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ノートルダム大聖堂はなぜフランスの象徴か

ニューズウィーク日本版 2019年4月22日 19時0分

<宗教も党派も無関係に機会あるごとに人々が集まり、災害があれば避難する──だから、ノートルダムの火災は「キリスト教の悲劇」ではなく「私たちの悲劇」だった>

「ノートルダムは何世紀にもわたって、人類の精神(エスプリ)を象徴していた。(......)。ノートルダムは、パリの精神、そしてフランスそのものの象徴だった。(......)私は今喪に服している」

沈痛な面持ちで、ジャン=リュック・メランション氏は語った。彼はまた、ネットメディアへの寄稿でこうも書いている。

「無神論者も信仰者もノートルダムは私たちの共通の大聖堂である。あらゆる時代の波を乗り越えて私たちを運んでくれる船である。私たちはみんな同じようにそれを愛していると私は信じる」 (2019年4月19日、Leglob-journal)

4月16日の「リベラシオン」紙は、まさに崩れようとする尖塔の写真を1面いっぱいにつかって、ただ一言「NOTRE DRAME」と書いた。Notre Dameをもじったものだが、Drameは悲劇ということである。「私たちの悲劇」。

「悲しみ」「嘆き」「心痛」「涙」「破滅」「災難」......ノートルダム大聖堂の火災は数えきれない反響をよんだ。その中で、あえてこの2つを紹介したのは、メランション氏は左翼政党「不服従のフランス」党首であり、「リベラシオン」は左派系新聞だからである。つまり敬虔なキリスト教徒とは対極にある。

人の英知が生んだ建築

フランスは「教会(ローマ教会)の長女」といわれる伝統的なカトリック教国である。 調査会社Ifopによれば、1972年には87%がフランス国民のカトリック教徒だった。とはいえ、2010年には65%に減少、さらに、最低月に1度ミサに行くと答えた人はカトリック教徒の7%、国民全体では4.5%にすぎなくなってしまっている。

炎に包まれた大聖堂の前には祈りをささげる若者たちの姿があった。だが、ノートルダムの火災はキリスト教徒の悲劇ではない。ただただ「私たちの悲劇」なのである。

諸外国ではよく首都移転が議論される。実際、日本でも京都から東京に移った。しかし、フランスではパリから移すということは全く考えられない。つねにパリはフランスの中心である。そしてパリの文字通り中心にあるのがシテ島である。このセーヌ川の中州はパリの発祥の地でもある。

メランション氏はノートルダムの建築を讃えて「石の重さではなく人の英知によって支えた」という。それまでのように隙間なく大きな石を積み、それによって建物を支えるのではなく、外の支柱に力を逃がす構造でつくられている。これによって、大きな窓が作れ、華麗なステンドグラスが可能になった。まさに、人の英知が作り出した進歩である。



この建築は、ゴシック様式といわれているが、ルネサンス期のイタリアで従来の決まりと技術を守らなかったために軽蔑の意味で蛮族の名を冠しゴート族式と呼んだもので、この言葉ができる前は「フランス式」といわれていた。ギリシャ・ローマ文化を咀嚼してフランスの文化というものを創造した記念碑でもある。

今では、教会の前は広場になっているが、これは、19世紀後半のパリ大改造の時に作られたもので、それまでは集合住宅が密集していた。つまり街の中にこつ然と現れる大建築であった。

別に神に祈るためではなくとも、機会あるごとに人々が集まった。災害があると人々はノートルダムに避難した。

大聖堂は平安末期の1163年から南北朝時代の1345年にかけて建設されたが、着工から50年後ぐらいには雨露をしのげるようになり、1302年には、聖職者・貴族・有力市民の国会にあたる初めての三部会が開かれた。この伝統が500年続いて、ベルサイユで行われたときにフランス革命の発端となったのである。

千年、パリを見続けた

革命の時には攻撃され、彫刻、家具等が壊されたが、1793年、ロベスピエールが唱えた反宗教の宗教「理性宗教」の総本山になった。

しかし、老朽化も進んでおり、取り壊しの声も出た。

そんなとき、有力な政治家でもあるヴィクトール・ユゴーが「ノートルダム・ド・パリ」(邦題ノートルダムのせむし男)を発表した。宗教の場としてではなく、舞台としてノートルダムをつかい、聖なる場所を冒涜したという批判もあったが、彼の目的は遺産を守ることであった。かくして世論をバックに修復が行われ、現在に至った。ちなみに、「ノートルダム・ド・パリ」は20年前にはミュージカルにもなり大ヒットした。

第2次大戦のパリ解放の戦いでは広場を隔てた正面の県庁・警視庁がレジスタンスの本拠になり、ドイツ占領軍の攻撃をかいくぐって大聖堂に三色旗が掲げられた。解放直後の1944年8月26日、ドゴール将軍を先頭にシャンゼリゼから行進し、ノートルダムで勝利の讃美歌が歌われた。

「この地は何世紀にもわたって様々な争いをくぐってきた力強い場所なのです」と58歳の女性はパリジャン紙に語っているが、そのとおりである。

パリの欠かせない観光名所といえば、凱旋門、エッフェル塔、ノートルダムだが、初めの2つはフランス革命以降に作られたものだ。ノートルダムは千年の歴史を貫いて生き続け、良い事も悪い事もすべて見守っていた。



フランス国王の戴冠式はランスで行われた。墓所はサンドニである。ゴール(ローマ帝国のガリア=現在のフランス)の首座大司教の座はパリではなくリヨンにある。このように、ノートルダムは、聖俗の権力から若干の距離を保っていた。教会としてのノートルダムもまた何よりも「パリ」の、そしてフランス国民のものだったといえる。

フランス人にとってノートルダム大聖堂とは何なのか。一言で答えるならば「いつでもそこにあるもの」である。

火事騒ぎが終わって、改めて見てみると、今もある。屋根が焼けて、尖塔が崩れた。しかし、建物はしっかり残っている。

トランプ大統領が「空から水を落とせばいい」といったツイッターにパリの消防当局は、構造が壊れてしまうと反論した。たしかに上空からピンポイントで水を落としていたら、爆撃しているようなものだ。パリの石灰岩は案外熱に弱くて脆くなっているから、崩れ去ってしまっただろう。

消防隊員への賛辞が続いている。それはまちがいなく、フランス国民の象徴であり、フランスというものの象徴を守ってくれた人への感謝だ。 


[執筆者]
広岡裕児
1954年、川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒。パリ第三大学(ソルボンヌ・ヌーベル)留学後、フランス在住。フリージャーナリストおよびシンクタンクの一員として、パリ郊外の自治体プロジェクトをはじめ、さまざまな業務・研究報告・通訳・翻訳に携わる。代表作に『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの』(新潮選書)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文藝春秋社)、『皇族』(中央公論新社)他。

広岡裕児(在仏ジャーナリスト)

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