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恩師の評伝 服部龍二『高坂正堯』を読む

ニューズウィーク日本版 2019年8月8日 13時50分

<1996年に62歳で亡くなった、日本を代表する国際政治学者・高坂正堯。論壇やテレビ、また大平内閣、中曽根内閣時代のブレーンとして活躍し、今もその存在と影響は大きい。話題書を、最も関心を持ったのは「大学教師としての高坂」という教え子、戸部良一が読む>

国際政治学者高坂正堯は、一九三四年五月に生まれ、九六年五月に亡くなった。六二歳になったばかりだった。

私は一九六九年、法学部三年生のとき高坂の国際政治学を受講した。それまで考えたこともない問題を投げかけられ、思いもつかなかった発想と論理を聞かされて、戸惑いながら、彼の話すことに引き込まれていった。でも、高坂ゼミには入らなかった。頭の回転が速くて目端の利く学生が集まるゼミのように見え、気後れした私は、自分には合わないと思ってしまった。

しかし結局、大学院では高坂の指導を受けることになった。ゼミの指導教授の猪木正道が防大校長に転じ、京大を去ったからである。それから五年間、頭が鈍くて怠惰な大学院生を、高坂は持て余したかもしれない。私にとって高坂は、怖い先生であった。いつも見透かされているような気がした。無能や怠惰をごまかそうとする言い訳は通用しなかった。会うと緊張した。だが、話し始めると、あんなに聴き上手な人はいなかった。訥々と、しばしばクドクドと、私が話す研究の方向や現状を、面白そうに聞いてくれた。いい先生だった。

こんな記憶を持つ者が、恩師の評伝を読むと、自分の印象と違うところばかりが気になってしようがない。服部龍二の『高坂正堯――戦後日本と現実主義』(中公新書、二〇一八年)を一読したときにも、そう思ってしまった。だが、もう一度読んで、今度は、私が高坂のことをあまりにもよく知らなかったということに気づかされた。

服部は、人間高坂を、家族、学問・研究、教育、政治・社会との関わり、といった角度から多面的に描こうとしている。新書という限られたスペースで、高坂の実像と魅力を、敬意をこめつつ、よく描き切ったと言うべきだろう。

私が最も関心を持ったのは、やはり大学教師としての高坂である。服部は、門下生に対する高坂の配慮と愛情を的確に指摘してくれている。また、服部が述べているように、後進の研究者に対する高坂の励ましや配慮は、直接の門下生だけに限らなかった。高坂の研究指導法は、お仕着せやお節介ではなかったし、放任でもなかった。教え子の研究を面白いと言い、その研究にちゃんと意味があることを確信させ、ほんのちょっとしたヒントをほのめかす。ヒントに気づくかどうか、それを生かすかどうかは、本人のセンス次第、ということなのだろう。勘の鈍い私はなかなかそのヒントに気づかなかった。だいぶ時間が経って、ときには数年後に、ああ先生はこのことを言っていたのか、とやっと気づくことが少なくなかった。



高坂が、大学院生の研究指導よりも重視したのは、おそらく、ゼミ生を含む学部学生の教育だっただろう。それは大学教師として当然でもあるが、とくに高坂の場合には、社会における「実務家」の役割が大事であるという考えが強かったように思う。大学を巣立って実務家つまりビジネスマンや公務員、あるいは教師や法曹家となる学生たちに、政治や社会の重要課題についてどう考えるべきか、どう行動すべきかを理解させる。これこそ、高坂の本来の「使命」だった。

あるとき、高坂が次のように語ったのを記憶している。ボクの話を一番よく理解してくれるのは西陣のオッチャンたちやな、と。実社会で実事に従事しているからこそ、政治や社会の問題を的確に理解し、成熟した判断を下せる、という意味であったように思う。それは、福沢諭吉の言う「実学」に通じていた。

政治・社会との関わりについては、政府のブレーンとしての役割を果たしたことが特筆されよう。服部の評伝でも、この部分が白眉と言ってよい。『佐藤栄作日記』によって、高坂が佐藤政権のブレーンであったことはこれまでも知られていたが、服部は佐藤の秘書官・楠田実の資料を駆使して、高坂の役割の実体を明らかにしている。興味深いのは、沖縄復帰に関し、あくまでヴィジョンや政策の助言提供に徹した高坂と、佐藤の密使として行動し、アメリカ側との「密約」にも関わった若泉敬との対比である。ブレーンにも様々のタイプと役割があった。

安全保障に関する諮問委員会で、高坂は大平正芳内閣と中曽根康弘内閣のときに主導的な役割を果たした。だが、自由な議論を許容した大平と、自分が求める結論に導くため介入を厭わない中曽根との間には、ブレーンの使い方に大きな違いがあった。中曽根の介入と圧力に、高坂は苦悩したという。このあたりは、当時の関係者のオーラル・ヒストリーや資料に基づいて実証的な研究を重ねてきた服部ならではの描写と分析が存分に示されている。

