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新聞は「科学技術」といいつつ「科学」を論じ切れていない

ニューズウィーク日本版 2017年1月6日 15時20分

 論壇誌「アステイオン」85号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、11月29日発行)は、「科学論の挑戦」特集。同特集の埴岡健一・国際医療福祉大学大学院教授による論考「『科学』はどこにあるのか?――科学技術政策の『忘れ物』」から、一部を抜粋・転載する。 同特集の責任編集を務めた中島秀人・東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授は、福島の原発事故への科学論者の対応の鈍さを例に挙げ、「現実社会から切り離された『科学論』も危機にあるのではないか」と巻頭言に記す。そして特集の1本目となるこの論考で、埴岡氏は科学技術政策の評価をテーマとしている。 埴岡氏は「科学技術」の科学と技術を別に扱う仕組みが確立されていないことを問題視し、議論の整理のため、「科学は真実の探求を旨とし、技術は社会での利用を旨とする点」を分水嶺として、科学を「科学的科学」と技術寄りの「科学的技術」に、技術を「技術的科学」と「技術的技術」に区分。この4区分から見えてきたのは、政策の根幹にあるはずの科学技術基本法に「科学」が"ない"ことだった。そしてマスメディアでの扱われ方においても、同様の傾向がみられたという――。

新聞社説での科学と技術の区分はあいまい

 科学技術がマスメディアにおいてどのように扱われているか、一般紙の社説を見ておこう。ここでは朝日新聞と日本経済新聞の過去十年の社説を読んでみた。新聞記事データベースである日経テレコンを用い、二紙に関して、「社説」「科学技術」のキーワードで検索した。それぞれ社説記事が約二十本と約四十本見つかった。福島第一原発事故の後は原発政策を問うもの、ノーベル賞受賞者が出たときはそれに関するもの、研究不正が社会問題になったときはそれに警鐘を鳴らすものが出ている。表3では、科学技術の計画や予算に関連していると思われるものを中心に、二十本を取り上げた。

 それぞれの記事が主に科学技術四分法のどの部分をカバーしているかのマーキングも試みた。国の政策を問う記事を中心にピックアップしているので、科学的技術ものが多くなるのはある意味では当然ではあるかもしれないが、やはり科学技術に関する記事の中で科学(ないしは科学的科学)の影は薄いようだ。

「アステイオン」85号より

 これらの社説を読んでみると、科学技術に関しておおよそ次のような前提が設定されていると感じる。「基本的に、科学技術の振興は、国力を高め、成長力と国際競争力を上げるために、そして国民が直面する課題の解決のために、行うものである」。真実の探索や新しい原理の発見といったことは、あまり念頭におかれていない。

 基本的位置づけがそうであるから、いきおい資金配分の話が頻出する。資金配分に関する論調を筆者なりに要約するとおおむね次のようになる。

「本来増額が必要だが、財政難なので効率化が必要である。もちろん無駄をなくすと同時に、知名度ではなく将来性に投資し、投資判断を年配者から若手にシフトすることで先端分野の事情にマッチさせ、ヒット率を上げることが重要だ。資金配分機関と資金は集中させて司令塔を作り、戦略と投資の狙いを明確にすべきであるものの、短絡的な数値目標の達成を厳しく問うのは時期尚早である」

「科学技術予算に手綱をつけろ」と「科学技術予算を締め付けすぎるな」の反対方向の議論の両方が含まれている。こうしたことが起こるのは、科学技術の四分法や時間軸があまり区分されていないからではないか。

 たとえば、「『科学的技術』の予算に関しては、手綱をつけろ」「『技術的科学』の予算に関しては締め付けすぎるな」としたり、「『科学的科学』の成果を『科学的技術』と同じ尺度で評価するな」「『技術的技術』は『科学的技術』への重点投資に便乗したり横取りしたりするな」などと区分をはっきりすると、より論点も明確になるのではないだろうか。

