日本の法制史を揺るがす“世紀の裁判”は、人口約70万人の都市、静岡市で開かれていた。
その裁判とは、1966年6月に静岡県清水市(現:静岡市清水区)で発生した、味噌製造会社の専務一家4人が殺害されて現金が奪われた上に、一家宅が放火されたという強盗殺人・放火事件。犯人とされたのは、袴田巖さん(88)。俗に言う「袴田事件」だ。
袴田さんに対しては、1980年に最高裁で「死刑判決」が確定。その後、2回の再審請求を経て、2014年3月に静岡地裁が再審開始と拘置の執行停止を決定し、袴田さんは48年ぶりに釈放されている。
9月26日、再審やり直しの裁判の判決が静岡地裁(國井恒志裁判長)で開かれた。裁判所前は午後の開廷を前に、朝から“お祭り騒ぎ”。本記事ではその様子をレポートする。
◆厚く重い“再審の扉”を開いた「袴田事件」
事件は、さかのぼること58年前の1966年6月30日のこと。深夜2時すぎに、静岡県清水市(現:静岡市清水区)の味噌製造会社の専務の自宅が全焼する火災が発生。焼け跡からは、専務(41)のほか、妻(39)、次女(17)、長男(14)の4人が刃物でめった刺しにされた遺体が発見された。さらに、事件日が味噌製造会社の給料支給日であったことから、現場となった専務宅には大金が置かれており、その一部が盗まれていた。
警察は当初から、従業員で元プロボクサーの袴田さんを犯人であると決めつけた上で捜査を展開し、同年8月18日に袴田さんを逮捕。袴田さんは、当初は否認していたが、警察での1日平均12時間以上の取り調べ・自白強要により、逮捕から19日後の9月6日に自白。静岡地検に強盗殺人と放火の罪で起訴された。
警察では猛暑の中、取調室に監禁され、便器を取調室に持ち込んでトイレにも行かせない状態で、自白に追い込んでいたという。
「お前は殺人犯だな。その罪は深いぞ、深い。自分が犯した殺人という罪。これに対して、本当に心から謝る、本当の心から謝罪するんだ」(取り調べ録音テープから)
その後、1966年11月から静岡地裁で開かれた裁判では、自白から一転して全面的に起訴内容を否認。1968年9月、同裁判所(石見勝四裁判長)は袴田さんに対して、死刑判決を言い渡した。その後も、無罪を訴えて控訴・上告するも死刑判決が確定。
もっとも、「袴田事件が冤罪ではないか」という疑問を強めた出来事が、第一審が審理されている最中に発生した。当初、犯行着衣とされていたパジャマが、公判の中で警察が行った鑑定に疑惑が生じ、実際に血痕が付着していたかも疑わしいことが明らかとなり、検察側が不利になりつつあった。
そんな中、事件から1年2か月も経過した後に、なぜか工場の味噌タンクの中から新たな犯行着衣とされる「5点の衣類」が発見され、検察側はあっさりと犯行着衣を変更。のちに「5点の衣類」に付着していた血痕の色などから捜査機関の捏造の可能性が高いとして、2014年の再審開始の決定打ともなり、厚く重い「再審の扉」を開くことになった。
◆傍聴の倍率は12.6倍に!
