【あの時・竹原慎二奇跡の勝利】(4)「殺される夢ばかり見る」

スポーツ報知 / 2017年5月20日 13時0分

挑戦者・竹原との5度目の防衛戦に向け、王者カストロは精力的な練習を報道陣に見せつけた

 竹原の世界タイトル初挑戦は95年10月23日に東京・板橋区の沖ジムで発表された。12月19日に決まった世界戦まで2か月。百戦錬磨の王者カストロとの対戦に向け、会見で「10発殴られたら10発殴り返す」と威勢が良かった竹原だったが、内心は不安で仕方なかった。「広島の粗大ゴミ」と言われ、札付きのワルだった男だが、試合に近付くほど怖くなった。世界戦前には「交通事故にでも遭わないかな」と思うこともあった。

 トレーナーの福田洋二に打ち明けた。「先生、眠れません。寝るとカストロに倒されるか殺される夢ばかり見てしまうんです」。世界13度防衛の具志堅用高、渡嘉敷勝男、後に飯田覚士ら世界王者を育てた名伯楽は「なら寝るな。ただ、目だけは閉じていろ。休ませるんだ」。信頼する師の言葉に恐怖心が和らいだ。

 世界戦の約10日前に来日したカストロは沖ジムで調整した。練習量を落とし計量と当日に向けて仕上げる時期に6回、8回と精力的なスパーリングを見せつけた。視察したオーナーの沖徳一がのけぞる。「福田先生、大丈夫かい!?」。福田は強気に言った。「私らが慌ててどうするんですか!」。竹原には見させなかった。

 福田とは日本王座を獲得してからのコンビだった。世界戦までの約3年。師弟には恐怖を克服する試合前のルーチンがあった。バンデージを巻いた後、福田が控室から竹原以外の全員を出し「5分間、孤独にさせる」。目を閉じ、深く呼吸し、相手を倒すために積んできた練習の全てを思い出す。仕上げはこうだ。「負けたら死じゃ! 絶対、勝つんじゃ!」。一戦一戦が死闘だった。「ボクシングは生きるか死ぬかの究極の闘い。プロになってから一度もスポーツだと思ってリングに上がったことはなかった」と竹原。

 強く思ったのは、東洋太平洋王座の4度目の防衛戦の後だった。この頃から左目がかすむのを感じていた。車を駐車する際は左側面をこすることもあったという。迎えたカストロ戦で壮絶に打ち合い、あまりのダメージに入院を余儀なくされたが、「実は左目に異変が生じ、ほとんど見えなくなっていた」と竹原は明かす。

 治療のために初防衛戦時期を引き延ばし、世界奪取後の半年後、96年6月24日に横浜アリーナで行われることになる。「練習もままならなかったけど、だからといって癒えるまで試合を待ってもらえる状況でもない。本当にリングに上がるだけで精いっぱいだった」。最後の闘いを覚悟していた。(小河原 俊哉)=敬称略=

 ◆破格条件で対戦実現

 対戦交渉で王者側が、承諾条件としてつけたオプション(試合の興行権)は通常の倍となる「4個」だった。日本人の重量級での世界挑戦が、いかに高いハードルだったかが分かる。興行権は、前王者と新王者同士の直接再戦制が禁止された1970年代初頭から導入された制度で“王者が負けた場合の保険”。新王者側は買い取ることで開催地や挑戦者を自由に選べるようになるが、金銭で解決できなければ相手側が指示する防衛戦をオプションの数だけ消化しなければならない。竹原の場合は、4度目の防衛戦まで握られていた。

hochi

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