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日本人の美徳は罪悪感と報恩精神──とドイツ在住ライター

ニューズウィーク日本版 2018年10月31日 19時0分

<ゆとり世代でドイツ生活4年半という著者による『日本人とドイツ人』が、ドイツから見た日本を描き出す>

『日本人とドイツ人――比べてみたらどっちもどっち』(雨宮紫苑著、新潮新書)の著者は、ドイツ在住のフリーライター。現地での就職活動や大学生活に挫折し、気晴らしに始めたというブログが話題になったことから現職に落ち着いたという経緯の持ち主だ。

 大学在学中、ヨーロッパ=カッコイイというありがちな憧れと、「お兄ちゃんも留学してたからわたしも」という安易なノリ、さらには返済不要の奨学金つきということもあり、勢いで一年間ドイツ留学。そこでドイツをすっかり気に入り、わたしは大学を卒業した二〇一四年の九月にふたたび渡独した。気がつけば、ドイツ生活も合計四年半を超えている。(「はじめに」より)

この記述だけを目にすれば、いかにも器用にドイツに溶け込んでいったように思えるかもしれない。しかし実際にそんなことはなく、生まれも育ちも日本であり、外国人の友だちもいなかった身として大きなカルチャーショックを受けたのだという。

なにしろ価値観もライフスタイルも違う異国なのだから、それ自体は当然のことかもしれない。しかし重要視すべきは、そんな状況下で著者が自国である日本のことを見つめ直した点だ。

ドイツのことを知りたいが故に、ドイツ人に対して社会や文化、政治についてあれこれ聞けば、驚くほど明確な答えが返ってくる。ところが彼らから「日本はどう?」と聞き返されると、答えられずに苦笑いすることしかできなかったというのである。

これはおそらく著者だけでなく、海外経験もしくは外国人との交流を持たない日本人の多くに共通することではないだろうか? おそらく私にしたって、同じようなことになると思う。だからこそ、著者が感じたこと、思ったことの多くを、我がこととして受け止められたのだ。

 わたしは、一九九一年、SMAPがデビューした年に生まれたゆとり世代のひとりだ。秋篠宮眞子さまやプロゴルファーの石川遼選手、嗣永桃子(ももち)さんや前田敦子さんと同級生。そんなわたしは、現在ドイツに住みながら細々と文章を書いている。 ドイツ生活を一言でまとめるとすれば、「期待のはるか下、想像のはるか上」といった感じだろうか。(「はじめに」より)

書かれていることの大半は自身の体験談である。しかも「ドイツでの生活を体験した自分から見た日本」に関する記述が予想以上に多いので、読みながら何度か、「あれ、期待していたのはこういうことだったっけ?」と感じたのも事実だ。

「日本人とドイツ人」というタイトルがつけられている以上、それは仕方がないことかもしれない。しかし「ドイツを知らない日本人」としては、どうしてもドイツに関することについて多くを期待してしまうわけである。



とはいえ、著者ならではの視点も当然あり、そこがフックになってもいる。特筆すべきは「ゆとり世代のひとり」として、オタクカルチャーを当然のものとして受け入れてきた世代感覚だ。そこには、他の世代からは見えにくいリアリティが投影されているのである。

 わたしはアニメとマンガが大好きだし、「モーニング娘。'18」などのアイドルが所属している「ハロー!プロジェクト」も好きだ。だから、多くの外国人が日本のポップカルチャーに興味を持ってくれること自体はとてもうれしい。だが誤解しないでほしいのは、「オタクは海外でもあくまでオタクである」ということだ。 わたしのパートナーや一部の友人もアニメが好きなのだが、それを積極的に公言はしない。ドイツには「アニメは子どもが見るもの」というイメージがあるから、アニメ好きなのは恥ずかしいことなのだ。彼が本屋でマンガを買ったとき、透けるビニール袋ではなくわざわざ布の袋を買っていたし、わたしがバスでマンガを読んでると彼はちょっとイヤな顔をする。(30~31ページより)

