言葉もわからぬまま、16歳で単身渡米。右肩内視鏡手術を乗り越え、4年11か月の悪戦苦闘の末に、当時21歳のマック鈴木は、ついにメジャーデビューを果たした。
「日本プロ野球を経験せずにデビューした最初のメジャーリーガー」は、その後も紆余曲折を繰り返し、己の右腕一本でアメリカ社会を生き抜いた。メジャー通算117試合に登板して16勝31敗を記録したマックはアメリカでの日々をどのように振り返るのか?
◆「すぐにマイナー行きを命じられました」ほろ苦いデビュー
1996年7月7日、テキサス・レンジャーズ戦で、マック鈴木は待望のメジャーリーガーデビューを果たした。
「大量リードされた6回からマウンドに上がりました。最初の回は打者3人で0点に抑えたけど、次のイニングは自責点3で降板。すぐにマイナー行きを命じられました」
ほろ苦いデビューとなったが、それでも「もう一度、メジャーに」の思いとともに研鑽の日々を重ねた。しかし、翌1997年は一度も昇格の機会は与えられなかった。
「僕はまだ22歳だったけど、注目されたのが早かっただけに、すでに目新しさもないし、『もう後がないな……』という思いはずっとありました。この間、どんどん若い選手に抜かれていきましたから」
◆ようやくチームの一員になれた気がした瞬間
右肩の故障以来、マックが闘っていたのは常に自分自身だった。故障前の自分のピッチングが100だとしたら、故障後のそれは50程度にまで落ち込んでしまっていた。だからこそ「故障前の自分」を追い求め、そして打ちひしがれていた。しかし、「もう後がない」土壇場の状況で、マックは発想の転換を余儀なくされた。
「もともと何も持たずにアメリカに来たんだからいじけていても仕方がない。今の自分が投げられるボールでバッターと勝負する。それでダメなら諦めよう。そう考えました」
土俵際まで追いつめられた男の開き直りは功を奏した。3Aで9勝10敗を記録、1998年9月、メジャーに再昇格する。2日には初先発、そして14日にはついにミネソタ・ツインズ戦で初勝利を飾った。
「初先発では勝ち投手にはなれなかったけど、それなりの手応えはありました。降板するときも、みんなが仲間、同僚として自分を迎え入れてくれるのがわかりました。ようやくチームの一員になれた気がしたのが、この瞬間でした」
この頃のシアトル・マリナーズにはそうそうたるチームメイトがそろっていた。
「すごいことを簡単にやってのけるのがケン・グリフィーJr.。大事なところであっさり打つのがエドガー・マルチネス。三振は多いけど、同点弾、逆転ホームランを打つのがジェイ・ビューナー……。すごいメンバーばかりでしたよ」
渡米から7年近い月日が流れていた。ようやく手にした歓喜の瞬間だった。
◆名コーチの指導で才能が開花
翌1999年は波瀾の一年となった。渡米以来、初めて開幕をメジャーで迎えたものの6月にニューヨーク・メッツにトレードされ、その直後にはカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍する。戦力補強に貪欲で、人的流動性の高いメジャーならではの出来事だった。そして新天地での新たな出会いがマックにとって幸いした。
「ロイヤルズのブレント・ストロームコーチが僕をすごく評価してくれました。グローブを持つ左手の位置をきちんと定めるフォームに修正したことで、格段にコントロールがよくなったんです。一つの問題がクリアできると、すべてのことがまとまってくる。このときは、そんなイメージでした」
当初、監督からは大きな期待をされていなかった。メジャーに残れるか、それとも落とされるか、当落線上にあったものの、期待の若手のアクシデントによりチャンスがもたらされ、マックはそれを逃さなかった。
「若手有望選手が脇腹を痛めて途中降板して、急遽、僕がマウンドに上がったんですけど、球速も大幅にアップし、3イニングで8奪三振。自分でも驚いたけど、球団はさらに驚いていました(笑)」
手薄な投手陣というチーム事情もマックにとって幸いした。’00年シーズンは開幕から先発ローテーションの仲間入りを果たし、序盤こそ中継ぎ降格となったものの、その後はシーズン終了までローテーションを守り続けた。
32試合8勝10敗──。
堂々たる成績でシーズンを終えた。メジャーリーガーとして胸を張っていい成績だ。
しかし、好結果とは裏腹に、この時点ですでにマックの右肩は悲鳴を上げていた。
◆リハビリを経て、個人的には幸先のいいスタートを切ったが…
「球団からは『すぐに検査しろ』と言われました。自分としては痛くても投げられるし、結果も出たから手術はしたくなかった。だけど、球団は『手術をしなければ契約はしない』ということで、2度目の内視鏡手術をすることにしました」
’01年、開幕戦は敵地ヤンキースタジアムでのニューヨーク・ヤンキース戦と発表されていた。マックの照準はこの日に定められた。
「開幕戦で、あの伝統ある球場に立つことができる。絶対にこのチャンスは逃せない。そんな思いでリハビリに励みました。すでに一度経験しているから、どの程度までやっていいのか、やれるのかを理解していたことも大きかったですね」
残念ながら敵地の開幕戦での登板はならなかったが、続く本拠地開幕戦を託されたマックは、ミネソタ・ツインズを相手に勝利を飾る。
