<イスラム急進派が勝つか、国是の多様性を守る候補が勝つか、インドネシアの成熟度が試される>
インドネシアは15日、統一地方選の投票日を迎える。6州の知事選、18の市長選そして76の県知事選が一斉に投票されるが、国民の最大の関心は首都ジャカルタ特別州の知事選挙である。3組の正副知事候補者による10月末からの長い選挙活動も11日で終わり、3日間の冷却期間を挟んで投票日を迎える。投票は即日開票され、同日夕方には大勢が判明する見通しだが、過半数を獲得するペアがいない場合は上位2組による再投票となる。
これまでの各種世論調査では現職のバスキ・チャハヤ・プルナマ知事(通称アホック、50)がリードしているが、50%を超える結果は少なく、再投票の可能性が高いと予想されている。
しかし、筆者は15日の投票でアホック候補が過半数を獲得し再選されると(個人的な期待を込めて)読んでいる。
というのも今回の知事選はこれまで過去の知事選あるいは統一地方選の他の選挙と比較しても特別な意味を持っていると考えるからだ。インドネシアという人口世界第4位、イスラム教徒人口世界最大を擁する巨大な国家の民主主義が問われる試金石の選挙になる。ジャカルタの選挙民は民主主義を十分に理解し、政治的・社会的に成熟していると信じてもいる。
【参考記事】イスラム人口が世界最大の国で始まったイスラム至上主義バッシング
問われた宗教、国是、建国の精神
今回のジャカルタ知事選には現職ペアのほかにユドヨノ前大統領の長男で軍人出身のアグス・ハリムルティ・ユドヨノ候補(38)、前教育文化大臣のアニス・バスウェダン候補(47)がそれぞれの副知事候補とペアを組んで立候補している。2016年9月にアホック候補が行った演説の中の一節が「イスラム教徒を侮辱している」と一部イスラム急進組織が騒ぎ、アホック候補は「宗教冒涜罪」の被告として裁判を抱えながらの選挙戦となった。
イスラム急進派による反アホック運動は大規模デモ、ネガティブキャンペーンと勢いを拡大したが、インドネシアは世界最大のイスラム人口を擁しながらも「イスラム教国」ではなくキリスト教、仏教、ヒンズー教など多宗教を認める「多様性の中の統一」を国是とし、寛容と協調の精神に基づく民主国家を標榜してきた。
【参考記事】ジャカルタ州知事選に乗じる政治・社会の混乱とテロに苦悩するインドネシア
そうした建国以来の精神、1998年に長期独裁スハルト政権を倒して実現した民主主義、人道主義や社会的公正などを掲げる「パンチャシラ」と呼ばれる建国5原則などインドネシア人の寄って立つ心の基盤をこのイスラム急進派の動きは大きく揺さぶった。
【参考記事】スラバヤ沖海戦で沈没の連合軍軍艦が消えた 海底から資源業者が勝手に回収か
このため、国家警察や人権活動家、穏健派イスラム教団体などがこぞってアホック批判とイスラム教が別のものであり、選挙という政治と宗教の相互尊重を訴える事態になったのだ。特に国家警察は急進派組織の代表がコーランの一説をアラビア文字で書き込んだインドネシア国旗を集会で使用したことを「国家シンボル侮辱罪容疑」に、スカルノ元大統領を演説で引用して「国家5原則はスカルノの尻にある」とビデオで発言したことを「死者冒涜罪容疑」に問うなどあらゆる対抗手段で法的に牽制、反アホック運動の先鋭化阻止に動き出して選挙の公正さと中立の維持に懸命となっている。
魑魅魍魎が跋扈
今回の知事選を特徴づけているもう一つの側面が旧体制、前政権など復権を画策するグループによる政治の関与だ。アグス候補は父親のユドヨノ前大統領とその政党「民主党」やイスラム政党の後押しを受ける。アニス候補は野党「グリンドラ党」のプラボウォ党首がバックについている。同党首はスハルト元大統領の娘婿で軍人出身、中東でのビジネスの成功から巨額の資金を選挙戦に投入、次期大統領選への出馬意欲も示している。
イスラム急進派が組織した反アホックデモの参加者は大半が選挙区外から動員されたイスラム教徒で、日当、交通費、弁当代などが支給されていたとの指摘があり、その資金源や選挙運動資金を巡る問題も浮上している。一方のアホック陣営は「選挙資金は寄付で賄っている」と公言するほどクリーンな選挙を展開している。
これまで3回行われたテレビ公開討論会でも年齢と軍人という過去から実績がなく抽象的表現や的外れのアホック批判で選挙戦の進展に従い支持率を落とすアグス候補、イスラム教徒の装束で元教育文化大臣の経験を生かして教育問題で低所得イスラム教徒の支持を少しづつ獲得しているアニス候補。聴衆、有権者を引き付ける「実績に基づく具体的政策とユーモア、機知にあふれた演説」で「裁判の被告」という立場ながらも選挙戦後半に支持を急速に伸ばしてきたアホック候補。候補者だけを比較すれば州知事に最もふさわしい人物は一目瞭然だ。
