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「東京の学校に送り込め!」、盲学校の「中学受験」は「一大プロジェクト」…東京金・木村敬一が親元を離れるまで

読売新聞 / 2024年6月21日 10時0分

 2021年の東京パラリンピックで金メダルを獲得し、今夏のパリ大会にも出場予定の 全盲 ぜんもうのスイマー、木村敬一さん(33)。世界で戦うパラアスリートは、どんな幼少期を過ごしたのか。(読売中高生新聞編集室 高田結奈)

2歳で視力を失ったけれど

 「 先天性 せんてんせいの病気で、2歳のときに視力を失いました。住んでいた滋賀から福岡の病院まで通って、入院や手術を繰り返しましたが、視力が回復することはありませんでした。

 目が見えなくても、小さい頃から活発に動いていた方だと思います。三つ上の姉がいて、姉とその友だちが遊んでいるところに、よく仲間に入れてもらいました。自宅近くの神社を散策したり、どんぐりを拾ったり。神社の参道には小さな川のような水路があって、ある時、姉や友だちがそこを飛び越えていたのですが、僕は距離感がわからないので、そのまま水の中に落ちてしまいました。他にも、姉にはできるのに、僕はできないことがあると、いつもがっかりしていたことを覚えています。負けず嫌いなのかもしれません」

水泳を始めたのは、母の すす めがきっかけだった。

 「滋賀県立盲学校に通っていた頃、僕はわりと足が速くて、マラソン大会で 伴走 ばんそうしてくれた年配の先生は、ついてくるのがやっとだったそうです。それに、いつも動き回っていたので、ぶつかったり転んだりして、ケガが絶えませんでした。母はそんな僕に『安全にたくさん運動させてあげたい』と、小学4年のときにスイミングスクールに入れてくれました。『プールの中なら、ケガの心配もなく、全身運動ができる』と考えたみたいです。

 その翌年の2001年には、世界水泳が開かれました。ちょうど、イアン・ソープ選手の全盛期で、僕は彼の活躍にあこがれました。圧倒的な強さで、どんどん金メダルを取っていくんです。まさにヒーローでした。ドラマやアニメの主人公にハマるように、テレビにかじりついて中継を聞いてました。

 スイミングスクールでは、他の子どもたちと一緒に練習するときもあれば、コーチがマンツーマンで泳ぎ方を教えてくれるときもありました。できる練習が少しずつ増えていって、課題をこなしていくプロセスを楽しんでいたように思います」

きっと親は我慢していた

中学進学にあたっては、父の考えに従い、東京の特別支援学校を選んだ。

 「僕のように目の見えない子どもは、滋賀県内にそれほど多くないので、盲学校はどうしても小規模になってしまいます。父には『たくさんの生徒たちと関わりながら、学校生活を送ってほしい』という考えがあり、全国から生徒が集まる東京の筑波大学付属視覚特別支援学校を勧めてくれました。

 こうして中学受験に のぞむことになるわけですが、滋賀の盲学校の先生からすると、これが一大プロジェクト(笑)。『教え子を東京の学校に送り込むんだ!』という先生たちの熱量に比べて、肝心の僕は全然ピンと来てませんでした。当時、受験がどういうものなのか全く理解してなくて、『落ちたら怖い』とか『絶対受かりたい』とか、そういう感情もありませんでした。でも、運が良かったのか、あっさりと受かって、上京することが決まりました」

両親の教育方針が、ハンデを負った木村さんの世界を大きく広げてくれたという。

 「冷静に考えてみると、両親はすごいなと思います。盲学校の小学部のときも、入学と同時に 寄宿舎 きしゅくしゃ生活だったので、家族で一緒に暮らしていた期間は短いんです。そんなに小さいうちから、親元を離れて生活させるという決断は、なかなかできることではないと思います。本当は心配だろうし、もっと干渉したくなると思うんですけど、きっと我慢して、親なりに えていたのだと思います。今こうやって生活ができているのも、自立する力を育ててくれた両親のおかげです」

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