裁判当日の9月26日。この日の静岡市の天候は、薄曇り。気象庁によると、今年の夏は1898年に統計を取り始めてから最も暑い夏というだけに、9月下旬にもかかわらず汗ばんでしまう。
午前9時過ぎ、筆者が到着した時点で、既に裁判所前は“お祭り騒ぎ”と化していた。上空にも傍聴希望者の行列を空撮しようとヘリが何機も飛んでいる。
この裁判では、事前に多数の傍聴希望者が予想されていたことから、抽選式の「傍聴券」が交付されることに。裁判の開廷は午後2時だが、裁判所側は多数の傍聴希望者で列ができることを予想し、著名人の裁判と同様に、午前中に傍聴券を交付する形となった。
午前9時20分ころ、予定開始時刻よりも前倒しで、整理券の交付が開始された。この整理券の番号をもとに、抽選して傍聴券が交付される。全国各地から“世紀の瞬間”を目撃しようと集まった人で、整理券交付の締切の午前10時まで列が途切れることがなかった。
この日の一般傍聴席の数は40席。それでも、これまでの全15回の審理で使用された202号法廷よりも一回り大きな法廷が使用されている。裁判所によると、最終的に希望者数は502名、倍率はなんと12.6倍となった。
◆東京から普通列車に乗ってやってきた中学生も
実は、「袴田事件」には2014年の再審決定後も検察側の即時抗告審で再審が一度退けられるなど、紆余曲折があった。そして、今日の再審の判決を向かえられただけに、支援者らの喜びはひとしおだ。
傍聴希望者は、平日ということもあって全体的に年齢層が高めだったが、大学生などの若者の姿もちらほらと。
そのなかでも、特に異色だったのが、都内に住む中学1年生の少年の姿。この日は、中学校が休校だったといい、朝4時に起きて自宅のある東京から普通電車に乗って来たとのこと。
少年によると、袴田事件に対して並々ならぬ想いがあるようで、他の事件と一線を画すほどの興味深さだと語る。
「これまで過去3回、同じように普通電車に乗って静岡に袴田事件を傍聴しようと挑戦してきました。ただ、傍聴券に外れてばかりで一回も当たったことがありません……」(都内在住の中学1年生)
筆者も、くじ運が非常に悪い。袴田事件を傍聴すべく、6回も静岡へ足を運び、傍聴券を挑戦してきたが、1回しか傍聴できなかった。袴田事件は注目が高く、常に傍聴券が交付され、その倍率も3倍を超えているだけに外れ続けてしまった。
◆袴田さんが“無実の人”へと変わる瞬間
午後1時14分、袴田巖さんの姉で再審請求人の袴田ひで子さん(91)と弁護団が裁判所内に入る。
午後2時、定刻通り判決言渡しが始まった。國井裁判長の開廷宣言の後、すぐに判決の結論である「主文」が言い渡した。
「主文、被告人は無罪」
この一言の瞬間、袴田さんは確定死刑囚から一転、“無実の人”へと変わった。
判決言渡しから1分も経たないうちに、日本中のメディアに「袴田事件、再審無罪判決」の文字が躍った。傍聴券に外れてしまった支援者らは、この報道で初めて判決内容を知ることとなる。支援者の一人は、無罪を知った瞬間の様子を「鳥肌が立ちました。無罪というは確信していたのですが、なぜか驚いています。外では、支援者たちで万歳三唱をしました」と振り返った。
なかでも判決で注目を浴びたのが、捜査機関による「捏造」に踏み込んだこと。支援者らにとって、判決に「捏造」という文言すら出ないかも、と言われていただけに、捜査機関の違法性を指摘した今回の判決は悲願が叶ったのだ。
午後3時59分、判決の言渡しが終わり、閉廷した。
◆主文が「神々しく聞こえました」
午後4時12分、裁判所前で旗出しが行われた。旗出しする弁護人の横で、ひで子さんは大きな笑顔を見せていた。
午後5時30分ころ、静岡市民文化会館3階の大会議室で記者会見が始まった。ひで子さんは非常に疲れている様子だが、記者に判決の瞬間の気持ち問われて、「裁判長さんが『主文被告人は無罪』と言うのが神々しく聞こえました」と笑顔で振り返る。