個人的には幸先のいいスタートを切った。しかし、チーム状態は悪く、シーズン序盤で恩師・ストロームコーチが解任されると、マックの運命にも暗雲が立ち込める。
「ストロームがクビになった翌日、先発からクローザーに任命されました。初回の防御率が高かったからです。でも、僕の場合は『6回3失点』を基準にしていたから、初回に2点取られてもいいや、という思いで投げていたので結果がよかっただけ。案の定、クローザーで結果を残すことはできなかったですね……」
◆白球を求める流転の日々
そして、6月にコロラド・ロッキーズ、7月にはミルウォーキー・ブルワーズに移籍する。
「このとき、僕の精神力がもっとしっかりしていれば、誰に何を言われてもブレずにいられたと思います。でも、そこでフラフラしてしまう自分がいた。その結果、投げ方までおかしくなってしまいました」
翌’02年は古巣のロイヤルズに復帰したものの、’00年の輝きを取り戻すことはできなかった。結局、この年限りでマックはアメリカ生活に終止符を打つ。その後は’02年オフのオリックス・ブルーウェーブへのドラフト入団から始まり、メキシコ、台湾、ドミニカと、白球を求める流転の日々を過ごすことになる。
「16歳でアメリカに渡って、野球でお金を稼いで生活してきたけど、普通に日本の学校を出て、NPBでプレーしてからメジャー入りしたほうが無駄もなくてずっといい。僕の場合はたまたま運がよかったけど、この生き方は勧められない」
◆「メジャーリーガーにしか見られない景色がある」
もちろん、自分の選択に後悔はない。マックは言う。
「NPBを経験せずに初めてメジャーリーガーとなったこと。日本人で初めてアメリカンリーグで投げたこと。野球が続く限り、この『初めて』はずっと記録に残ります。引退後に結婚して、息子が生まれてから、それは誇りに思っています」
雑用係だった16歳から始まり、異国の地で孤軍奮闘して摑んだ16勝。その輝きは今なお決して色あせない。
「メジャーリーガーにしか見られない景色がある。それは本当にいい光景でした」
もうすぐ50代を迎えるマックは清々しい表情で言った。
【マック鈴木】
1975年、兵庫県生まれ。1992年に渡米、1Aサリナスで球団職員。1993年9月、マリナーズと契約。1996年、メジャー初登板。1999年、ロイヤルズ、’01年途中、ロッキーズ→ブルワーズ→ロイヤルズ。
’02年、オリックスにドラフトで入団
撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社
【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
―[サムライの言球]―
「日本プロ野球を経験せずにデビューした最初のメジャーリーガー」は、その後も紆余曲折を繰り返し、己の右腕一本でアメリカ社会を生き抜いた。メジャー通算117試合に登板して16勝31敗を記録したマックはアメリカでの日々をどのように振り返るのか?
◆「すぐにマイナー行きを命じられました」ほろ苦いデビュー
1996年7月7日、テキサス・レンジャーズ戦で、マック鈴木は待望のメジャーリーガーデビューを果たした。
「大量リードされた6回からマウンドに上がりました。最初の回は打者3人で0点に抑えたけど、次のイニングは自責点3で降板。すぐにマイナー行きを命じられました」
ほろ苦いデビューとなったが、それでも「もう一度、メジャーに」の思いとともに研鑽の日々を重ねた。しかし、翌1997年は一度も昇格の機会は与えられなかった。
「僕はまだ22歳だったけど、注目されたのが早かっただけに、すでに目新しさもないし、『もう後がないな……』という思いはずっとありました。この間、どんどん若い選手に抜かれていきましたから」
◆ようやくチームの一員になれた気がした瞬間
右肩の故障以来、マックが闘っていたのは常に自分自身だった。故障前の自分のピッチングが100だとしたら、故障後のそれは50程度にまで落ち込んでしまっていた。だからこそ「故障前の自分」を追い求め、そして打ちひしがれていた。しかし、「もう後がない」土壇場の状況で、マックは発想の転換を余儀なくされた。
「もともと何も持たずにアメリカに来たんだからいじけていても仕方がない。今の自分が投げられるボールでバッターと勝負する。それでダメなら諦めよう。そう考えました」
土俵際まで追いつめられた男の開き直りは功を奏した。3Aで9勝10敗を記録、1998年9月、メジャーに再昇格する。2日には初先発、そして14日にはついにミネソタ・ツインズ戦で初勝利を飾った。
「初先発では勝ち投手にはなれなかったけど、それなりの手応えはありました。降板するときも、みんなが仲間、同僚として自分を迎え入れてくれるのがわかりました。ようやくチームの一員になれた気がしたのが、この瞬間でした」
この頃のシアトル・マリナーズにはそうそうたるチームメイトがそろっていた。
「すごいことを簡単にやってのけるのがケン・グリフィーJr.。大事なところであっさり打つのがエドガー・マルチネス。三振は多いけど、同点弾、逆転ホームランを打つのがジェイ・ビューナー……。すごいメンバーばかりでしたよ」
渡米から7年近い月日が流れていた。ようやく手にした歓喜の瞬間だった。
