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芥川賞『コンビニ人間』が描く、人畜無害な病理 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2016年8月25日 17時0分

<今年の芥川賞受賞作『コンビニ人間』は、コンビニのルーチン作業に居場所を見いだす現代女性が主人公。孤立した人畜無害な生活の中に病理を抱えた、今の時代性を描こうとしているのかもしれない>

 芥川賞を受賞した村田沙耶香氏の『コンビニ人間』を読みました。最近の芥川賞は、前回の又吉直樹氏の『火花』や、羽田圭介氏の『スクラップ・アンド・ビルド』もそうですが、筋の良い工芸品のような読み物が増えてきて、あらためて「プロフェッショナル」の仕事としての「書き物」の水準を探る傾向が強くなっています。

 今回の『コンビニ人間』は、これまでに受賞した2作にくらべて、ちょっと分かりにくい作品だと思いました。

 問題の1つは、キャラクターの造形です。まず主人公の女性は、「社会一般の常識から離れた」キャラとして設定されています。

 例えば子供時代に、「死んだ小鳥」を見て「お墓に入れてあげよう」という母親に対して、「お父さんが焼き鳥好きだから食べさせよう」と言ったとか、男の子たちがケンカしているのを見て「誰か止めて」という悲鳴が上がったのを聞いて「じゃあ、止めればいいんだ」と思いスコップで男子の頭を殴って止めた、などという、かなり極端なエピソードでキャラの設定がされているのです。

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 要するに社会的な関係性とか、場の空気などが理解できない人物であり、それゆえに孤立しているという造形です。その結果、コンビニのルーチン仕事に情熱と居場所を見出していくという説明になっています。

 この設定が余り納得できないのです。例えば、「死んだ小鳥がかわいそう」という感覚が分からない一方で、「お父さんは焼き鳥、妹は唐揚げが好き」だから食べさせようという発想法というのは、少なくとも父と妹の喜ぶ顔が見たいという関係性は持っていることが示唆されているわけです。

 ですから、この主人公は常識的な性格類型には入っていないのではないかと思います。孤立型でもないし、リケジョ的でも反骨精神でもないわけで、いずれにしても主人公の性格や発想法にはリアリティーを感じるのが難しいのです。



 さらにこの主人公は、後半では(ややネタバレになりますが)アセクシャル(無性愛)的な傾向を持っていることが明らかになっていきます。別の人物も含めて、こうしたキャラクター造形が人工的で、リアリティーが感じられません。

 リアリティーが感じられないのは、主人公が「非常識な発想」を持ちさらに「無性愛」であることに、特に強い劣等感もなければ優越感を持っているわけでもないという書き方にもあると思います。

 例えば、小鳥が死んで悲しいと思わないだけでなく、子供時代の主人公は「小鳥の墓」の回りに「花の死体が大量に供えられた」ことに違和感を抱いています。動物の死が悲しくないのであれば、植物の死も悲しくないはずですし、動物の死だけを悲しんで植物殺しをとがめないのはおかしいというのであれば、独自の世界観から抵抗精神や自己主張が出て来そうなものですが、それは抑制されているのです。

 つまり「大変に非常識」だけれども、それは「全世界」について別の見方をしているような「とんがった人」だということでもないし、異常視されて被害者意識にまみれた人間でもない、要するに「人畜無害」な「普通の人」に設定されているのです。

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 コンビニが限りなく心地良い「居場所」だというと、そこに依存している、反対に依存しないといけないような、何らかの「欠落」を抱えた人間ということになりそうですが、決してそんな「危ない人」には描かれていないことも作品を特徴づけています。

 しかも一人称独白体(ファーストパーソン・モノローグ)を選択していることで、その言動は明らかに非常識であるにも関わらず、書いている視点は常識人という分裂が埋め込まれています。これに加えて、語彙の選択を含めた文体についても、とにかく「引っかかり」を無くすように、突出した個性が出ないように注意が払われています。その結果として、流れていく時間は極めて凡庸な感じになるように設計されています。

 結果として、「常識とはかけ離れている」主人公ではあるが、その日常は極めて平凡に淡々と流れているという、不思議な「浮遊感覚」をもった空間が生まれているわけです。そこには、何の「意味」も感じられないし、何の「論点」もない、そのような設定が、かなり意識的に貫かれています。

 確かに、コンビニにしか「居場所」がない人間であるとか、自分は「性交は不気味で気が進まない」という人物を「意味」や「論点」を込めて提示することになれば、そこでは「聞き飽きた退屈な社会派的ディスカッション」が誘発されてしまうわけです。



 コンビニの定型業務を快感に思うのは洗脳されて搾取されているだけだとか、本当の非性愛の人間の生きづらさはそんなものではない、というような議論に「巻き込まれる」のは容易に想像ができます。そして、そのような「聞き飽きた」議論には関わりたくないという姿勢には、かなり毅然としたものも感じられます。

 とにかく「どこかで聞いたことのある」ような「論点」は徹底されて排除されています。価値の相対化をやってはいるものの、それを突き詰めることはしない、そこで身体性のリアリティーの世界に立脚して居直るのでもない、例外的な人間を描いて凡庸な社会常識に一撃を加える気などもさらさらない、という「徹底したニュートラル志向」は見事と言えます。

 もしかしたら、関係性や場の空気を理解しない、そして無性愛的な主人公、そしてコンビニの空間というのを、2010年代の日本社会の「代表的な風俗」として、徹底して「記録しておこう」ということなのかもしれません。

 あるいは、「人工的な凡庸性」そして「突出しない人畜無害な病理」を描くことで、それをコンビニ文明のメタファーにして見事に批判してみせた、という可能性もあると思います。そうした多様な読み方を誘発する作品であり、その点だけでも一読の価値があると思います。

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