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そういえば私は宗教二世だった

ニューズウィーク日本版 2023年12月13日 17時40分

<ある宗教の熱狂的な信者となった母のために地獄を味わった筆者が、洗脳を免れ、親子の縁も断絶するに至ったわけ>

安倍元総理を銃撃した犯人、山上徹也被告の初公判について種々の調整が行われているが、現段階では依然公判前の段階である。そういった中で、「宗教二世」という言葉がクローズアップされて久しいが、拘留中の山上被告のもとに、これら宗教二世からの手紙が複数届けられていることが、先般の報道によって明らかになった。

その子細な内容は判然としないものの、この事象から類推するに宗教二世とされる人々が、山上被告の暴挙の是非は置いておくとしても、少なくとも被告と似たような境遇として、共感や救いの思いを強く持っていることは想像に難くない。

翻って私は、そういえば宗教二世であった。

母の入信と同時に信徒に

私の母親が新興宗教団体Aの熱心な信者であったのである。この母の実子であり、長男でもあった私は、母の新興宗教団体Aへの入信と同時に、ほとんど自動的に信徒として計算されたのである(基本的に宗教団体は、世帯単位で信徒人口の計算をするものだ)。

これをしてよく考えれば、私は幼少時代から、母親が信仰する新興宗教団体A(以下、A教団)の立派な少年信者なのであった。加えて後述するように、私は母から、このA教団の題目唱和を強制され、A教団の本部・支部や関連施設(東京都など)に参拝することを永年、強制されていたのである。

その実態はなかなか壮絶であった。母は私に、毎日三回の題目唱和を義務づけた。私には7歳下の妹がいるが、幼少の妹にも同様の措置が取られた。父親は仕事の多忙を理由にそれを黙認していた。静止しても無駄だろうという諦観があったのであろう。当時北海道札幌市に住んでいた私は、A教団の地元支部に母をして何度もつれていかれた。まるで強制連行であった。その時のことは今でも鮮明に思い出す。

このA教団は、日蓮宗を母体とする法華系新宗教で、明治後期に創設されて戦中混乱期(政府による、仏教諸会派に対しての国家神道への恭順と統制などの政策)を経て、徐々に信徒を増やしながら現在に至っている。詳細は拙著『毒親と絶縁する』(集英社新書)に書いたが、かいつまんで言うとA教団の主要教義とは、鎌倉時代に支配階級に浸潤して『立正安国論』を説いた日蓮聖人への厚い信仰と、加えて先祖供養、題目(南無妙法蓮華経)の唱和などというものを核としていた。そして現代ではこの宗教団体は、いわゆる「日本会議」の加盟宗教団体ということになっているのである。

私の母が、A教団に入信するきっかけは、不治の病の罹患であった。私が小学生低学年の時、母は突然の血便を催してそれが継続された。程度は重度であった。母は当時40代前半という若さであったが、当然のこと、すわがんを疑って前途不覚に陥った。その直感はもっともである。血便の一回、二回なら百歩譲って痔の可能性もあるからともかく、何週間・何カ月も続くそれは、家庭の医学程度の知識しかない一般の非医療従事者であっても、それを雄弁に予期させよう。

精密検査をすると、母の症状はがんではなった。奇しくも安倍元総理が青年時代にり患した難病指定である潰瘍性大腸炎こそが、血便の原因であった。この病気の詳細については、専門家の見解などを参照されたい。
潰瘍性大腸炎の患者には厳格な食事制限が課せられる。基本的には常食はおかゆ、スープ等である。つまり流動食みたいなものがほとんどになる。いまでこそ流動食にはかなりの食感的進化がみられるが、母がこの病気にり患した当時は1990年代である。流動食はまずく、種類も少なく、すぐ飽きが来る味付けで、この領域に関する患者のQOL(クオリティー・オブ・ライフ)は、まるで後進的な状況であった。

病気治癒も教義の中に

私の母はこの段階で、「食べることの喜び」つまり、衣食住の「食」を奪われた状態に置かれ、治療が始まっていた。具体的には、油分の多い肉類などもってのほかであった。ほかにも、できるだけ油分の低減が求められた。なぜ私がこんなことを知っているかといえば、母が病院からもらってきた食事指導の実例集パンフレットを、冷蔵庫に磁石で張りつけて、常に家族に周知できるようにしていたからである。

はてさて1990年代後半にこの病気を患った母は、当然困惑した。私の母は私の実家のある北海道札幌市で、最高の医療を提供すると思われる大学病院で治療を受けたが、精神的なケアは不十分であった。現在の内科では、患者の治療に際して心のケア、すなわちメンタルケアをも並行して進める場合が多いが、なにせ当時の医学環境では、私の母の精神的不安は放置されたままでった。

だから母は、A教団に入った。
 
すぐに死に至ることはないものの、慢性的に、しかも完治困難な難病にり患するにあたって、精神が徐々に蝕まれたのである。母は現世利益的な、病気治癒をも教義の中に包摂するこのA教団に飛びついたのである。私が少年時代、A教団の地元支部に行くと、壁際に「信仰によってがんや、持病の慢性病が治った」というような「信者の声」というのが至るところに貼られていた。

