【宮崎祐樹連載 オリのゴリBsを知り過ぎた男(2)】僕が社会人・セガサミーでプレーしていた2年目、オリックスにドラフト指名されるシーズンでの出来事でした。練習に大学生が参加する機会があり、そこへ現在はDeNAベイスターズで大活躍中の日本文理大・宮崎敏郎がいたんです。
敏郎とは佐賀県唐津市の同郷。中学時代はボーイズリーグで僕が3年、彼が1年で後輩に当たります。参加選手リストに敏郎の名前もありましたから、グラウンドで再会した時は「おおお、久しぶりだね」と旧交を温めました。
その時に僕から1本の木製バットをプレゼントしました。社会人時代に僕が使っていたバットです。「これいいっすね」という感じで、そこから使ってくれていて。そのバットをプロでも使ってくれているんです。
もちろん、プロに入ってからマイナーチェンジを重ねたとは思います。それでも原形はあの練習参加時に受け継いでくれたバットの型です。つまり「宮崎モデル」のバットを宮崎が使っているということになりますね。ありがたいですね。宮崎敏郎選手については、これから先にもっとお話しさせてもらいます。
僕の話に戻ります。中学時代に体が急激に大きくなり、野球も勉強も真剣に打ち込み始め順調に成長を続けます。中学から高校進学に際しては高校野球の名門校からもスカウトしていただきました。
熊本の城北、九州学院、福岡の柳川、長崎日大だったと思います。ただ、当初は両親や姉の母校でもある唐津市内の進学校を目指していました。そうしたところ、隣町のボーイズリーグの指導者の方から「高校進学はどうするんだ」と質問されました。
自分の意思を伝えると「もったいない。その選択はやめた方がいい。長崎日大を紹介する」と野球の強豪校への進学を勧められました。その流れで長崎日大と柳川の練習試合を見学させてもらうことになりました。その試合は長崎日大が勝利しました。それで自分の心は将来、母校になる長崎日大に傾いていくことになります。もし柳川が勝っていたら、そちらに行っていたかもしれませんが。
ただ、頭の中で冷静に計算する自分もいました。福岡県は200校ほどの高校がある激戦区です。長崎は60校ほど。佐賀は40校ほどなんですが、県内からはスカウトがありませんでした。わざわざ甲子園出場の可能性が厳しい福岡ではなく「長崎だな」という考えはありました。
親類が長崎にいたというのも後押しになりました。そこからセレクションを受けて長崎日大が母校になりました。ただ、本当に監督が厳しすぎて大変でした。僕が入学した当時の監督は高校球界では有名な方です。的野和男監督で智弁和歌山の高嶋仁元監督としのぎを削った名将です。長崎では海星、長崎日大の両校で監督を務め、両校ともに甲子園に導いたレジェンドです。
今では絶対にダメなんですが、まだまだ愛ある体罰もあった時代です。長崎日大は進学校でもあるので、夏休み期間中に補講という形で授業がありました。当然、野球部も出席が義務なのですが、僕の顔が腫れ上がりすぎて授業に出なくていいなんてこともありました。それも今ではいい思い出ですね。