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大学に「公式見解」は要らない...大学当局が「戦争に沈黙すべき」3つの理由とは?

ニューズウィーク日本版 2023年11月15日 16時15分

<ハマスの攻撃に学生・教員・寄付者の見解が二分。大学における「個人の見解」はいいが、「集団の見解」はむしろ「学問の自由」にとって有害。また、「声高な人」が発言し続けなくてはならなくなる>

イスラム組織ハマスがイスラエルにテロ攻撃を仕掛けたのをきっかけに始まった戦争は、全米の大学を動揺させてきた。

ペンシルべニア大学やスタンフォード大学、ハーバード大学といった大学の学長たちは、この戦争についての声明が不十分だとか、発表が遅すぎるとか、言いすぎたとか、間違いだとかいった非難を浴びている。

■【動画】ハマスとイスラエルに関して非難を浴びたハーバード大学 を見る

長年の寄付者が大学の姿勢に不満を抱いて関係を断ち、過激な意見を表明した学生が就職の内定を取り消された。大学は学生を洗脳しているという意見もあれば、まともな道徳的な価値観を教えていないという批判もある。

果たして、このような状況における大学の適切な役割とは何なのか。私はこの問題を、ここ数週間ずっと考えてきた。そして思い出したのが、シカゴ大学の教員時代に出合った、ある重要な文書のことだ。

これは1967年にハリー・カルベン教授を長とする委員会がまとめた「政治的・社会的活動における大学の役割に関する報告書」で、通称カルベン報告書と呼ばれる。

当時の大学は、ベトナム戦争や公民権運動をめぐり割れていた。そんな状況下で大学が果たすべき役割について、カルベン報告書は明確なビジョンを示した。

報告書はまず、大学には「社会的価値観や政治的価値観の発展を促すユニークな役割」があり、その役割には「明確な使命」と「共同体としての性格」が伴うと定義した。その上で、「大学の使命は知識の発見、向上、普及」であり、「社会のあらゆる側面と価値観」が探究対象になるとしている。

それゆえ大学は、「既存の社会の仕組みに対する不満を生み出し、新たな仕組みを提案する」共同体だと、報告書は説く。「優れた大学とは、ソクラテスのように(既存の思い込みを)揺さぶる」ものだ、と。

ただし報告書は、「反論や批判は、個々の教員や学生が取る手段であり」、大学が集団として活用するべき手段ではないとも強調している。

つまり「反論や批判」は、さまざまな考え方や知識から生まれるものであり、そのためにも大学は、「探究の自由という類いまれな環境」と、「政治的な流行や、情熱や、圧力からの一貫した独立」を維持しなければならないというのだ。

なにより重要なのは、「(大学という)共同体が、その時々の問題について集合体として行動を取れば、大学が存在し有効な働きができる前提条件が危うくなる」と、この報告書が警告していることだろう。

ベトナム戦争の反戦デモ(1971年、ワシントン記念碑前) DAVID FENTON/GETTY IMAGES

つまり組織や機関としての大学は、開かれた探究を行う能力が直接的な危機にさらされるような事案でない限り、社会的・政治的な重要問題について特定の立場を取るべきではないというのだ。

例えば、外国に対して戦争を始めることが賢明かどうかや、死刑制度の是非、マスク着用義務の合法性といった議論に、大学は組織として見解を示すべきではない。

それと同じように、現在のイスラエルとハマスの戦争について、大学としての見解を構築・発表したり、その原因や解決策について大学として見解を表明したりするべきではない。

対応を間違えたハーバード

もちろん、個々の教員や学生にこの原則は当てはまらない。それどころか、大学が公式見解を出すべきでないという原則は、教員や学生の言論や学問の自由を守るためにある。

彼らは、大学が自分たちの学問の自由を守ってくれると信頼した上で、言いたいことを言い、書きたいことを書ける。その一方で大学は、彼らの見解が正当な批判を受けることから守ってくれたりはしない。

