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100年前のパリ五輪で日本唯一のメダリスト…内藤克俊の数奇な生涯

読売新聞 / 2024年6月26日 11時0分

パリ五輪で内藤(左)と会田は名コンビだった=宮沢正幸さん所蔵

 パリ五輪まで、6月26日であと1か月。パリでの五輪開催は、1924年(大正13年)の第8回大会以来となる。そのちょうど100年前の前回パリ五輪で、日本唯一のメダルを獲得した人物をご存じだろうか。

 その人の名は内藤克俊(1895〜1969)。レスリング・フリー男子フェザー級(61キロ級)で銅メダルを獲得した。

 排日(日本人排斥)の機運が高まる時代にアメリカで学び、五輪出場も偶然の産物だった。内藤に直接会って取材したスポーツジャーナリスト・宮沢正幸さん(2月に94歳で死去)による評伝や、読売新聞記事を頼りに、内藤の数奇な生涯を振り返ってみよう。

単身で渡米

 内藤は1895年(明治28年)2月、広島市で生まれた。幼少期に陸軍将校だった父と母を相次いで失い、長姉夫妻の住む台湾・台北市へ。小学4年の時である。寂しがり屋の内藤に、姉は柔道を習わせる。

 中学に進んでからも柔道に精を出した。打ち込みすぎたためか腎臓を痛め、陸軍士官学校の受験は断念。2浪して健康を回復し、鹿児島県の官立鹿児島高等農林学校に進む。ここでも柔道を続け、卒業後の米国留学を考え始める。当時の米国は排日運動が盛んだったが、白人家庭に住み込み、働きながら学ぶことを紹介した校友会報に影響を受けたのだという。

 1919年(大正8年)、単身で渡米した内藤は、東部ニュージャージー州アトランティックシティーに落ち着いた。21年にはペンシルベニア州にあるスポーツ有名校のステートカレッジ(愛称「ペンステート」)の2年生に編入を果たした。排日の盛んな地だったが、熱心な姿勢に打たれた大学側が入学を認めたのだという。

 入学後、心身を鍛錬する機会としてレスリングと出合う。入部するや、たちまち頭角を現し、初年度から対校戦に出場。5年生ではついに主将に選ばれるまでになった。

「太平洋平和の架け橋に」

 当時の米国では、排日移民法案が審議されていた。親日派でそれに対抗する法案を作っていたペンシルベニア州選出のデービッド・アイケン・リード上院議員は、埴原正直駐米大使に信書を送った。そこにはこうあった。

 「カツトシ・ナイトーという日本人留学生は、東部諸州で知らぬ者がいないほど素晴らしい人物である。彼はレスリングのキャプテンとしても立派に貢献した。彼を今夏のパリ・オリンピックに日本代表として参加させることは、東部諸州のアメリカ人に好意をもって歓迎されるに違いない」

 埴原大使は驚き、感謝して本国の外相に報告した。さっそく、渡航費を日本政府が負担する形で、内藤のパリ五輪派遣が決まった。宮沢さんはこう書いている。

 「一人の若者が太平洋平和の架け橋に成り得る可能性を秘めていることが分かる」「一国の大使と同格以上の待遇を受けても批判されることがないようなスポーツ民間外交の先駆者が誕生するところであった」

「棄権したら申し訳が立たない」

 24年7月5日に開会式が行われたパリ五輪。内藤には、欧州へ柔道の指導に来ていた講道館五段・会田彦一が、練習相手兼マネジャーを買って出てくれた。減量に苦労しつつ、まずはグレコローマンの試合に臨んだ。6日、8日に連勝したものの、9日、10日に敗れ、2勝2敗。27人中の8位となった。

 続くフリー男子フェザー級(61キロ級)には12日に勝ち、13日は五輪スタイルに慣れた米オレゴン農科大生の強豪ロビン・リードを相手に粘ったが、惜しくも敗れた。

 順位決定には以下のルールがあった、と宮沢さんは書いている。

 「全勝者が一位で、彼に敗れた者同士で二位を争い、さらに二位入賞者に敗れた者同士が最後に三位決定戦を競う」

 3位決定戦に臨む権利が残されていた内藤だったが、満身 創痍 (そうい)だった。連日の試合で首と肩を痛めたうえ、大会前に左手人さし指を脱臼していたのだ。同行の医師グループは欠場を勧めたが、会田と相談した内藤は「この上は死力を尽くして健闘するより他になきことを誓う」と、悲壮な決意をした。

 さらにこんな背景もあった。13日には男子マラソンがあり、パリ在住の日本人が13か所に応援場所を用意して待っていた。ところが、金栗四三、三浦弥平、田代菊之助の各選手がいずれも途中棄権となり、邦人たちを憤激させていた。それを聞いていた内藤は「そのうえ自分が棄権してしまったら、国家及び邦人の応援に対して申し訳が立たない」と考えたようだ。

