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南スーダンからの80万人

ニューズウィーク日本版 2017年6月21日 19時10分

<「国境なき医師団」(MSF)を取材する いとうせいこうさんは、ハイチ、ギリシャ、マニラで現場の声を聞き、今度はウガンダを訪れた>

これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」

ドーハ経由ウガンダへ

4月21日のフライトは深夜0時1分の羽田発カタール航空便QR813で、ギリシャの時と同様にドーハの空港で乗り継ぎをし、そこから目的地に向かうことになっていた。

行き先が東アフリカ、ウガンダ共和国エンテベ空港であることは1か月ほど前に決まったように思う。珍しく準備期間があった。

俺は黄熱病のワクチンを打たねばならなかった。それが入国の条件だった。野口英世の研究したあの感染症である。東京検疫所に予約を入れて厳重な入館管理のもとで打つ注射の様子もくわしく書きたいところだが、それではいつまで経ってもウガンダに着かない。

ということで東京からドーハ・ハマド国際空港からさらにエンテベまで、都合20時間弱の移動はさっと飛ばしてしまおう。

いやその前にひとことだけ。

『国境なき医師団(MSF)』広報の谷口さんは出来るだけリーズナブルな航空便を選んでおり、もちろん俺も谷口さんもいつも席はエコノミーで動いている。なぜそれを書いておくかと言えば、この取材費はMSFへの寄付によってまかなわれているからで、宿泊も空きがあればスタッフと同じMSF宿舎に泊まり、空港でも取材地でも宿舎の給食以外の食費は割り勘にしているし、なるべく余計な費用がかからないよう、我々は注意しているのだ。そして最大限、MSFの活動内容とその背景にある人々が置かれた状況を効果的に知らせるべくインタビューをしたり、原稿を書いたりしている。

これは重要なことなので、俺の第一期取材としては最後になるウガンダ回に記しておくことにしました。

空港から首都カンパラ

さて、エンテベ空港に着き、午後三時過ぎの外に出ると、MSFのロゴを貼ったボードを持ったアフリカ人が待っていてくれた。もともとはタクシーがチャーターされていると聞いていたのだが、どうやらMSFのドライバーチームの一人らしい。

連れられて駐車場へ移動すると、トヨタの小型車があった。俺は生まれて初めてのアフリカだったので、助手席に座ることにした。 

日差しは強く熱かった。ラジオからはライトなギターがカッティングを続けるアフリカンポップスが流れている。目を細めて前方を見ると、首都カンパラまで38キロと表示された緑色の看板があった。

アスファルトの上を左右の大地から飛んだ赤土が覆っていた。ちょうど雨期に入っている頃で、雲には入道雲とともに日本の秋に見られるような薄く漂うものが混じっていた。巨大なビクトリア湖(九州二個分!)が穏やかに水を湛えているのが見え、周囲にはどこまで行っても緑の多いのが印象的で、道端で小さめのパイナップルや青いバナナ、野菜など売っている様子などをうかがっても、ウガンダは作物に関しては豊かに思えた(実際は各国の保健・教育・所得の平均達成度を測る「人間開発指数」において、2015年時点で 188ヵ国中163位だと言う)。

当然ウガンダと言えばアミン大統領の独裁や虐殺を思ってしまうが、現在の高速道路を走る俺の目にはあちこちにとにかく多くの学校(幼稚園、ハイスクール、大学などなど)があり、教育に力を入れている様子が理解出来る。考えればアミン失脚は遠く1979年のことなのであり、そのあとウガンダ共和国に何があったかを俺は知らなかった。

いや、反政府武装組織「神の抵抗軍(LRA)」との衝突、その後別の組織による首都での自爆テロと、基本的には依然危険なイメージだけはあった。したがって今回も、そうした紛争によるダメージに対してMSFが活動をしているのではないかと、目的地を知らされた俺はすぐに思ったのである。