例えば、10月7日のハマスの奇襲攻撃の直後に、ハーバード大学のある学生団体は、イスラエルとパレスチナ自治区ガザ地区について声明を発表した。

その声明が説明するこの戦争の原因は不正確なものであり、有効性が乏しいと、私は個人的には思う。また、ハマスの戦争犯罪に一切触れていないのは道徳観が鈍っている証拠であり、この声明に署名した学生たちが、他の学生や一部教員の批判を浴びたのはもっともだと、私は思う。

これについて大学は、学生たちは大学ではなく個人の見解を表明したにすぎないと発表するだけでよかったはずだ。それ以外、大学幹部はこの戦争について沈黙を守るべきだった(編集部注:ハーバード大学のクロディーン・ゲイ学長は10月10日、いかなる学生グループも大学の見解を代表して語れないと表明すると同時に、ハマスのテロ行為を明確に非難した)。

大学が中立の立場を維持するべき理由は、主に3つある。

第1に、大学(より正確にはその幹部)が、大きな論争となる問題について公式見解を示すと、たちまちその大学における学問の自由が妨げられる恐れが生じる。

公式見解に賛同できない教員や学生は、自分の意見を表明することに二の足を踏むようになり、自由闊達な意見交換ができなくなってしまう。

イスラエル支援をめぐる米上院公聴会の傍聴席で反戦を訴える人々(写真背後) KEVIN LAMARQUEーREUTERS

公式見解が間違っている可能性はあるし、少なくとも疑問の余地があるかもしれないのに、それを探る意欲さえも失われてしまうかもしれない。

カルベン報告書は、「(大学が)集団として一致した意見を構築すると、大学の繁栄の基盤である反論の自由を必ずや妨げてしまう」と指摘している。「(大学とは)公的な問題について多数決で見解を構築する共同体であってはならない」のだ。

第2に、社会問題であれ、政治問題であれ、ひとたび重要な問題に大学としての公式見解を示すと、それ以降、一部の声高な人々が重要と考える問題についても見解を示すよう求められることになる。

例えば、ウクライナでの戦争について公式見解を示した大学は、将来、大きな注目を集める戦争についても公式見解を求められるようになり、それを断るのは難しくなるだろう。大学の「お墨付き」をあらゆるタイプの団体から求められるようになり、それを拒否すれば、その問題の重要性を低く位置付けている証拠と見なされることになる。

ひとたび大学がこの道を選ぶと、大口寄付者や声高な主張をする人たちに大学の威厳が左右される恐れがあるし、大学幹部はその見解に反対する人たちから容赦ない攻撃を受けるだろう。

開かれた議論を守り続ける

第3に、規範や、重要な社会問題や政治問題に関する理解は時代とともに進化するため、大学が現在の政治論争で何らかの立場を表明すると、間違っていたと分かったときに面目を失うことになる(20世紀前半の優生思想や、アイビーリーグの入学に関する悪しき慣行がそうだった)。

教員が後世の学問によって誤りを暴かれ、擁護した政策が後に愚かだとか忌まわしいとさえ言われるようになれば、個人の評判は傷つくかもしれない。

それは学問をする者のリスクだ。しかし、教員や学生の個人の立場を大学として支持していなければ、自由な探究の場としての大学の評判が傷つくことはない。

カルベン報告書が指摘するように、その原則には例外がある。大学はその使命を遂行する能力に直接影響を与えるような社会的・政治的問題について、意見を述べることができるし、述べるべきなのだ。例えば、検閲やアメリカへの忠誠の誓い、政府による研究支援、留学生のビザなどに関わる問題だ。

ただし、そこで大学がどのような立場を取ろうと、学長や学部長は、教員や学生、職員が公然と反論する権利を守らなければならない。

そして同じように、反ユダヤ主義やイスラム恐怖症、あるいは他の脅迫にさらされているコミュニティーのメンバーを、大学は擁護し保護しなければならない。

それが基本的な良識であり、脅迫めいた風潮は、大学の繁栄の基盤である開かれた意見交換を危うくするからだ。

さらに、ダイベストメント(投資撤退)など、理性的な人々の間でも意見が分かれるグレーな領域もある。大学が基金をどのように投資するかは、ある意味で集団的行為であり、政治的主張として解釈されがちだ。

70年代にはアパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アフリカで活動している企業からのダイベストメントが問題になり、近年は化石燃料企業への投資が議論を招いている。

