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朝鮮戦争に参戦したのは中国人民「志願軍」──「義勇軍」ではない

ニューズウィーク日本版 2018年7月30日 16時50分

日本の少なからぬメディアは、朝鮮戦争に参戦した中国の軍隊を「義勇軍」と報道しているが、それは大きな間違いだ。「義勇軍」は「抗日義勇軍」しかなく、中国の国歌「義勇軍行進曲」にもなっている。

中国人民志願軍とは

日本の大手のテレビ局や新聞、あるいは中国研究者の中にさえ、朝鮮戦争に参戦した中国の軍隊を堂々と「義勇軍」と称していることが散見される。これは大きな間違いで、もし中国政府がこのことに気づき取り上げたときには、いわゆる「歴史問題」を持ち出しかねない要素さえ孕んでいる。

そこで、その違いをご説明したい。

まず、「中国人民志願軍」。

これは1950年10月8日に朝鮮戦争を支援するために組織した軍隊に対して毛沢東が命名したものである。

以下は中国政府側の資料に準拠する。

同年6月25日に金日成(キム・イルソン)が朝鮮戦争を始めると、7月7日、国連安保理は第84号決議案を可決して、韓国を応援するために国連軍を派遣することにした。8月中旬、北朝鮮の朝鮮人民軍が韓国軍を釜山まで追いやり韓国の90%ほどの国土を占領すると、9月15日にアメリカを中心とし国連軍は仁川に上陸して大規模な反撃を開始した。

9月27日、アメリカのトルーマン大統領が率いる国連軍が朝鮮戦争に参戦して、台湾海峡には米海軍の第七艦隊を派遣した。翌28日、中華人民共和国中央人民政府主席の毛沢東は「全国と全世界の人民は団結せよ。あらゆる準備をして、アメリカ帝国主義の如何なる挑戦をも打破せよ」というスローガンの下に北朝鮮を支援するための準備を始めた。

そして米軍戦闘機が中国の領空を飛び、中国の東北辺境を爆撃し、38度線を越えて平壌を占領し中朝国境の鴨緑江に迫ると、10月8日に毛沢東は中国人民解放軍東北辺防軍を中国人民志願軍と命名して、北朝鮮に送り込んだのである。

中国人民解放軍東北辺防軍とは、第四野戦軍第13兵団(第38軍、39軍、40軍),第四野戦軍第42軍、砲兵第1師団、第2師団、第8師団と一定数の高射砲兵団、工兵、戦車部隊など25.5万人によって編成されたものである。

北朝鮮の要請によって、中国人民志願軍は10月19日に中朝国境の鴨緑江を渡って入朝し、10月25日に正式に朝鮮戦争に参戦した。中国人民志願軍の総計はやがて240万人に膨れ上がっていた。



中国では一般に「抗美援朝(戦争)」(美は米国の意味。アメリカに抵抗し北朝鮮を支援せよ)というスローガンで朝鮮戦争のことを指す。少年兵までいて、小学校では、志願軍に志願しないのは「勇気がない者」という後ろめたさを感じるようにさせるほど、志願軍に志願することが英雄視されていた。

中国語の発音を日本語で書くのは困難なのでピンインで書くと[ zhi-yuan-jun]となる。敢えて日本文字で書くと「ズー・ユェン・ジュン」だ。この音を聞くと、今でもゾッとするほど、激烈な志願者募集運動が行われていた。

「義勇軍」は抗日のための非正規軍隊

一方、「義勇軍」というのは、抗日戦争、すなわち日本軍に抵抗するために、日中戦争時代に民衆によって自主的に形作られていった非正規軍だ。

1931年9月18日、いわゆる「満州事変」(柳条湖事件とも。中国での呼称は「九・一八」)が起きると、東北三省や当時の熱河省(現在の河北省、遼寧省、内蒙古自治区にまたがる地域)にいた愛国軍民が民衆レベルの抗日武装をして「義勇軍」と称したり、1931年10月5日には上海で「上海市民義勇軍」を結成したりなどして、非組織的な抗日ゲリラ活動を行なうようになった。東北抗日義勇軍が代表的だ。

やがて毛沢東が率いる中国共産党の「抗日民族統一戦線」に組み込まれて中国共産党軍の指導下で戦うようになるが、戦費はほとんど周りの有志らによって賄われていた。

義勇軍のスローガンは「誓死抗日救国(死に誓ってでも抗日を貫き国を救う)」と「我が山河を返せ」であった。

中国の国歌となった「義勇軍行進曲」

この義勇軍のスローガンがやがて「義勇軍行進曲」という歌になり、建国後、この曲を国歌にすることが決議された。

この歌自身は1935年の映画『風雲児女』の主題歌として世に出たのだが、1949年9月21日、第一回の中国人民政治協商会議において、「義勇軍行進曲」を国歌にすることが提案され、9月27日に決議された。10月1日には建国を宣言しなければならなかったので、非常に緊迫した中で決定された。

その意味で、「義勇軍」というのは、中国にとっては「国家を象徴する」神聖な言葉なのである。

ただ、「抗日義勇軍」の「義勇軍」を国歌としたために、まるで中国(中華人民共和国)という国家が「抗日戦争の結果、誕生した国」という「捻じれた誤解」と「中国共産党による正当性」を主張する結果を招いている。



実際は1945年8月15日に日本が敗戦を宣告したあと、日本軍と戦った国民党軍率いる「中華民国」の国民党軍と戦って勝利したのが中国共産党軍であり、中華人民共和国は「国民党を打倒して誕生した国」であることは明らかである。国家が誕生したのが1949年10月1日であることを考えれば、言を俟(ま)たない。

中華人民共和国が決して日本軍を打倒して誕生した国でないどころか、毛沢東は日本軍と密通して、日本軍と戦っている国民党軍を弱体化させ、共産党軍を強大化させたから中国共産党による国家が誕生したことは拙著『毛沢東 日本軍と共謀した男』で詳述した。

日本の関係者はもっと中国における「志願軍」と「義勇軍」との違いに神経を尖らせ、安易に「朝鮮戦争に参戦した中国の義勇軍は」などという、まちがった表現をしないように注意を喚起したいと思う。中国から逆に、日中戦争の歴史を知らないのかと日本を非難する口実を与えるようなことは避けたいからだ。

金正恩が中国人民志願軍と毛沢東の息子の墓を参拝

なお、朝鮮戦争の休戦協定締結65周年記念日である7月27日、金正恩委員長が中国人民志願軍と、朝鮮戦争で戦死した毛沢東の息子・毛岸英の墓を参拝したようだ。

北朝鮮はかつて中国人民志願軍や毛岸英の墓碑を粉々に壊して、中国への敵意をむき出しにしたことがある。

文化大革命における紅衛兵が金日成を「走資派(資本主義に走る者)」と批判したのを知った金日成が激怒したからだが、それに対して毛沢東は3年間、中朝国境を完全封鎖した。

その後、墓碑は修復されて、中朝も少しだけ仲直りしたが、中朝両国はこういった「憎悪」と「(表面的な)友誼表現」を繰り返している。

今は金正恩は、ともかく中国からの経済支援が欲しいし、一刻も早く国連安保理の経済制裁を解除する方向に中国が動いてほしいと切望している。だから、実に珍しく墓参をして、習近平国家主席に見せようとしたのである。


[執筆者]遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『習近平vs.トランプ 世界を制するのは誰か』(飛鳥新社)『毛沢東 日本軍と共謀した男』(中文版も)『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。


※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

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遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)

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