それにしても、高坂は政権のブレーンとして働くことを、どう考えていたのだろうか。「御用学者」という批判は、「タレント教授」という中傷と同じく、歯牙にもかけなかっただろう。国際政治を研究対象とする者にとって、政府の対外政策に何らかの影響を及ぼし得る機会を与えられることは、それなりに魅力的だっただろうし、研究者としての社会的使命を果たすことにもつながると考えられただろう。

しかし、それが魅力的であるがゆえに、難しいのは、権力との距離の取り方である。はた目で見る限り、彼はうまく距離をとっているように見えた。過剰にコミットせず(権力の虜にならず)、適度の距離を保つ。どうしてそれができたのか、聞いてみたかった。聞いても答えてくれなかったかもしれない。答えようがなかったかもしれない。それは勘(センス)であって、説明できないものだろうから。高坂には、その勘があった。あるいは、彼の学問上の師の一人である猪木正道の権力との接し方を見て、そこから学んだのかもしれない。



高坂の学問については、あらためて私が駄弁を弄するまでもない。彼の理想主義的リアリストとしての国際政治学、日本現代史や文明衰亡史論、そしてそのときどきの充実した時論、いずれについても既に優れた論考が発表されている。たとえば、『高坂正堯著作集』(都市出版、全八巻)各巻の解説がそうだし、歿後二〇年を記念して刊行された五百旗頭真・中西寛編『高坂正堯と戦後日本』(中央公論新社)もそうである。服部も、そうした先行研究を踏まえて高坂の学問を論じている。

ただ、一点だけ、服部の高坂解釈について指摘しておきたいことがある。服部は、高坂を「バランサー」と表現している。現実主義者と理想主義者との、あるいは安全保障をめぐる自民党と社会党とのバランサー、「完全主義者」の極論を排したバランサー、「節度」または「慎慮」あるバランサー、というように。これは服部による高坂論のキーワードの一つでもある。

要は、バランサーという言葉が何を意味するかだが、もしそれが対立する二つのものの仲介や妥協、折衷や釣り合いをとることを意味しているとすれば、それは高坂の意図から離れてしまうだろう。彼は、端的に言えば、対立する両者の「対話」を意図していたと考えられるからである。高坂は、ウィーン会議を論じた「会議はなぜ踊りつづけたか」(『中央公論』一九七一年六月臨時増刊、のち『古典外交の成熟と崩壊』所収)の結論部で、こう述べている。「かつては政治の討論は、それ自体が楽しまれる競技であった。そのとき、人々は他人の雄弁に感心し、それで考えを変えた。しかし、[中略]もし達成されるべき目標が絶対的に必要であり、正しいことならば、それに反対するものは邪悪な人々ということになり、ただ「折伏(しゃくぶく)」だけが必要なことになってしまう。」

一八世紀の精神として高坂が述べている「討論」が、二〇世紀後半にもそのまま成立すると信じていたはずはない。しかし、「討論」あるいは対話によって、相手も、そして自分も意見・判断を変える場合があるべきだと彼は考えたのであろう(大嶽秀夫「最後の戦後派知識人・高坂正堯の吉田茂論」『UP』一九九七年三月)。それは、大嶽の言うように、高坂の論敵に対してだけとられた態度ではない。高坂の「知的に謙虚な態度」は、彼が執筆した論文、評論、時論、どこにでも示されたのである。

高坂は京大を定年退職した後に浜松の新設大学の学長になる予定だった。私は大学院を出たあと高坂と接触する機会が少なかったが、その設置準備を手伝うことになった。彼にどんな思惑があったのか知らないが、恩師と一緒に仕事ができることは素直に嬉しかった。大学組織やカリキュラムを準備するにあたって、さて先生はどんな大学をつくりたいのだろう、と思案した。そうしたおり高坂は、大学は街の真ん中につくる、そしてつねにオープンにする、「お年寄りがいつでも出入りできて、若い人と交流できるようにするんや」と言った。それで、新大学のコンセプトの半分ははっきりした。しかし、高坂は設置準備の中途で亡くなった。一緒に仕事ができる機会はなくなってしまった。

戸部良一(Ryoichi Tobe)
1948年生まれ。京都大学大学院博士課程単位取得退学、博士(法学)、防衛大学校教授、国際日本文化研究センター教授、帝京大学教授を歴任。主な著書に『失敗の本質』(共著、中公文庫)、『逆説の軍隊』(中公文庫)、『日本陸軍と中国』(ちくま学芸文庫)、『ピース・フィーラー─支那事変和平工作の群像』(論創社)、『自壊の病理─日本陸軍の組織分析』(日本経済新聞出版社)など。

当記事は「アステイオン90」からの転載記事です。



『アステイオン90』
 特集「国家の再定義――立憲制130年」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス



戸部良一(防衛大学校名誉教授) ※アステイオン90より転載

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