグリーティングカードだ。ただしここでは悲しむ人と慰める人が同じで、喪失はまだ訪れていない。

 近藤の本は人間の死すべき運命を、間接的にではあるが、執拗に言い立てる。やがて故人となるのは読者。「死」こそ最大の「人生の魔法」だ。

具体的な方法は役に立つ

 こう感じるのは私だけかもしれない。アデルの大ヒット曲「Hello」のミュージックビデオの冒頭、荒れ果てた家のドアを開ける場面を見て、とっさに亡くなった親の家を整理するのだろうと思い込むような人間だから。所有する物が不必要であることを強調する行動があるとしたら、まさにこれだ。

 物にせつない思いを抱くことがあるという点で、おそらく近藤は正しい。だが理由が同じとは限らない。近藤は物に感情があるという信念を持っており、せつなさはそこからきている。彼女は自分の持ち物に話し掛け、感謝したりする。例えば続編では、ブラジャーについて「出している空気感とプライドが別格」と述べている。

 やる気満々の片づけ志願者への近藤の処方箋は極めて感傷的で、同時に厳しい。物の運命を決める前に、一つ残らず手に取りなさい。そして心がときめくかどうかを自分に問い掛ける。もし答えがノーなら、特大サイズのゴミ袋へ!

 近藤はいつも「ときめくかどうか」を判断基準にしているが、『人生がときめく片づけの魔法』は読んでときめく本ではなかった。彼女は「三人きょうだいの真ん中」だったため、親にあまりかまってもらえず、「家にいるとき一人で過ごすことがほとんど」だった。だから、5歳の頃から主婦雑誌を愛読していたという。

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 学校に入ってもあまり友達ができなかったが、教室の整理整頓を楽しんだ。「休み時間はずっと一人で片づけをしていたわけですから(略)明るい子どもとはいえないでしょう」

 この本の終盤では、自分はあまり他人を信用できないたちだと告白しており、「無条件に愛されているとか感謝する感情を、親や友人よりも先に教えてくれたのが、モノたちであり、おうちでした」と書いている。なんて悲しい文章だろう。

 続編はもっとかわいらしい感じで、「こんまりメソッド」の具体的な片づけ方をいろいろ紹介している。役立つことばかりで、特に衣類の畳み方が素晴らしい。私はこの畳み方を尊敬し、真剣にまねしている。

 でも、心がときめかないという理由でドライバーを捨ててしまい、ネジ回し代わりにお気に入りの定規を使って壊してしまったという悲しい話まで読まされると、いくら片づけのカリスマだからといって、こういう極端な人に付いていくのは難しいと思ってしまう。

 厳しく物を捨てる近藤のやり方はまるで「物に対する拒食症」という病気のようだ(もちろん「物をため込む」という病気も深刻だと思うが)。自分が手に入れた物を容赦なく捨てる行為は、それを欲しいと思っていたときの自分を否定する行為ではないだろうか。

 近藤のある顧客は、日本で流行している「朝活」にはまり、出勤前に多くのセミナーに参加して、講師が配る資料を大事に保管していた。しかし、それでは部屋がオフィスのようになってしまうと近藤は批判する。将来読み直すことはないのに自分をだましているのだという。

「いつか」は絶対こない

「セミナーの内容が身についていない......(略)学んだ内容を実行しなければ、はっきりいって意味がありません」と近藤は言う。うーん、鋭いかも。

 将来のためにとってある物だけでなく、過去もスリム化する必要がある。「『老後の楽しみに写真を残しておきます』といって、未整理のままの大量の写真を段ボールのままとっておく人がいます。断言しますが、そのいつかはけっしてやってきません」。写真、日記、手紙も処分しなくてはならない。「大切なのは、過去の思い出ではありません。その過去の経験を経て存在している、今の私たち自身が一番大事」だからだ。

 私もそう考えていた時代がある。でも間違っていた。長く生きていると大切な記憶も薄れる。それを復活させてくれる写真や手紙は本当に貴重な物だと今は思う。近藤はそうは思わないようだ。孤独な過去を思い出すのが嫌なのだろうか。

 学んだことは身に付かず、役にも立たない。いつか読もうと思った本は結局読まない。写真や手紙は、あなたの死後に片づけをする人にとっては残骸にすぎない。その厳しい現実を認めて、全部捨ててしまえ......。

 どんな部屋が理想かという質問に、近藤の顧客の1人は「ホテルみたいなスッキリとしたお部屋で」アロマをたいて、ハーブティーを飲み、クラシック音楽を聴きたいと答えたとか。それって、まるで広告の中のモデルみたい。永遠の美しさはあるけど、それだけ。

 自分の過去も未来も手放そうとする女性。それはまるで永遠の別れの準備をしている末期患者のようだ。近藤は、人前ではいつも白い服を着ているとか。「清潔さ」を強調する意図だろうが、アジアには死人に白い布を掛ける習慣もある。

 がらくたには近藤の見ようとしない意味がある。いつか使うためにとっておくのは、使う日まで自分は生きるという意思表示。古い写真や本をとっておくのは、見たり読んだりする時間がまだまだあると信じたいから。記念品の存在は、それを記憶する人が生きている証しだ。

 そんなの嘘、かもしれない。でも、生きていくには必要な嘘だ。そう、がらくたの山にこそ生の歓びはある。

[2016.1.26号掲載]
ローラ・ミラー(コラムニスト)

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