80万人を超える難民

だが、当初谷口さんから届いたメールには「難民」という言葉があった。しかも80万人を超える、とあったと思う。それはほぼすべてウガンダの北、南スーダン共和国から流入していた。そう、日本の自衛隊がついに武器を持って入り、突然去ることになったあの南スーダン、特に首都ジュバ地域である。

したがって、我々はまずウガンダ首都カンパラにあるMSFウガンダのコーディネーション・オフィスへ行き、そこで問題のすべてに関するブリーフィングを受けると、一泊したのちに北部のキャンプ(というか実は「移住区」と言うべきなのだが、それは説明を受けたあとにする)へと10時間ほどかけて赴くつもりであった。

キャンプの最北部が南スーダン国境にほぼ接していることはまだまったく知らず、俺はかの国で起きていることと自分が現在いるウガンダを結びつけて考えることが出来ないまま、ある意味ではノンキにまわりの自然を、あるいはセメントで作られた首都近郊の素朴な店舗の様子を眺めていたことになる。

丘の続く地形に移ればそこがカンパラで、渋滞など経ながら一時間半ほどすると車は左の小道に入り、突然のがたがた道を行けばどん突きに鉄扉があって、懐かしいMSFのマークが塗られていた。

車が中の急勾配を登ると、左右にコロニアル風の建物があり、左側のそれの入り口に屋根つきの大きいポーチが見えた。そのポーチの下に、数人の外国人スタッフがいるのもすぐにわかった。車から降りた我々はいつものスタイルで、彼らに近づいて一人一人に握手をし、もちろん名前を名乗った。

中で最も我々を待ちわびた様子であったのが、中背で少しだけ太った中年紳士ジャン=リュック・アングラードで、くしゃくしゃの髪の毛に度の強い眼鏡をかけたにこやかなフランス人だった。谷口さんは本当にうれしそうに彼の名を呼んで抱擁を交わしている。聞けば、ジャン=リュックはMSF日本支部でオペレーション・マネージャーとして4年半勤務し、家族と共に住んでいたのだという。それが今度はウガンダで会うというのだから、いかにも『国境なき医師団』らしい再会なのだった。

宿舎にいるメンバーと食事の有無を示すボード

それぞれあてがわれた部屋に荷物を置き(ポーチのある建物が宿舎、急勾配の道の右がオフィスになっていた)、少しゆっくりしてからオフィスへ向かうと3階まで上がった。そこに活動責任者ジャン=リュックの部屋があった。

彼は実に優しげに人なつっこく笑う人で、笑うと八重歯が見えてかわいらしかった。アフリカ人の奥さんとの間に三人子供がいるうち、二人はフランスに残り、14才の男の子を連れてきているという。そして残った二人のうちの一人はミュージシャンで、その場で映像を見せてもらったがこれがかっこいいファンクバンドのボーカルなのだった。ジャミロクワイ的な粘りの声、そして弾むリズム感が素晴らしく、俺はついつい見入った。



そしてジャン=リュックもまた、俺が音楽をやると知っており、ユーチューブで探せるかと熱心に聞いてきた。もちろん教えたし、どうやらその夜には全部見ていたようだ。

それはともかく、彼は今回2年間のミッションでウガンダに来ており、これまではチャドに3年、東京に4年半、その他活動責任者としてアンゴラ、エチオピア、ケニア、モザンビークに派遣された実績があった。学生の頃から水・衛生に関する勉強を重ねており、母国の公衆衛生局で技師として勤務していた。そんな中、初めての国外旅行でアフリカを訪れ、ブルキナファソでNGOの活動を目にした際、「これこそやりたいことだ!」と確信したのだそうだ。

すでにそういうキャリアがあったため、MSFを選んだ時にもトレーニング期間は短く済んだと言うから、彼はNGOにおける大変優秀な特待生のようなものではないかと俺は思った。人を助けるべくして研鑽を積み、粛々とその知見を生かし続けているのだ。

ということで、ジャン=リュックは基本的には「WATSAN(water and sanitation 水と衛生)」を中心とする環境整備にいそしむロジスティシャンとして活動を始め、そこにくわしいリーダーとして活動責任者を務めるようになったわけだった。確かにのちのち、俺もアフリカのキャンプで水がどれほど大切かを知ることになる。

