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インドネシア・ジャカルタ知事選、宗教と生活困難が投票を左右

ニューズウィーク日本版 2017年4月20日 15時30分

<多宗教を認める「多様性の中の統一」を国是とし、寛容と協調の精神に基づく民主国家を標榜してきたインドネシアで、人口の9割を占めるイスラム教徒の結集を呼び掛ける候補がジャカルタ州知事選に勝利した。インドネシア民主主義は巻き戻すのか>

インドネシアの首都ジャカルタを擁するジャカルタ特別州の次の5年間の首長を決める知事選の決選投票が19日行われ、複数の民間の調査機関による開票速報でアニス・バスウェダン前教育・文化相が現職のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)知事を抑えて初当選することになった。

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2月15日の1回目投票で過半数を確保した候補者がいなかったことから上位2候補によって争われた今回の決選投票だが、1回目でトップとなったアホック候補は前回とほぼ同じ42%前後の得票だったものの、アニス候補は3位で敗退したアグス候補の17%を前回の40%に加算した50%後半の得票で勝利した。選挙管理委員会(KPU)によると投票率は1回目と同様の77%前後で、最終的な得票数は数日後に確定される。

今回の知事選では単なる政治手腕、実績に加えて、アホック知事が選挙期間中に「イスラム教徒を冒涜する発言」があったとイスラム急進派が攻撃する事態に発展。「イスラム教徒は非イスラムの指導者には従えない」「アホック候補支持者への攻撃は許される」など急進派の「言いがかり的攻撃」があった。アホック知事は「宗教冒涜罪容疑」で裁判の被告となるなど、選挙戦は宗教論争に発展し苦しい選挙戦を強いられた。

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アホック候補は「イスラムを尊重している」と再三繰り返したが、"イスラム教徒代表"を自任するアニス候補はイスラム寺院「モスク」への訪問とイスラム教徒の結集を訴えてイスラム教団体やイスラム指導者らの支持を取り付け、じわじわと共感を広げていった。選挙戦後半にはジョコ・ウィドド大統領やユスフ・カラ副大統領、両候補がそろって「選挙の争点は宗教ではない」「宗教や人種、出身地で候補を選んではいけない」と宗教色の一掃をマスコミを通じてアピール。治安当局も投票日に6万人を動員してイスラム急進派の動きを警戒する事態となった。

社会不安を煽る宗教

アホック知事は人口の圧倒的多数を占めるイスラム教徒ではなく、ジャカルタ以外の地方出身の中国系インドネシア人であることから、インドネシアのタブーとされる「SARA(宗教・民族・人種・階層)」に選挙の争点が移るとインドネシア全体の社会不安を煽る可能性があるとして、大統領以下が一斉に火消しに回ることになった。

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「宗教色を排除しようという動きが逆に宗教を強く意識させる結果となった」(地元紙記者)ことと、アニス候補が公約として掲げた「頭金ゼロで住宅建設を促進」など"実現の可能性が疑問視"されるような貧困層へのアピールが最終的に広範な支持を集めたと分析されている。

ジャカルタ州の住民の多数が「模範的なイスラム教徒で自宅を所有できるという夢を託せる候補」としてアニス候補を選択したといえる。



大統領選候補の観測も

アニス候補はジョコ大統領から教育・文化相を解任された経緯からジョコ大統領の支持母体である与党「闘争民主党(PDIP)」と離別して、2019年の次期大統領選でジョコ大統領に再度挑戦することが確実視されるグリンドラ党のプラボウォ党首の強力な支持を背景に選挙戦に臨んだ。

プラボウォ党首は32年間インドネシアに君臨したスハルト元大統領の元女婿。それだけにPDIPとの選挙協力を公にした「ゴルカル党」(前身のゴルカルはスハルト与党だった)の幹部の多くが党に背いてアニス支持に回ったことも、PDIPが支持するアホック候補の敗因の一つという。

こうしたことや今回の選挙結果から、次回大統領選には「現職のジョコ大統領にアホック副大統領」のペアと「プラボウォ党首とアニス副大統領」のペアが立候補する可能性がでてきたとの観測が強まっている。

この大統領選の構図の背景には、長期独裁政権を強力な指導力で維持したスハルト元大統領に繋がる「旧勢力への回帰」を熱望する国民と、スハルト政権を崩壊に追い込んだ民主化勢力を代表するメガワティ元大統領が率いる「民主化勢力」を支持する国民、という宿命的な相剋がある。それはまた、独立の父「スカルノ大統領」と開発の父「スハルト大統領」という歴史的背景の反映でもあるのだ。

「多様性の中の統一」

勝利を確実にしたアニス候補はプラボウォ党首とともに記者会見して「候補者同士の違いを強調することは終わりにして、ジャカルタの人々が一致団結する時がきた」と選挙戦での対立の終焉と和解を訴えたが、会場に詰めかけた支援者からは「次期大統領プラボウォ」との声がかかる一幕もあった。

これに対しアホック知事は「(アニス候補当選は)これも良い選択として神の思し召しだ。私としては残る半年の任期に全力を尽くす」と述べ、イスラム教の祈りを支援者とともに捧げた。選挙戦が終わっても、両候補は宗教などによる有権者の分断を修復し、宗教への配慮を最優先せざるをなかったことに、インドネシアが抱える問題の根深さが象徴されている。

それは世界第4位の人口を抱え、世界最大のイスラム教徒人口を抱えながらも国是である「多様性の中の統一」という寛容に基づいた結束を標榜するインドネシアがもつ宿命ともいえる問題でもある。

イスラム教を前面に押し出したアニス候補が勝利したことで、イスラム急進派の活動が再び活発になり、今後政治の場だけでなく、あらゆる機会に「イスラム至上主義」を掲げて介入してくる危険性も指摘する声もある。PDIP幹部は選挙結果をみて「イスラム教、インドネシア国民の多様性と寛容が試された選挙といえるが、ここまでイスラム教の影響力が強いとは思わなかった。成熟しかけていたインドネシアの民主化は本物なのか、問われるのはこれからだろう」と感想を漏らした。


[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など


大塚智彦(PanAsiaNews)

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