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PTSD治療の第一歩は潜在記憶の直視から

ニューズウィーク日本版 2019年6月19日 17時30分

<性的虐待の記憶はなぜ被害者を苦しめ続けるのか――トラウマ回復の鍵はつらい体験と向き合うことだ>

マリアはきちんとした身なりで診察室に入ってきた。バッグは高級なブランド品、爪には鮮やかなコーラルのマニキュア、マスカラとアイライナーも完璧だ。でも彼女の顔はこわばり、ほとんど表情がなく、怯えたような目をしていた。眠れなくて、すごく不安なんです。マリアはそう訴えた。

聞けば幼い頃に、おじから性的虐待を受けていたという。当時の記憶はほとんどない。大人になってからは、おじに会わないようにしてきた。

20代の頃にも不安の症状があったが、カウンセリングが効いたようで、それからは問題がなくなったように思えた。そして新しい仕事に就き、結婚し、子供をもうけた。

しかし1年足らず前、マリアは離婚でつらい体験をした。それから彼女を虐待したおじが死んだ。おばがかわいそうなので、彼女は葬儀に出た。

「葬儀が終わって」とマリアは言った。「自分の車に戻り、運転席に座ったら奇妙なことが起きたんです。震えが止まらなくて、心臓がドキドキし、息ができず、窒息しそうで。初めてのことで、15分ほどは動けなかった。これって過去の虐待と関係があるのでしょうか?」

1週間後、マリアが再び訪れたとき、私は彼女の外見の変化に驚いた。染みの付いたTシャツ姿で、髪は無造作に結んであった。話し方はぎこちなく、内容は脈絡がない。次々とよみがえる性的虐待のつらい記憶に、彼女は溺れていた。公園への散歩や家族の誕生会、感謝祭のディナーやお泊まり会。どれもがおじの暴力で汚されていた。「自分じゃコントロールできない。思い出が勝手にやって来る。頭がおかしくなりそう!」

私が落ち着かせようとしても反応がない。すっかり取り乱して、私の質問にもまともに答えられない。

「お願い、触らないで」。怯えた声でそうつぶやいたかと思うと、今度は怒りだし、泣きながら叫ぶ。「だめ、だめ、そんなことしないで!」

心的外傷後ストレス障害(PTSD)の典型的な症状であるフラッシュバックだ。このとき患者は過去の記憶に圧倒され、もはや現在は存在しなくなる。

性的な暴力は今の社会にはびこっているが、その大半は明るみに出ない。

セクハラ告発の #MeToo 運動が起き、ウェイド・ロブソンとジェームズ・セーフチャックがドキュメンタリー映画『ネバーランドにさよならを』で幼時にマイケル・ジャクソンから受けた性的虐待を告発し、クリスティーン・フォードが最高裁判事ブレット・キャバノーから高校生の頃に受けた性的暴行を議会で告発する時代になっても、状況は変わっていない。

なぜか。性犯罪の被害者に対する世間の偏見が問題なのはもちろんだが、別の理由もある。心的外傷を受けた脳の働き方だ。PTSDは人知れず進行する。その間にトラウマの記憶は歪曲されていく。

だから被害者の説明は矛盾や食い違い、欠落だらけになる。話の信憑性に対する疑惑が、新たなセクハラや虐待、暴行のサイクルを継続させる。



ジャクソンと、彼に性的虐待を受けたというロブソン DAN REED/HBO

PTSDでは、そのトラウマを思い出し、あるいは忘れようとする脳の働きが大混乱を来す。専門家はそれを記憶障害と呼ぶ。

PTSDに関わる記憶には2つのタイプがある。1つは、本人が望まないのに侵入してくる記憶。それはトラウマを追体験するような感覚で、非常に鮮明で、激しく感情を揺さぶる。人の脳は、さまざまな記憶を整理し、時間をかけて熟成させ、落ち着かせるものだが、トラウマの記憶に関してはこのプロセスが過剰に働く。

それでトラウマの記憶は消されずに残り、何週間も、何カ月、いや何年もたってから不意に頭をもたげ、強烈なリアリティーを持って襲ってくる。マリアの場合がそうだった。

こうした記憶は、本人が望まないのに繰り返しよみがえる。それを「消せないイメージ」と呼ぶ人もいる。フォードも36年前に受けた暴行時に自分が着ていた服(服の下に水着を着けていた)や飲んだもの(ビール1杯)、かかっていた音楽などの細かい記憶を「消せない」と表現していた。

自己防衛ゆえの記憶障害

これとは別に、本人が自発的に想起できるトラウマの記憶がある。それはさして感情を揺さぶることもなく、たいていはまとまりのない記憶だ。

そもそもトラウマになった出来事の最も悲惨な部分(ほんの一瞬かもしれないし、何時間も続いたかもしれない)は言葉にできない。現にマリアも、幼い日々に性的虐待を受けたことは「知って」いるが、当時の具体的なことは(少なくとも自発的には)ほとんど思い出せない。暴行を受けた夜のビールや音楽を覚えているフォードも、その後どうやって家に帰ったかは思い出せない。