さてそのジャン=リュックが力を尽くすウガンダの困難とは何か。

それが先ほども書いた南スーダンからの難民問題なのだった。

「昨年2016年の7月8日からそれは始まった」

とジャン=リュックは資料をテーブルに広げて言った。彼の指さす場所に棒グラフがあった。

ジャン=リュックは語る。

「日々、難民が到着し始め、最初の7月に5万人以上が移動してきたことになる」

グラフではそこから月ごとに増減はあるもののほとんど変わることなく、今でも一日に平均2000人が流れ込んでいた。世界史の教科書に書かれるであろう、とんでもない民族移動である。

それが今の今、起こっているのだった。

「我々MSFは7月からすぐさま水の供給にも入った。国際機関や他のNGOは食糧や住宅と、互いに緊急に分担を決めて動いたんだ。7月25日からはその直前に伝染病が始まるおそれも見られたため、我々はコレラ対策も緊急始動した」

重ねて書くけれども、これはたった1年前、いやほぼ半年前に起きたことであり、現在も終わっていない事態である。

原因は2013年から再燃した南スーダン政府軍と反政府軍の紛争である。衝突は続き、何万人もの人が亡くなっているし、おそらく今日もまたどこかで家を焼き払われ、レイプが起こり、自軍に入れるために誘拐される子供がいる。

「8月、5万人。9月、8万5千人」

もう一度確認するようにジャン=リュックは言った。ジュバで激しい銃撃戦が起きた。日本では自衛隊が初めて武器携行をしての出動をするということで、ジュバで起きたことを「武器を持った衝突」と呼んだ。「戦闘」ではないということだったが、俺には意味がよくわからない。



これほどの人数が我が家を捨てて逃げなければならない事態だが、10月には我が国の防衛大臣が7時間の滞在のあと「状況は落ち着いている」と言った。まさにその間、南スーダンの人々は先祖伝来の畑と別れ、家族を亡くし、命からがら国境を越えていた。

「昔からウガンダには、例えばコンゴ共和国やあの大虐殺のあったルワンダから難民はやって来ていたんだが、南スーダンのケースはあまりに数が多い。したがってすぐに計画を立てて出動したんだよ。だけどいつ終わるか、まったく読めない。軍同士の戦いに加えて部族のいさかいも持ち込まれて、混乱した状況が続いている」

そこでMSFはどういう経路で難民のみんなが南下したかを把握し、その人数に応じて数ヶ所に展開をしている。我々が今回取材協力してもらった『国境なき医師団』のOCP(オペレーションセンター・パリ)の他、今ではOCA(アムステルダム)、OCG(ジュネーブ)もそれぞれ活動地を持っているらしく、しかもそれぞれが国連やセーブ・ザ・チルドレンを始めとする他団体と役割分担し、増大する難民たちの移住に関わっている。

世界中の人道団体が、ウガンダ北部で日々救援活動をし、たった半年で80万人を超えてしまった難民への対策に追われている。

例えばMSFでは水からコレラ対策、基礎医療、妊産婦ケア、小児医療、外来診療、入院治療、救急医療、移動診療(アウトリーチ)などなど。

その緊急性を俺は知らずにいた。

まったく恥ずかしいことに。

ブリーフィングを続けるジャン=リュックの笑顔の奥に、一貫した意志と絶望に負けまいとする自己への励ましが潜んでいるような気が、さすがに俺でもし始めていた。

では彼らはウガンダ北部で何をしているのか。それは次回に書こう。

まず予告しておかねばならないのだが、そこにあるのは途方もなく広大な「難民キャンプ」なのであった。

それはそうだろう。もうすぐ85万人になろうという人々がひきもきらず、今この時(2017年5月初旬)も流れ込んでいるのだ。

キャンプのすぐ上が南スーダンとの国境だ。

ちなみにジャン=リュックの息子さんがやってるバンドの音源&映像はこちら。



もうすっごく好み!

続く

いとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

いとうせいこう

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