それを阻止するためにイスラム急進派などは「宗教冒涜」を持ち出し、キリスト教徒で中華系インドネシア人、スマトラ州の島嶼部出身であるアホック候補を「知事に相応しくない」と攻撃し、他の候補者も「黙認」という形でそれに乗じてきた、というのが今回の選挙戦の基本的構図なのだ。
アホック候補にはジョコ・ウィドド大統領の出身母体でもある与党「闘争民主党(PDIP)」などが支持を表明しているが、政党色は選挙戦終盤まで控え目だった。PDIPの党首は国民から独立の英雄として尊敬を集めるスカルノ初代大統領の長女のメガワティ・スカルノプトリ元大統領である。アホック候補は「私は闘争民主党の人間ではないがメガワティさんの信奉者」であると公言するなど脱政党色を前面に出してきた。しかし選挙戦で宗教や人種、出身地域などインドネシアでは「触れてはならないタブー」とされる「サラ(SARAH)」にまで反アホック運動が「土足で踏み込んできたこと」に危機感を抱いたメガワティ前大統領は1月23日の自身の誕生日を祝う会や2月4日のアホック候補決起集会などで「インドネシアの統一、多様性、寛容の精神を守るため」としてアホック氏支持を堂々と公言するようになった。
選挙世論調査はあてにならない
各種世論調査ではアホック候補がリードし、アニス候補が追いかけ、アグス候補が苦戦する結果がでているが、過半数を超える支持はどの候補も厳しい情勢となっている。経営者の支持政党で露骨に調査結果、報道姿勢が特定候補に偏ると指摘されるテレビの報道番組、調査結果でも「3候補拮抗」が伝えらえている。しかし選挙に関する世論調査の結果や報道内容がなかなか実態を反映しなくなっていることは先の米大統領選でのトランプ候補とクリントン候補の例でも実証されている。
予想以上に「隠れアホック支持者」がいる、と筆者は予想、いや期待をしているのだが。実際は果たしてどうなるだろうか。
アホック氏とは直接の面識はないもののアホック氏を熱烈に支持する数多いジャカルタ市民でイスラム教徒の友人たち、そしてメガワティ前大統領の側近たちや懇意の記者たちの冷静な分析結果を聴きながら、今回の選挙でジャカルタ市民が首都の住民として成熟した民主主義、宗教による差別を許さない寛容な精神などに基づく懸命な判断を下すことにこの国の新たな一歩を期待したいと心から思っている。
[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など
大塚智彦(PanAsiaNews)
インドネシアは15日、統一地方選の投票日を迎える。6州の知事選、18の市長選そして76の県知事選が一斉に投票されるが、国民の最大の関心は首都ジャカルタ特別州の知事選挙である。3組の正副知事候補者による10月末からの長い選挙活動も11日で終わり、3日間の冷却期間を挟んで投票日を迎える。投票は即日開票され、同日夕方には大勢が判明する見通しだが、過半数を獲得するペアがいない場合は上位2組による再投票となる。
これまでの各種世論調査では現職のバスキ・チャハヤ・プルナマ知事(通称アホック、50)がリードしているが、50%を超える結果は少なく、再投票の可能性が高いと予想されている。
しかし、筆者は15日の投票でアホック候補が過半数を獲得し再選されると(個人的な期待を込めて)読んでいる。
というのも今回の知事選はこれまで過去の知事選あるいは統一地方選の他の選挙と比較しても特別な意味を持っていると考えるからだ。インドネシアという人口世界第4位、イスラム教徒人口世界最大を擁する巨大な国家の民主主義が問われる試金石の選挙になる。ジャカルタの選挙民は民主主義を十分に理解し、政治的・社会的に成熟していると信じてもいる。
【参考記事】イスラム人口が世界最大の国で始まったイスラム至上主義バッシング
問われた宗教、国是、建国の精神
今回のジャカルタ知事選には現職ペアのほかにユドヨノ前大統領の長男で軍人出身のアグス・ハリムルティ・ユドヨノ候補(38)、前教育文化大臣のアニス・バスウェダン候補(47)がそれぞれの副知事候補とペアを組んで立候補している。2016年9月にアホック候補が行った演説の中の一節が「イスラム教徒を侮辱している」と一部イスラム急進組織が騒ぎ、アホック候補は「宗教冒涜罪」の被告として裁判を抱えながらの選挙戦となった。
イスラム急進派による反アホック運動は大規模デモ、ネガティブキャンペーンと勢いを拡大したが、インドネシアは世界最大のイスラム人口を擁しながらも「イスラム教国」ではなくキリスト教、仏教、ヒンズー教など多宗教を認める「多様性の中の統一」を国是とし、寛容と協調の精神に基づく民主国家を標榜してきた。
【参考記事】ジャカルタ州知事選に乗じる政治・社会の混乱とテロに苦悩するインドネシア