大学が取るべき行動については学内外で意見が分かれるだろうが、カルベン報告書の原則に忠実に従うということを理由に、教育機関としての適切な政治的スタンスに関する議論を終わらせてはならない。

私がこの問題に強くこだわるのは、重要な外交政策問題を含めて、大学は自由社会において極めて重要な役割を担っているからだ。

一流大学は基金のおかげで市場の圧力から遮断され、教員は終身在職権制度に守られている。このような状況で大学コミュニティーのメンバーは、志を同じくする寄付者や財団からの献金に依存するシンクタンクの専門家と違って、物議を醸す論争にも収益を気にすることなく参加できる。

民主主義社会において、即座に生計を失うことを恐れずに自分の考えを発言する力を、これほど堅固に保護できる機関はほかにない。

大学のこうした役割は、健全な公共政策にとっても不可欠である。いかなる政治的行動も、慎重な精査と理性的な反対意見を免れることは許されないからだ。

事前に自由な議論が行われれば聡明な政策決定ができ、王様は裸だと安全に指摘できれば誤りを正すことができる。

政治学者のジェームズ・C・スコットやノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センが述べているように、情報とアイデアの自由闊達な交換が行われることは、適切に機能する民主主義の秩序の大きな武器である。そして大学は、その知的なエコシステムにおいて中心的な役割を果たしている。

私が教えているような公共政策の大学院では特に、重要な政治問題に直接関与し、それらの問題に注力している政策立案者やステークホルダーとつながることは、大きな価値を持つ。

そして当然ながら、現代の問題に強く関わり、それらに取り組む努力を支援したいという寄付者が集まりやすい。こうしたつながりは、より広い世界にとっても明らかに有益だが、明らかな危険も2つある。

1つ目は、政策の世界と緊密につながりたいという願望が、教育機関が官僚や著名な市民を過度に敬うことにつながる危険だ。権力者に真実を語るという大学の任務を遂行する代わりに、学術機関が権力の最良の友となるために多くの時間と労力を費やすことになりかねない。

大学において、権力者や著名人に過剰に恭順する文化は、教員が個人として現行の政策に異議を唱え、官僚を公然と批判する意欲さえ失わせるかもしれない。染み付いた正統性に異議を唱えるどころか、大学がそれを補強するエコーチェンバーになるかもしれないのだ。

学長は大学を代弁できない

2つ目の危険は、特定の問題に深い関心を持つ寄付者が、自分の見解を教育機関に受け入れさせようとすることだ。厄介な質問を投げかけて真実に迫ろうとする研究を支援するのではなく、どのような質問をするべきか、どのような答えを正しいとするべきかについて、強い意見を持つ寄付者もいるかもしれない。

しかし、教育機関の指導者は、寄付者を満足させたいという願望ゆえに、寄付者の好みと対立する見解を持つ教員や学生を疎外してはならない。ここでもまた、カルベン報告書の原則が、教育機関がこうした誘惑にあらがう手助けをする。

政治的にも社会的にも激動の時代に大学を運営する人々に、私は心から敬意を表し同情する。彼らは常に、大学の地位と威信のどちらを優先するかという判断を迫られている。

学術機関のトップにも、物議を醸す問題について個人の見解は当然あるし、論争が起きれば意見を述べたいという欲求が湧き起こる。

ただし、そうした欲求は我慢しなければならない。意見が二分される問題ではなおさら、学部長は学部を代弁することはできず、学長は大学全体を代弁することはできないのだ。

皮肉なことに、カルベン報告書の原則にさらに忠実になれば、学長や学部長はニュースで物議を醸している話題にコメントするという重圧から解放される。

そして本来の仕事、つまり、学生や教員が可能な限り正直に、制約を受けずに、敬意を持って考え、書き、話すことができる環境を育むことに力を注ぎやすくなる。

そのようにして大学は、社会をより良くするための知識の生産者という独自の役割を守り続ける。

From Foreign Policy Magazine

ハマスとイスラエルに関して論争になったハーバード大学

Harvard president breaks silence after student groups blame Israel for attack/MSNBC

    


スティーブン・ウォルト(国際政治学者、ハーバード大学ケネディ行政大学院教授)

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