今解釈すれば、こういう理屈である。現在、あなたを苦しめている病気は、自信の先祖の悪行(因縁)によるものである。よって現在のあなたが、強い信仰のもとに先祖供養をしっかりとやれば、その因縁は解放され、宿業としての病気の症状は快方に向かっていく──、そんな内容であった。

さらに先祖の悪行を過去にさかのぼって訂正できないにしても、現在の信仰によりそれを修正することは可能である。そして先祖の悪行が災いをもたらすのであれば、その解決はあなたのみが単独で行うだけではだめで、その先祖の子孫であるあなたの家族、特に血のつながりがある子供の協力が必要である──、という総論なのであった。

要するにA教団の信仰は、関係のない少年時代の私までを巻き込むものであった。よって母は、冒頭に書いた一日三回の題目唱和を私に強制した。もちろん、いくら南無妙法蓮華経を唱え、読経しても、母の潰瘍性大腸炎が回復するわけがない。酷な言い方だが、そういう科学的な考え方ができないからA教団の信仰に救いを求めるのである。

慢性病の治療は数年を経て効果が出てくるのであり、たかだか半年、1年で良くなるわけはない。母の病状は一進一退を繰り返していた。しかしそれを母はすべて、私の信心不足と考えた。よってその信仰の強制は、家庭内での唱和や読経だけではなく、地元支部に赴いての読経や霊的体験の強制にまで発展し、さらに私への水風呂の強制、24時間の監視、数カ月単位に及ぶ無視(家庭内で会話をしない、目を合わせない、一日中、私が存在しないように扱う)を数年間にわたって何度も繰り返すなど、常軌を逸したものに発展していく(詳細は前掲拙著の通り)。

洗脳は免れたが

当時すでに中学から高校に向かっていた私は、根が科学的、観察的にできていたせいもあって、こういった母親の狂気を完全に客観視できていたが、題目唱和だけにはごくたまに付きやってやった。そうしないと母は途端に錯乱するので、その混乱は直接、私の自由時間や勉学に負の影響を与えかねないという、完全なる打算でいやいやながらも付き添ってはいた。

だから青春時代の私は、母の信仰を完全に否定し、むしろ見下してさえもいたので、私自身は宗教二世でありながらそれは書類上のことだけであり、一般的な宗教二世と呼ばれるような人々が家庭内で抱えていた洗脳や、それに関する苦労は存在していない。よって被害的な意味での宗教二世という自覚もやや薄いところはある。しかし今考えてみればこれはやはり宗教二世でしか体験しえないことなのであった。

私は高校生ですでにアニメ、漫画などのサブカルチャー、それに資本論や新旧聖書、歴史学や社会学、心理学にこそ、人生における懊悩の回答を見出していたからだ。そのやや早熟な蓄積がのちの私の作家人生の土台を形成することになるのである。

大学入学で私は実家を飛び出し、独り暮らしを始めるようになった。母の信仰の強制という呪縛からは名実ともに完全に開放された。それでも母は、私の下宿にA教団が発行する信者向けの月刊会報誌を毎月のように送り付けてきた。A教団の信仰心は私の就職にも役に立つ、という数枚に及ぶ冗長な直筆の手紙を添えてである。

私は郵便局から毎月、母からのこれら「書類」が届くたびに、開封せずに即ごみ袋に捨てて処分していた。そんな宗教的な郵便物を、息子とはいえ熱心に熟読するなどと考える方がどうかしている。私は母を基本的に頭が悪く寂しい人であると決めつけていた。私の人生の中で母は完全に必要のない人間であり、大学生にあっては仕送りを振り込み続けるある種の機械、という風に考えていた。親孝行、という文字は私の人生から消えた。そこにいささかの躊躇も憐憫もなかった。

その後、紆余曲折を経て、私は母と絶縁し、心理的な親子関係を解消した。と同時に、母親の信仰心を理由とした数々の虐待を黙認し、制止せず、むしろ許容して間接的に推奨していた父とも絶縁して、出生時に与えられた名前を家庭裁判所に申請して改名し、私の現在の名前「経衡」を自分で命名し、それに伴って親の戸籍からも離脱したのである。

例外的な宗教二世として

母の信じているA教団の教義の是非を言うわけではない。母の信仰の経緯は近代医学の限界の結果とも言え、新興宗教に救いを求めた母をいまさら糾弾するつもりはない。また、そこまで信仰を強制された私が、その信仰を相対化して、むしろ内心あざ笑うような立場を採用できたのは、私の奇抜でいて合理的な性根と、それを補強するだけの読書量があったからである。宗教二世の中で、私のようなケースは例外かもしれない。他者の参考になるかどうかはわからない。

だが例外だからと言って、それが普遍性を持たないとはいえない。例外だから参考にはならないのだとすれば、大黒屋光太夫やジョン万次郎の人生は、後世の人々にとって無意味だということになりかねないが実際はそうではない。私はこれからも、「例外的な宗教二世」として、過去の経験を書いていこうと思っている。ちなみに母の信仰心はその後、いささかも揺るぐことなく、現在でも彼女はA教団の熱心な信者である。



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