そうした建国以来の精神、1998年に長期独裁スハルト政権を倒して実現した民主主義、人道主義や社会的公正などを掲げる「パンチャシラ」と呼ばれる建国5原則などインドネシア人の寄って立つ心の基盤をこのイスラム急進派の動きは大きく揺さぶった。
【参考記事】スラバヤ沖海戦で沈没の連合軍軍艦が消えた 海底から資源業者が勝手に回収か
このため、国家警察や人権活動家、穏健派イスラム教団体などがこぞってアホック批判とイスラム教が別のものであり、選挙という政治と宗教の相互尊重を訴える事態になったのだ。特に国家警察は急進派組織の代表がコーランの一説をアラビア文字で書き込んだインドネシア国旗を集会で使用したことを「国家シンボル侮辱罪容疑」に、スカルノ元大統領を演説で引用して「国家5原則はスカルノの尻にある」とビデオで発言したことを「死者冒涜罪容疑」に問うなどあらゆる対抗手段で法的に牽制、反アホック運動の先鋭化阻止に動き出して選挙の公正さと中立の維持に懸命となっている。
魑魅魍魎が跋扈
今回の知事選を特徴づけているもう一つの側面が旧体制、前政権など復権を画策するグループによる政治の関与だ。アグス候補は父親のユドヨノ前大統領とその政党「民主党」やイスラム政党の後押しを受ける。アニス候補は野党「グリンドラ党」のプラボウォ党首がバックについている。同党首はスハルト元大統領の娘婿で軍人出身、中東でのビジネスの成功から巨額の資金を選挙戦に投入、次期大統領選への出馬意欲も示している。
イスラム急進派が組織した反アホックデモの参加者は大半が選挙区外から動員されたイスラム教徒で、日当、交通費、弁当代などが支給されていたとの指摘があり、その資金源や選挙運動資金を巡る問題も浮上している。一方のアホック陣営は「選挙資金は寄付で賄っている」と公言するほどクリーンな選挙を展開している。
これまで3回行われたテレビ公開討論会でも年齢と軍人という過去から実績がなく抽象的表現や的外れのアホック批判で選挙戦の進展に従い支持率を落とすアグス候補、イスラム教徒の装束で元教育文化大臣の経験を生かして教育問題で低所得イスラム教徒の支持を少しづつ獲得しているアニス候補。聴衆、有権者を引き付ける「実績に基づく具体的政策とユーモア、機知にあふれた演説」で「裁判の被告」という立場ながらも選挙戦後半に支持を急速に伸ばしてきたアホック候補。候補者だけを比較すれば州知事に最もふさわしい人物は一目瞭然だ。
それを阻止するためにイスラム急進派などは「宗教冒涜」を持ち出し、キリスト教徒で中華系インドネシア人、スマトラ州の島嶼部出身であるアホック候補を「知事に相応しくない」と攻撃し、他の候補者も「黙認」という形でそれに乗じてきた、というのが今回の選挙戦の基本的構図なのだ。
アホック候補にはジョコ・ウィドド大統領の出身母体でもある与党「闘争民主党(PDIP)」などが支持を表明しているが、政党色は選挙戦終盤まで控え目だった。PDIPの党首は国民から独立の英雄として尊敬を集めるスカルノ初代大統領の長女のメガワティ・スカルノプトリ元大統領である。アホック候補は「私は闘争民主党の人間ではないがメガワティさんの信奉者」であると公言するなど脱政党色を前面に出してきた。しかし選挙戦で宗教や人種、出身地域などインドネシアでは「触れてはならないタブー」とされる「サラ(SARAH)」にまで反アホック運動が「土足で踏み込んできたこと」に危機感を抱いたメガワティ前大統領は1月23日の自身の誕生日を祝う会や2月4日のアホック候補決起集会などで「インドネシアの統一、多様性、寛容の精神を守るため」としてアホック氏支持を堂々と公言するようになった。
選挙世論調査はあてにならない
各種世論調査ではアホック候補がリードし、アニス候補が追いかけ、アグス候補が苦戦する結果がでているが、過半数を超える支持はどの候補も厳しい情勢となっている。経営者の支持政党で露骨に調査結果、報道姿勢が特定候補に偏ると指摘されるテレビの報道番組、調査結果でも「3候補拮抗」が伝えらえている。しかし選挙に関する世論調査の結果や報道内容がなかなか実態を反映しなくなっていることは先の米大統領選でのトランプ候補とクリントン候補の例でも実証されている。
予想以上に「隠れアホック支持者」がいる、と筆者は予想、いや期待をしているのだが。実際は果たしてどうなるだろうか。
アホック氏とは直接の面識はないもののアホック氏を熱烈に支持する数多いジャカルタ市民でイスラム教徒の友人たち、そしてメガワティ前大統領の側近たちや懇意の記者たちの冷静な分析結果を聴きながら、今回の選挙でジャカルタ市民が首都の住民として成熟した民主主義、宗教による差別を許さない寛容な精神などに基づく懸命な判断を下すことにこの国の新たな一歩を期待したいと心から思っている。
[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など
大塚智彦(PanAsiaNews)