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救命医療を待つ間に「消える命」が週300人近く...「揺りかごから墓場まで」福祉国家イギリスに何が起きている?

ニューズウィーク日本版 2024年4月2日 18時41分

<人員や資金の不足などによりNHS(国民保健サービス)が逼迫。がんを早期発見できたキャサリン妃はまだ幸せとすら言える英国の惨状とは>

[ロンドン発]原則無償で医療サービスにアクセスでき、かつては「揺りかごから墓場まで」の福祉国家モデルともてはやされた英国のNHS(国民保健サービス)が逼迫し、昨年、長い待ち時間が原因で週268人以上のA&E(救急救命センター)の患者が死亡したと推定されている。

英国ではコロナ危機で23万2000人超の死者が出た。世界に先駆けてコロナワクチンの集団接種を展開したものの、ワクチン接種と自然感染を組み合わせた集団免疫(人口の一定割合以上の人が免疫を持つと感染拡大が収まる状態)を目指した代償と後遺症は大きい。

昨年3月時点で英国の人口の2.9%に相当する推定190万人がコロナ後遺症を報告した。うち130万人は1年以上、76万2000人は2年以上症状が続いた。一般的な症状は疲労(患者の72%)、集中困難(51%)、筋肉痛(49%)、息切れ(48%)で、英国の労働力不足に拍車をかける。

コロナ対策に医療資源を集中させたため、他の患者は後回しにされ、大量の積み残しが出た。欧州連合(EU)離脱派はEUを離脱すれば「NHSに投入できる資金を増やせる」と唱えたが、EUからの新規看護師はゼロ近くに減少、歯科医師の採用も長期にわたって減り続けている。

150万人以上の患者が12時間以上待たされる

英国の王立救急医学会によると、昨年、150万人以上の患者が12時間以上待たされ、そのうち65%が入院待ちの患者だった。「標準死亡率」を使って死者数を推定すると、入院前に8~12時間の待ち時間を経験した患者72人ごとに1人が死亡している。

12時間以上に及んだ待ち時間に関連した超過死亡は1万4000人近く、死者は週268人以上にのぼったと推定される。英国政府とNHSイングランドは昨年1月から救急救命医療サービス改善のため病院のキャパシティーや医療従事者数を増やして待ち時間を減らす計画に取り組む。

しかし病院のベッド稼働率は常に平均94%以上と依然として高いまま。余裕のある稼働率85%を達成するにはさらに1万1000床以上のベッドが必要だ。今年2月、A&E の待ち時間を4時間にする目標を達成した患者の割合は56.5%で、昨年1月に比べ1.5ポイントも低下した。

入院患者数は1年後に10%増加すると予想されている。しかし最新の数字では退院決定後も入院している患者は1日平均1万3690人で、昨年1月より275人減っただけだ。王立救急医学会のエイドリアン・ボイル会長はこう言って唇を噛みしめる。

「死亡の1つひとつが単なる数字ではない」

「これらの死亡の1つひとつが単なる数字ではなく、愛する人や家族のものであったことを忘れてはならない。もし状況が違っていたら、もしシステムが本来の機能を果たしていたら、もしA&Eでの待ち時間が目標時間よりも長くなかったら...」(ボイル会長)

「このような困難で受け入れがたい状況の中で、可能な限り最善の医療を提供しようとする現実に対処しなければならない臨床医を取り巻く環境もひどい。関連死の数字が注目されるのは当然だ。政府の改善計画は効果的でなく、結果も出ていない」(同)

「必要なのは困難な状況に陥っているシステムと闘う臨床医と、多額の投資と救急救命医療を蘇生させるコミットメントだ。このようなケアの不平等、本来なら回避できたはずの診療の遅れ、膨大な関連死を放置することはできない」(同)。王立救急医学会は次の勧告を掲げる。

(1)医療・社会ケアシステム内にさらなるキャパシティーを構築する長期計画を実施(2)病院のベッド稼働率が85%を超えないよう有床診療所を増設(3)病院のパフォーマンスを向上させるため各病院の数値を公表(4)インフルエンザ、コロナのワクチンプログラムを改善する。

がんを早期発見できたキャサリン妃はまだ幸せ

エビデンスと分析を通じて英国の医療の改善に取り組むナフィールド・トラストの政策アナリスト、マーク・ダヤン氏は昨年2月、EU離脱がNHSに与えた影響を分析している。それによると、NHSイングランドの予算は2016年以降、毎週3億5000万ポンド以上増加している。

人口と高齢者が増えているからだ。「英国で資格を取得したEU域外の医師の数はEU国民投票後の6年間で7万2000人から11万2000人に、看護師の数は6万7000人から12万4000人に増加した。EU域内の自由移動とは異なり、域外ビザには技能や給与の要件が課せられる」という。

慢性的な低賃金、人員・資金不足に陥る社会福祉セクターの状況は悪化した。心臓外科医、肺外科医、麻酔科医、精神科医も不足している。英国の医薬品輸入の異常な減少はEU離脱後の貿易障壁が要因である可能性を示唆しているとダヤン氏は分析する。

腹部手術を受け公務から離れているキャサリン皇太子妃が、がんで2月下旬から予防的な化学療法を受けていることを告白し、英国中の同情を集めた。しかし待ち時間ゼロのプライベート医療でがんを早期発見できたキャサリン妃はまだ幸せと言わざるを得ないのが英国の現状だ。


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