保護者や近親者から深刻な、あるいは長期にわたる虐待を受けている幼児は、取りあえず現実を遮断することで自分を守ろうとする。幼児は食べ物や水、衣服や住む場所などで虐待者に依存しているから、物理的には逃げ出せない。でも現実を遮断すれば心理的に逃避できる。

しかし、この場合はトラウマを意識レベルから無理やり排除することになり、記憶の一部が失われることもある。

しかも、その防衛効果は長続きしない。時がたち、虐待者に依存する必要が減り、虐待者から距離を置いて生きられるようになった頃、突如としてトラウマの記憶がよみがえり、被害者を苦しめることになる。

性的な虐待を受けた子供たちは、往々にして最初は虐待そのものを否定したがり、虐待者の名前を言おうともしない。しかし時がたつと、言えるようになる。ロブソンとセーフチャックも、10代の頃は断固としてジャクソンを擁護していたが、成人後は曖昧になり、やがて彼に疑いの目を向けるようになった。



PTSDに苦しむ人の記憶は危険なほどリアルなこともあれば、恐ろしく曖昧なこともある。記憶を完全に喪失してしまう人もいる。そのせいで心的外傷や性的虐待の被害者の証言は一貫性を欠き、なかなか信じてもらえない。

肝心の出来事に関する記憶が不確かなら、その証言をどこまで信用していいのか。一生を左右するほど大きなトラウマを抱えているのは確かなのに、その記憶は意識レベルから排除されている。なぜなのか。

トラウマの「保管」場所

20年来、専門家は記憶の仕組みを解明することで、この問題を解決しようとしてきた。

記憶は顕在記憶と潜在記憶に分類される。電話番号のように、意図的に思い出そうとすれば取り出せるのが顕在記憶。一方の潜在記憶は、心的または外的な誘因によって勝手によみがえる。脳が自動運転モードに入ったようなもので、車の運転中には意識しなくとも赤信号に気付き、歩行者を避けられる。潜在記憶が働いて動作をコントロールしているからだ。

そしてどうやら、脳はトラウマを潜在記憶にしまっているらしい。だからその記憶は自発的には取り出せないが、何かのきっかけがあると、いやでも呼び覚まされる。

脳には、その出来事を体験した時に五感が捉えた情報(臭いやラジオから流れていた音楽など)も記憶されている。こうした情報は全て関連付けられ、恐怖構造と呼ばれる神経回路網に保管される。

そして恐怖構造にしまわれた情報のうち1つでも刺激されると、関連付けられたトラウマの記憶が全て怒濤のように押し寄せてくる恐れがある。

マリアが私の診察室で激しいフラッシュバックを経験したのもそのためだ。数十年前の性的虐待を、今になって追体験させられたわけだ。

こうした恐怖構造は、PTSDを抱える人の生活の質を著しく下げる。恐怖構造に組み込まれた感覚的要素は日常生活の中でいつ刺激され、発作の引き金になってもおかしくない。マリアの場合はスーパーの店員がおじに似ていたり、隣に座った同僚がおじと同じローションを使っていたりするだけで恐怖に襲われ、虐待されたときの感覚がよみがえるかもしれない。

しかも引き金となる感覚とそれがもたらす苦痛の関連性に、当事者はめったに気付かない。マリアは店員とおじが似ていることに気付きもせず、ただ恐怖に駆られて逃げ出すだけだろう。いつ何が引き金になるか分からないため、いつどこで発作が起きるかも分からない。



この恐怖構造を解体していけるかどうかが治療の鍵を握る。PTSDを克服するには熟練した専門家の指導の下で、患者は何度もつらい体験を語る必要がある。言葉にできない苦しみを、いつでも言葉にできる体験に変えなければならないのだ。

決して楽な作業ではない。心の傷を思い起こさせるものは何であれ避けたいのが人情だ。傷から目を背けたい衝動は強く、多くの患者が幻覚剤や医療用マリフアナにすがる。だが薬物は根本的解決にならず、恐怖構造を壊してもくれない。

記憶の秩序を取り戻さなければ――。そう意識して初めて、患者は健やかな新生活への一歩を踏み出せる。

(本稿は筆者の新著『言葉にできない記憶――PTSD研究の最前線から見たトラウマと癒やしの物語』からの抜粋)

<本誌2019年6月25日号掲載>


※6月25日号(6月18日発売)は「弾圧中国の限界」特集。ウイグルから香港、そして台湾へ――。強権政治を拡大し続ける共産党の落とし穴とは何か。香港デモと中国の限界に迫る。



シャイリ・ジャイン(精神科医、スタンフォード大学医学大学院准教授)

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