 そしてそれは、アイドルでも同じことだ。ドイツでは友人同士が集まるとスマホやタブレットで好きな音楽を聞かせあうという、謎のコミュニケーション方法がある。そのとき「日本の音楽を紹介して」と言われることが多いので、わたしはアイドルを知ってもらおうと、何度かアイドルの動画を見せた。だが率直に言うと、ドイツ人からの評判はすこぶる悪い。「未成年が下着で踊っている」「義務教育を受ける年齢なのに親はなにをやっているんだ」なんて言われたし、「いい年した大人が児童ポルノみたいなビデオを見て喜んでいるのか......」と引かれたこともある。それでいまでは大人しく、宇多田ヒカルを流すことにしている。(31~32ページより)

ここで注目すべきは、上記のような現実に対する著者の主張だ。「わたし自身二次元にどっぷりハマっているし、これからもアイドルを応援するつもりだ」と認めながらも、「あまり『海外でも人気!』と言いすぎると、現実と差ができてしまうんじゃないかと心配になる」と冷静な視点で目の前の状況を捉えているのだ。

至極まっとうな考え方である。これ以前に著者は、「日本スゴイ」が蔓延する日本のテレビ番組への違和感をも明らかにしているのだが、つまりそれは、「この国はこう」という発想が行き過ぎ、しかもそこに客観性が欠如していることの証拠でもあるのだ。焦点が当たりにくいその部分をクローズアップしてみせたというだけでも、著者の主張には大きな意義がある。

そしてもうひとつ興味深かったのが、「日本人の美徳」について触れた項だ。著者はもともと、日本の「空気を読む」という文化に馴染めなかったという。しかしドイツで暮らすようになってから、いろいろな場面で「いまの自分の行動、日本人っぽいな」と感じることがあった。ただ、そう思う理由がわからず、ずっとモヤモヤしていたのだそうだ。



面白いのは、そんななか、答えを見つけるために夏目漱石の『こころ』を読んでみたという点である。

 あまりにも有名だが、『こころ』のあらすじをざっくりとまとめよう。先生なる人物は昔、恋敵である友人Kを自殺に追い込んでしまった。先生はそのことをずっと気に病み、最後には自殺する、という話である(「まとめ方が雑すぎる」と怒る人もいらっしゃるかもしれないが、大目に見ていただきたい)。 ともあれわたしは『こころ』を読んで、「これだ!」と思った。わたしが「日本人らしい」と思う場面には常に、罪悪感という気持ちが絡んでいたことに気がついたのだ。(191ページより)

『こころ』から著者が感じ取った「日本人らしさ」とは、罪悪感に敏感で、「自分が悪い」と自省しやすく、そのため罪悪感を覚える行動を避けるというもの。そう考えれば、日本の治安のよさにも納得できるというのだ。そしてそれは、ドイツにはない感覚なのだという。

さらに言えば、もうひとつの注目点は「報恩精神」だ。

 そういえば"報恩精神"にふれたときも「日本人っぽいなぁ」と思った。「この前レストランを予約してくれたから今度はわたしが予約するね」とか、「この前手料理を食べさせてもらったから今回はおごるよ」という会話が、日本では日常的に繰り返される。家に招待されて立派なご馳走を振舞われたら、次回は自宅に招いて同じくらいのもてなしをする。 毎回毎回「与えられる側」でいることを良しとせず、他人の善意に甘えず、受けた恩は返すのが常識だ。そうでなければ日本では不義理になってしまう。(中略) ドイツ人が恩知らずというわけではないが、それでもドイツでは「善意はありがたくもらっておけ」という考えのほうが強い気がする。お礼は言うが、そこで終わり。恩を返そうとすると、むしろ「お返しを期待してやったわけじゃない」と言われてしまう。だからなのか、「気を遣わせてすみません」とは言わず、「親切にどうもありがとう」という表現になる。(201~202ページより)

この違いについて著者は、「そう考えると、やっぱり報恩精神も日本人らしさのひとつだ」とまとめている。「次はわたしがするね」といった表現を聞くたびに、うれしくなるというのだ。だから、読んでいてもそこに日本人らしさを感じるし、そのような着地点があるからこそ、読み終えたとき腑に落ちた印象が残るのである。


『日本人とドイツ人――比べてみたらどっちもどっち』
 雨宮紫苑 著
 新潮新書


[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。新刊『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)をはじめ、ベストセラーとなった『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。




印南敦史(作家、書評家)

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