一方で、「巖の状況が安定しないので、やたらに話すわけにはいきません。少し顔色をみて、今日か明日のうちに無罪になったよと言いたいと思っています」と、少し神妙な面持ちで語る場面もあった。
弟の“真の自由”のために闘った58年。今日の「無罪判決」を、検察側が不服であると主張して控訴すれば、“真の自由”の獲得までさらに時間がかかることとなる。長い闘いに、終止符は打たれるのだろうか。
取材・文/学生傍聴人
【学生傍聴人】
2002年生まれ、都内某私立大に在籍中の現役学生。趣味は御神輿を担ぐこと。高校生の頃から裁判傍聴にハマり、傍聴歴6年、傍聴総数900件以上。有名事件から万引き事件、民事裁判など幅広く傍聴する雑食系マニア。その他、裁判記録の閲覧や行政文書の開示請求も行っている。
その裁判とは、1966年6月に静岡県清水市(現:静岡市清水区)で発生した、味噌製造会社の専務一家4人が殺害されて現金が奪われた上に、一家宅が放火されたという強盗殺人・放火事件。犯人とされたのは、袴田巖さん(88)。俗に言う「袴田事件」だ。
袴田さんに対しては、1980年に最高裁で「死刑判決」が確定。その後、2回の再審請求を経て、2014年3月に静岡地裁が再審開始と拘置の執行停止を決定し、袴田さんは48年ぶりに釈放されている。
9月26日、再審やり直しの裁判の判決が静岡地裁(國井恒志裁判長)で開かれた。裁判所前は午後の開廷を前に、朝から“お祭り騒ぎ”。本記事ではその様子をレポートする。
◆厚く重い“再審の扉”を開いた「袴田事件」
事件は、さかのぼること58年前の1966年6月30日のこと。深夜2時すぎに、静岡県清水市(現:静岡市清水区)の味噌製造会社の専務の自宅が全焼する火災が発生。焼け跡からは、専務(41)のほか、妻(39)、次女(17)、長男(14)の4人が刃物でめった刺しにされた遺体が発見された。さらに、事件日が味噌製造会社の給料支給日であったことから、現場となった専務宅には大金が置かれており、その一部が盗まれていた。
警察は当初から、従業員で元プロボクサーの袴田さんを犯人であると決めつけた上で捜査を展開し、同年8月18日に袴田さんを逮捕。袴田さんは、当初は否認していたが、警察での1日平均12時間以上の取り調べ・自白強要により、逮捕から19日後の9月6日に自白。静岡地検に強盗殺人と放火の罪で起訴された。
警察では猛暑の中、取調室に監禁され、便器を取調室に持ち込んでトイレにも行かせない状態で、自白に追い込んでいたという。
「お前は殺人犯だな。その罪は深いぞ、深い。自分が犯した殺人という罪。これに対して、本当に心から謝る、本当の心から謝罪するんだ」(取り調べ録音テープから)
その後、1966年11月から静岡地裁で開かれた裁判では、自白から一転して全面的に起訴内容を否認。1968年9月、同裁判所(石見勝四裁判長)は袴田さんに対して、死刑判決を言い渡した。その後も、無罪を訴えて控訴・上告するも死刑判決が確定。
もっとも、「袴田事件が冤罪ではないか」という疑問を強めた出来事が、第一審が審理されている最中に発生した。当初、犯行着衣とされていたパジャマが、公判の中で警察が行った鑑定に疑惑が生じ、実際に血痕が付着していたかも疑わしいことが明らかとなり、検察側が不利になりつつあった。
そんな中、事件から1年2か月も経過した後に、なぜか工場の味噌タンクの中から新たな犯行着衣とされる「5点の衣類」が発見され、検察側はあっさりと犯行着衣を変更。のちに「5点の衣類」に付着していた血痕の色などから捜査機関の捏造の可能性が高いとして、2014年の再審開始の決定打ともなり、厚く重い「再審の扉」を開くことになった。
◆傍聴の倍率は12.6倍に!
