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ザハ・ハディードの死 - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 2016年4月1日 21時15分

 世界的建築家、ザハ・ハディード女史が亡くなった。

 2020年東京オリンピックの新国立競技場建設計画を巡るごたごたで、日本での訃報の伝わり方は、「揉め事の種」的扱いになってしまっている。彼女が数々の国際的な賞を受賞した、世界で超一流の建築家であることを考えれば、こうした報道ぶりはとても残念だ。イギリスでのメディアが一様に、「ロンドン・オリンピックで屋内競技場を設計したハディード女史」の早すぎる死を悼んでいるのを見れば、「ハディード女史の最後の作品、日本の新国立競技場」と言えずに終わったのは、少々もったいない。

 ハディード女史が建築家として有名なのはもちろんだが、中東研究者として女史の活躍に注目するのは、彼女の出自来歴である。イラク人として生まれ、イギリスで建築を学び、イギリス国籍を持つ人物、ということは、よく知られている。だが、彼女の父親のことは、それほど知られていない。実は彼は、イラク現代史のなかの超大物、イラク政治のひとつの象徴的な位置づけを占める政治家なのだ。

 父、ムハンマド・ハディード氏は、王政期末期の左派系リベラル政党、「国民民主党」の副総裁を務め、58年に成立した共和制下では財務大臣に就任した政治家であり、経済学者でもある。イラク北部のモースル(現在「イスラーム国」が制圧しているイラク第二の都市だ)出身の、裕福な大商家の息子で、1907年、当時まだイラクがオスマン帝国の一部であった年に、パレスチナで生まれた。第一次大戦からイギリスの委任統治、そして独立という激動の時代に、イギリスに渡ってロンドン大学で経済学を学び、帰国してからは新生イラク国家の財務省に務めた。

 旧世界から新たな国造りという動乱のなかで、若者たちが期待と野望に溢れて新世界を夢見る、まさにイラク版「坂の上の雲」世代の人物だといえるだろう。良家の子弟たる彼は、西洋近代化に憧れつつ、英仏の中東支配に反対し、社会主義的思考を持った。彼が所属した国民民主党はイギリスの労働党に影響を受けたともいわれるが、1930年代ごろから若い世代に人気を博していたイラク共産党ほどの左派ではなく、中・上流の世俗系知識人の間に広まっていた社会平等志向を代表して、当時最大の野党勢力となった。

 なので、1958年に軍事クーデタで王政が倒されたとき、最初に組閣された内閣で彼は大臣登用された。のみならず、クーデタの中心人物で革命後首相となったアブドゥルカリーム・カーシムの経済顧問として、農地改革や国有化事業など、抜本的な改革を進めた。

 このカーシムの時代(1958-63年)というのが、今も昔も、多くのイラク人が「昔はよかった」と懐かしむ時代である。王政という植民地支配のくびきから脱出したあとの高揚感。そして、その後のフセイン政権のような警察国家にもまだなっていない、混乱はしたけれども自由と解放感と希望があふれていた時代。

 なにより今のイラク人がカーシム時代に憧れる最大の理由は、宗派や民族の対立が最も少なかったという記憶があるからだ。カーシム自身はスンナ派のアラブ人なのだが、母親がフェイリー・クルドというシーア派のクルド人であったといわれる。その出自の複雑さを利用して、カーシムは自分のことを、「スンナ派、シーア派、クルドの三つのアイデンティティを融合したイラク人」というイメージで喧伝した。閣僚登用においても宗派、民族バランスが最もとれていた時代、と言われる。

 さらにカーシムの人気が高いのは、その社会主義的政策だ。カーシムに出身政党はなかったが、当時勢いを伸ばしつつあったアラブ・ナショナリスト勢力に対抗するために、イラク共産党を大いに利用した。上記の農地改革や国有化政策は、その一環である。ハディードを含め、左派系の政治家、閣僚を重用したことは、当時の知識人層の方向性にフィットした。

 カーシムがこのような政策をとったのは、クーデタからわずか一年の間である。その後彼は独裁色を強め、アラブ・ナショナリスト軍人によるさらなるクーデタを受けて、殺害されてしまうのだが、わずか一年の経験が「善政」と記憶され、長くイラク人のイメージに残っている。イラク戦争後、フセイン政権が倒れて政治的自由を謳歌したイラクでは、バグダードをはじめ全国で、カーシムの肖像画が掲げられた。シーア派のイスラーム主義を賛美する週刊誌に、カーシムの偉業を称える特集が組まれたりする。サッダーム・フセインは若い頃カーシム暗殺事件に連座したことがあるので、その怨念もあるのかもしれない。

 つまるところ、ザハ・ハディードの父親世代は、すべてのイラク人にとって、失われた良き時代のエリートなのだろう。イラク人だけではない。この世代の亡命者をイラクから多く受け入れてきたイギリスもまた、かつての植民地支配相手への未練があるのかもしれない。

 などと考えていたら、同僚が教えてくれた。イギリス間接統治時代の王族、ハーシム一族の末裔たるシャリーフ・アリーの名前が、組閣中の現イラク政府の外相ポストに上がったとか。シャリーフ・アリーは、イラク戦争前にアメリカが、戦後イラクを担う人材を探していた際に、イギリスが「この人はいかが」と提案した人物だ。それまでは全く知られていなかった人物で、戦後は生き馬の目を抜くような現実の権力政治のなかで、早々に姿を消していた。

 イギリスは「古き良きイラクのエリート」にまだ期待を抱いているかもしれないが、肝心のイラクはどうだろう。

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