◆名コーチの指導で才能が開花
翌1999年は波瀾の一年となった。渡米以来、初めて開幕をメジャーで迎えたものの6月にニューヨーク・メッツにトレードされ、その直後にはカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍する。戦力補強に貪欲で、人的流動性の高いメジャーならではの出来事だった。そして新天地での新たな出会いがマックにとって幸いした。
「ロイヤルズのブレント・ストロームコーチが僕をすごく評価してくれました。グローブを持つ左手の位置をきちんと定めるフォームに修正したことで、格段にコントロールがよくなったんです。一つの問題がクリアできると、すべてのことがまとまってくる。このときは、そんなイメージでした」
当初、監督からは大きな期待をされていなかった。メジャーに残れるか、それとも落とされるか、当落線上にあったものの、期待の若手のアクシデントによりチャンスがもたらされ、マックはそれを逃さなかった。
「若手有望選手が脇腹を痛めて途中降板して、急遽、僕がマウンドに上がったんですけど、球速も大幅にアップし、3イニングで8奪三振。自分でも驚いたけど、球団はさらに驚いていました(笑)」
手薄な投手陣というチーム事情もマックにとって幸いした。’00年シーズンは開幕から先発ローテーションの仲間入りを果たし、序盤こそ中継ぎ降格となったものの、その後はシーズン終了までローテーションを守り続けた。
32試合8勝10敗──。
堂々たる成績でシーズンを終えた。メジャーリーガーとして胸を張っていい成績だ。
しかし、好結果とは裏腹に、この時点ですでにマックの右肩は悲鳴を上げていた。
◆リハビリを経て、個人的には幸先のいいスタートを切ったが…
「球団からは『すぐに検査しろ』と言われました。自分としては痛くても投げられるし、結果も出たから手術はしたくなかった。だけど、球団は『手術をしなければ契約はしない』ということで、2度目の内視鏡手術をすることにしました」
’01年、開幕戦は敵地ヤンキースタジアムでのニューヨーク・ヤンキース戦と発表されていた。マックの照準はこの日に定められた。
「開幕戦で、あの伝統ある球場に立つことができる。絶対にこのチャンスは逃せない。そんな思いでリハビリに励みました。すでに一度経験しているから、どの程度までやっていいのか、やれるのかを理解していたことも大きかったですね」
残念ながら敵地の開幕戦での登板はならなかったが、続く本拠地開幕戦を託されたマックは、ミネソタ・ツインズを相手に勝利を飾る。
個人的には幸先のいいスタートを切った。しかし、チーム状態は悪く、シーズン序盤で恩師・ストロームコーチが解任されると、マックの運命にも暗雲が立ち込める。
「ストロームがクビになった翌日、先発からクローザーに任命されました。初回の防御率が高かったからです。でも、僕の場合は『6回3失点』を基準にしていたから、初回に2点取られてもいいや、という思いで投げていたので結果がよかっただけ。案の定、クローザーで結果を残すことはできなかったですね……」
◆白球を求める流転の日々
そして、6月にコロラド・ロッキーズ、7月にはミルウォーキー・ブルワーズに移籍する。
「このとき、僕の精神力がもっとしっかりしていれば、誰に何を言われてもブレずにいられたと思います。でも、そこでフラフラしてしまう自分がいた。その結果、投げ方までおかしくなってしまいました」
翌’02年は古巣のロイヤルズに復帰したものの、’00年の輝きを取り戻すことはできなかった。結局、この年限りでマックはアメリカ生活に終止符を打つ。その後は’02年オフのオリックス・ブルーウェーブへのドラフト入団から始まり、メキシコ、台湾、ドミニカと、白球を求める流転の日々を過ごすことになる。
「16歳でアメリカに渡って、野球でお金を稼いで生活してきたけど、普通に日本の学校を出て、NPBでプレーしてからメジャー入りしたほうが無駄もなくてずっといい。僕の場合はたまたま運がよかったけど、この生き方は勧められない」
◆「メジャーリーガーにしか見られない景色がある」
もちろん、自分の選択に後悔はない。マックは言う。
「NPBを経験せずに初めてメジャーリーガーとなったこと。日本人で初めてアメリカンリーグで投げたこと。野球が続く限り、この『初めて』はずっと記録に残ります。引退後に結婚して、息子が生まれてから、それは誇りに思っています」
雑用係だった16歳から始まり、異国の地で孤軍奮闘して摑んだ16勝。その輝きは今なお決して色あせない。
「メジャーリーガーにしか見られない景色がある。それは本当にいい光景でした」
もうすぐ50代を迎えるマックは清々しい表情で言った。
【マック鈴木】
1975年、兵庫県生まれ。1992年に渡米、1Aサリナスで球団職員。1993年9月、マリナーズと契約。1996年、メジャー初登板。1999年、ロイヤルズ、’01年途中、ロッキーズ→ブルワーズ→ロイヤルズ。
’02年、オリックスにドラフトで入団
撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社
【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
―[サムライの言球]―