 また、「技術(多くの場合は、科学的技術)」を実際のテーマとする記事の際は、「日本の科学技術は」などと書くよりは、「日本の技術は」と、技術という用語で通した方がいいかもしれない。科学技術という言葉から始まり、あたかも科学と技術を論じているのかと思いきや、「揺らぐ日本の技術を立てなおそう」ということが主題の記事であることが、読み進むうちに分かる場合もある。

 大手組織ジャーナリズムの科学技術担当記者が書く記事では科学と技術の区分、ましてや科学技術の四分法がそれほど意識されていない。であるからして、一般読者においても科学と技術が区別して意識されることが少ないことは容易に想像される。また、先に見たように政府の世論調査でもほぼ技術のことが科学技術と呼ばれ、その結果を報道する記事も、「国民の科学技術への意識の変化は云々」と立論されることになる。

【参考記事】理系人材が育たない日本の硬直した科学教育



「技術」が「科学」を利用してきた

 ここまで長々と、技術と科学の用語の用法に日本の社会が無自覚であること、それによって技術と科学の概念の区分まであいまいになっている可能性があること、さらには対策や政策が混乱したり有効性が低下したりしてしまう懸念があることを、指摘してきた。概観すれば、「科学」という言葉とイメージが、「技術」への国民意識や資源の投入入り口に活用されてきた、「科学」が「技術」への動員のために利用されてきたと言えなくもない。

 本来、それがどのような動機・理由で生じたのか、それが科学技術の四分法間の予算配分シェアをどう動かしたのか、科学技術という言葉と概念の国際比較はどうなっているのか、上記に指摘した課題はどう解決すればいいのか、などを調べ考察し述べるべきであろうとの苦言が聞こえてきそうだが、今の筆者には手に余る作業となる。

 行政改革の側面から組織論的に省庁再編を行い担当部署が一緒になること自体は、悪いことではなかろう。予算を一元管理し重複や抜けがないようにすることも重要である。また、科学から技術までの全体マップが明確になることは、国民の間での共通理解を進めるだろう。

 だが、それで科学と技術という学問が融解して一つになるわけではないし、なるべきでもなかろう。

 現代において、「技術的科学」と「科学的技術」が不可分になってきたという事情はある。技術的科学が科学的技術にすぐに応用され、社会にインパクトを与える事例が出てきた。それで、科学と技術を一緒に科学技術と捉える必要があり、そのようになってきた部分もあるのであろう。

 であるからこそ、その融合への対処を上手にマネジメントするためにも、いま一度、振り返って、科学と技術の起源や基本的な性格が異なっていたこと、そして科学的科学、技術的科学、科学的技術、技術的技術の四つによって、ガバナンス、評価、管理などのマネジメント上の要点が大きく違うことを、いったん思い出しておくことは無益ではなかろう。これら四つに同じ原理や政策や規則を一律に押し付けるのも、得策であるとはいいがたいのではないか。

 科学や技術に関して論評する際、あるいは政策を提言したり批評したりする際に、四分法のどこを議論しているのか、時間軸のどの部分を対象としているのか。まず、そこを明確にすることを、政策立案者、専門家集団、マスコミの共通基盤とすることを、スタート点にしてはどうだろう。

埴岡健一(Kenichi Hanioka)
1959年生まれ。日経ビジネス誌副編集長、日本医療政策機構理事、東京大学医療政策人材養成講座特任准教授、東京大学公共政策大学院医療政策教育・研究ユニット特任教授を経て現職。内閣府総合科学技術会議ライフイノベーション戦略協議会委員なども務めた。編著に『医療政策集中講義』(医学書院)など、訳書にチャールズ・ハンディ『もっといい会社、もっといい人生』(河出書房新社)。


※当記事は「アステイオン85」からの転載記事です。






『アステイオン85』
 特集「科学論の挑戦」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス



埴岡健一(国際医療福祉大学大学院教授)※アステイオン85より転載

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