 フランス革命記念日に当たる翌14日が、レスリング最終日だった。内藤は2位決定戦で、ニュートンに逆転負けを喫した。最終戦は午後10時、スウェーデンのハンソンが相手だ。

 「克俊は前半五分、投げ技でハンソンを何度も転がし、後半は慎重に相手の出方をうかがっているうちにタイムアップ。明白な優勢勝ちである」

「日本唯一のメダリスト」は台湾、そしてブラジルへ

 9月3日付の読売新聞朝刊は、「帰朝したオリンピック 代表選手から 挨拶 (あいさつ)」という見出しで、このように報じている。

 「レスリングに (おい)ては内藤選手唯一人にて奮闘し船中の負傷に ()り左腕の自由を失ひしにも (かか)はらずよく第三位を占め得たり」

 日本唯一のメダリストは、国内各地で大変な歓迎を受けたようだ。大日本体育協会の岸清一会長とともに、各地で行われた帰朝報告会に出席した。

 内藤は同年秋、新高製糖へ入社するため台湾へ渡る。現地で知り合った坂上千代子と26年(大正15年)に結婚した。同社の経営再建に尽力した後、経営権が大日本製糖に移るタイミングで退職し、28年(昭和3年)にブラジルへ渡る。現地では、サンパウロからリオへ向かう鉄道沿いのスザノに土地を買い、果物や野菜などの農園を営んだ。

「日本軍快進撃」を冷静に見つめる

 41年(昭和16年)の日米開戦は、ブラジルに住む日本人にも影響を与えた。日本人学校が閉鎖されたほか、集会は禁じられ、3人以上で立ち話するだけでも逮捕されたという。

 内藤は日本と米国との戦争をどう受け止めていたのか。開戦直後、日本軍が快進撃を続けていた頃、ある日本人の問いに内藤はこう答えている。

 「日本に大和魂があるように、アメリカにもスポーツマン精神がある。国力も違う。もし日本が勝つとすれば、アメリカの内乱(人種問題による)しかない。日本は講和に持ち込めたらいい」

 米国で長く暮らした経験を基に、日本の国力を冷静に受け止め、早い時期から悲観的な結末を見通していたことがうかがえる。

 ブラジルの邦人社会は、45年(昭和20年)の終戦後も正確な情報の不足による混乱が続いた。在外公館が引き揚げてしまったうえ、ラジオや新聞などによる日本情報がなかったことが原因だった。内藤も「指導的な立場にある」との理由で治安維持警察に一時拘束された。

東京五輪にあわせ里帰り

 53年(昭和28年)、ブラジルに全伯柔道連盟有段者会が発足すると、内藤は推されて会長に就いた。還暦目前の内藤だったが、柔道衣を着て道場に立ち、各地で行われる大会に審判や指導に出向いた。

 64年(昭和39年)の東京五輪に、内藤夫妻は「オリンピック観光団」の一員として帰国を果たしている。10月5日付の読売新聞朝刊には「老メダリスト内藤さん 36年ぶり、里帰り」の見出しで記事が載っている。

 記事によれば、日本への旅は子どもたちが「オリンピック大会に出たこともある父だ。故国日本での東京大会は、きっと見たいにちがいない」と旅券を手配し、船の切符を用意したのだという。

 「ブラジルでも、ラジオでハイウエーや新幹線の話を聞いていたが、日本の意気込みはすごい。わたしが知っているパリ大会のときとは、段ちがいの盛り上がりです」と、五輪前夜の東京の印象を語った。

 ブラジルへ戻ってからは体力の衰えが目立つようになり、67年(昭和42年)には37年間を過ごしたスザノを離れ、サンパウロ市内の長男の近くに移った。講道館から七段を贈られた4か月後の69年(昭和44年)9月、波乱万丈の生涯を閉じた。享年74。

 宮沢さんは評伝で、「(内藤が)大事にされているのは日本だけではない」と書いている。レスリング部の主将を務めたペンシルベニア州立大学には95年(平成7年)5月、内藤を記念するブロンズレリーフが作られ、除幕式が行われている。

 いよいよ始まる100年後のパリ五輪。日本勢の活躍を、内藤はどこかで見守っているのではないだろうか。(デジタル編集部 室靖治)

主要参考資料
宮沢正幸「遥かなるペンステート――幻の銅メダリスト・内藤克俊の生涯」(別冊文芸春秋217号、1996年)
宮沢正幸「拓大レスリング部事始め」(「拓殖大学レスリング部80年と平成の記録」、拓殖大学レスリング部OB会、2022年)

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