裁判当日の9月26日。この日の静岡市の天候は、薄曇り。気象庁によると、今年の夏は1898年に統計を取り始めてから最も暑い夏というだけに、9月下旬にもかかわらず汗ばんでしまう。
午前9時過ぎ、筆者が到着した時点で、既に裁判所前は“お祭り騒ぎ”と化していた。上空にも傍聴希望者の行列を空撮しようとヘリが何機も飛んでいる。
この裁判では、事前に多数の傍聴希望者が予想されていたことから、抽選式の「傍聴券」が交付されることに。裁判の開廷は午後2時だが、裁判所側は多数の傍聴希望者で列ができることを予想し、著名人の裁判と同様に、午前中に傍聴券を交付する形となった。
午前9時20分ころ、予定開始時刻よりも前倒しで、整理券の交付が開始された。この整理券の番号をもとに、抽選して傍聴券が交付される。全国各地から“世紀の瞬間”を目撃しようと集まった人で、整理券交付の締切の午前10時まで列が途切れることがなかった。
この日の一般傍聴席の数は40席。それでも、これまでの全15回の審理で使用された202号法廷よりも一回り大きな法廷が使用されている。裁判所によると、最終的に希望者数は502名、倍率はなんと12.6倍となった。
◆東京から普通列車に乗ってやってきた中学生も
実は、「袴田事件」には2014年の再審決定後も検察側の即時抗告審で再審が一度退けられるなど、紆余曲折があった。そして、今日の再審の判決を向かえられただけに、支援者らの喜びはひとしおだ。
傍聴希望者は、平日ということもあって全体的に年齢層が高めだったが、大学生などの若者の姿もちらほらと。
そのなかでも、特に異色だったのが、都内に住む中学1年生の少年の姿。この日は、中学校が休校だったといい、朝4時に起きて自宅のある東京から普通電車に乗って来たとのこと。
少年によると、袴田事件に対して並々ならぬ想いがあるようで、他の事件と一線を画すほどの興味深さだと語る。
「これまで過去3回、同じように普通電車に乗って静岡に袴田事件を傍聴しようと挑戦してきました。ただ、傍聴券に外れてばかりで一回も当たったことがありません……」(都内在住の中学1年生)
筆者も、くじ運が非常に悪い。袴田事件を傍聴すべく、6回も静岡へ足を運び、傍聴券を挑戦してきたが、1回しか傍聴できなかった。袴田事件は注目が高く、常に傍聴券が交付され、その倍率も3倍を超えているだけに外れ続けてしまった。
◆袴田さんが“無実の人”へと変わる瞬間
午後1時14分、袴田巖さんの姉で再審請求人の袴田ひで子さん(91)と弁護団が裁判所内に入る。
午後2時、定刻通り判決言渡しが始まった。國井裁判長の開廷宣言の後、すぐに判決の結論である「主文」が言い渡した。
「主文、被告人は無罪」
この一言の瞬間、袴田さんは確定死刑囚から一転、“無実の人”へと変わった。
判決言渡しから1分も経たないうちに、日本中のメディアに「袴田事件、再審無罪判決」の文字が躍った。傍聴券に外れてしまった支援者らは、この報道で初めて判決内容を知ることとなる。支援者の一人は、無罪を知った瞬間の様子を「鳥肌が立ちました。無罪というは確信していたのですが、なぜか驚いています。外では、支援者たちで万歳三唱をしました」と振り返った。
なかでも判決で注目を浴びたのが、捜査機関による「捏造」に踏み込んだこと。支援者らにとって、判決に「捏造」という文言すら出ないかも、と言われていただけに、捜査機関の違法性を指摘した今回の判決は悲願が叶ったのだ。
午後3時59分、判決の言渡しが終わり、閉廷した。
◆主文が「神々しく聞こえました」
午後4時12分、裁判所前で旗出しが行われた。旗出しする弁護人の横で、ひで子さんは大きな笑顔を見せていた。
午後5時30分ころ、静岡市民文化会館3階の大会議室で記者会見が始まった。ひで子さんは非常に疲れている様子だが、記者に判決の瞬間の気持ち問われて、「裁判長さんが『主文被告人は無罪』と言うのが神々しく聞こえました」と笑顔で振り返る。
一方で、「巖の状況が安定しないので、やたらに話すわけにはいきません。少し顔色をみて、今日か明日のうちに無罪になったよと言いたいと思っています」と、少し神妙な面持ちで語る場面もあった。
弟の“真の自由”のために闘った58年。今日の「無罪判決」を、検察側が不服であると主張して控訴すれば、“真の自由”の獲得までさらに時間がかかることとなる。長い闘いに、終止符は打たれるのだろうか。
取材・文/学生傍聴人
【学生傍聴人】
2002年生まれ、都内某私立大に在籍中の現役学生。趣味は御神輿を担ぐこと。高校生の頃から裁判傍聴にハマり、傍聴歴6年、傍聴総数900件以上。有名事件から万引き事件、民事裁判など幅広く傍聴する雑食系マニア。その他、裁判記録の閲覧や行政文書の開示請求も行っている。