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福留孝介、メジャー球団からの53億円提示に「えっ、何で?」初年度に経験した“練習できないストレス”

日刊SPA! 2024年3月2日 8時52分

24年にわたる現役生活において、日米通算2450安打を積み上げ、アメリカでの5年間では498安打を放った。中日ドラゴンズや阪神タイガースで活躍した福留孝介にとって、「あの5年間」「この498安打」は、どのような意味を持つものなのか?
まずは、シカゴ・カブス入りを決意した「30歳の冬の日」から振り返ってもらった――。

◆「“最も高い評価を受けた球団に行こう”と決めていました」

’07(平成19)年、30歳で迎えたこの年のオフ、福留孝介はFA権を行使した。

「せっかく手にした権利なので、まずは行使してみたかった。ドラゴンズ残留を基本線として、他球団からの評価を聞いてみたかった。それが当時の素直な気持ちでした」

子供のころから甲子園を目指し、その先のプロ野球選手が憧れだった。野茂英雄が海を渡ったときはすでにPL学園の注目選手であり、メジャーへの憧れは皆無だった。それでも、「一野球人として、自分はどの程度の選手なのか? 他球団からの評価を聞いてみたい」、それが率直な思いだった。報道によれば、ドラゴンズからの提示は4年16億円。読売ジャイアンツからは6年契約が提示され年俸も高かった。

「自分は商品ですから、FA宣言をしたときに、“最も高い評価を受けた球団に行こう”と決めていました。すべての球団からのオファーが出そろった結果、まったく予期していなかったカブスからの条件が最もいいものでした」

◆カブスからの53億円提示に「えっ、何で?」

カブスからの提示額は4年総額4800万ドル。当時のレートで約53億円という破格のものだった。

「驚きました。『嬉しい』というよりは、『えっ、何で?』という不思議な感覚のほうが先でした。一度もアメリカでプレーしたことがないのにどうしてそこまで高い評価ができるのか? やっぱり『不思議』という感覚がしっくりきますね」

このとき、福留はハッキリと先達への敬意を抱いている。

「僕がここまで評価されたのは、先にメジャー入りしていたイチローさん、松井(秀喜)さんが実績を残してくれたからこそだと思いました。だからこそ、僕も次の世代のために頑張らなければ、と感じたことは、よく覚えています」

◆リハビリで訪れたアメリカ。30歳の「予期せぬ転機」

メジャー行きを決めた’07年は福留にとって激動の一年だった。30歳を迎えたこの年、シーズン中に右ひじを故障し、8月には渡米して手術を受け、リハビリ生活を送った。

「手術とリハビリの間、しばらくアメリカに滞在しました。その間にドジャースタジアムには何度も行きました。それまでオリンピックやWBCでアメリカの球場で試合をした経験もあったけど、通常のレギュラーシーズンをスタンドから観戦するのは、また違った新鮮な感覚でした。ちょうど、斎藤隆さん、石井一久さんが在籍していました。このとき、『こういう雰囲気の中でプレーしてみたいな』という思いにはなりましたね」

30歳で迎えたこの年のオフに福留は結婚する。同時に初めての子供も誕生する。本人の言葉を借りるならば「新しいことにチャレンジするにはいい機会」だった。こうして、本人も周囲もまったく予期していなかったメジャーリーガーとしての日々が始まった。

◆「何も変えない」と決意した理由

アメリカ行きにあたって、福留には「ある決意」があった。それが、「何も変えない」という思いだった。

「まずは、自分がどこまで通用するのか試してみよう、という思いでした。だから、いきなり向こうのスタイルに合わせようという思いはまったくなくて、日本でのスタイルを貫くことに決めました」

松井秀喜はメジャー入りが決定した直後、バット材をそれまでの国産アオダモから北米産のホワイトアッシュに変更した。それに伴い、打撃フォームも微調整したという。

「結果的に僕も1年目の夏場にアオダモからカナダ産のメイプルに変更するんですけど、カブス入り直後はアオダモのままでしたし、打撃フォームも変更しませんでした」

100%の自信があったからではない。むしろ「そのままで通用するはずがない」と思いつつ、あえて「そのままで臨む」ことを選択したのだ。その理由は何か? 答えは簡潔だ。

「野球選手というのは、常に『これでいいのか?』と自問自答しています。僕自身も、カブス入団直後から、ずっとそう思っていました。でも、まずは“何が通用するのか?”“どこを変えなければいけないのか?”を知るためには、そのままで臨むことが大切だと考えたからです」

スプリングキャンプでは、基本的には「日本流」を貫きつつ、何があってもすぐに対応できるよう、不測の事態に備えてあえて始動を早めたり、ノーステップで打ってみたり、いろいろなことを試した。

◆メジャーデビュー戦で見事な活躍

そして迎えた’08年3月31日、ミルウォーキー・ブルワーズとの開幕戦――。

5番ライトでスタメン起用された福留のメジャー第1打席が訪れる。

「とにかく初球は何でもいいから振ってやる。そんな思いで打席に入りました」

相手先発、ベン・シーツから放った打球はセンターの頭上を越えるツーベースヒットとなる会心の一撃だった。さらに見せ場は9回に訪れる。

ドジャース時代には不動のクローザーとして鳴らしたエリック・ガニエから同点3ランホームランを放ったのだ。

「初球、2球目とボールが続いたので、その時点で、真っすぐしか待たないと決めました。ガニエはチェンジアップのイメージが強いけど、『チェンジアップならゴメンなさい』のつもりでスイングしました。打った瞬間、『入ったな』とわかりましたよ。ダイヤモンドを回っている間、ちょっと興奮状態でしたね(笑)」

あえて日本流を貫くこと。あえて狙い球をストレートに絞ること。「ここぞ」の場面で腹を括れる福留の胆力が好結果をもたらすことになった。

◆日本時代には想像もできなかった「練習できないストレス」

メジャーデビュー戦で見事な活躍を見せた。4月は打率、出塁率ともにチームを支える好成績を記録したものの、5月以降、成績は徐々に降下していった。一体、福留に何があったのか?

「相手に対応されてきたということもあったし、(ルー・ピネラ)監督の方針で、相手が右投手のときしか試合に出られないという起用法にとまどったこともあったし、さらにストレスだったのが自由に練習できないということでした」

監督の方針として、「試合前に過度な練習をするな」という教えがチームに徹底していた。もちろん、試合に支障があるようなハードな練習をしていたわけではない。けれども、福留流調整スタイルはピネラ監督にとっては「やりすぎだ」と映っていた。

「お前は練習をするためにアメリカに来たのか?」

面と向かってそう言われればそれ以上何も言えなかった。

「朝、ランニングをしていたら監督から『やめろ』と命じられました。もちろん、表向きは監督指令に従ったけど、それで結果が残せなければ自分に返ってくる。だから監督が来るよりも早くグラウンドに出たり、違う場所で走ってから行くようになりました」

開幕直後は、スプリングキャンプでの練習の成果が発揮され、結果を残すことができた。しかし、シーズン開幕後は思うように練習する時間が取れない。日本時代にはまったく想像もできなかった「練習できないストレス」――。メジャー初年度は意外な洗礼とともに始まった。

【福留孝介】
1977年、鹿児島県生まれ。1999年ドラフト1位で中日に入団。’07年12月カブスへ移籍。’11年7月インディアンス、’12年、ホワイトソックスへ。同年途中ヤンキースとマイナー契約。’13年、阪神、’21年、中日に復帰。’22年、現役引退

撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社

【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

―[サムライの言球]―

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