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1988年の上海列車事故、難航した補償交渉の経緯を著書に

読売新聞 / 2024年6月26日 15時30分

自宅でパソコンに向かう岡村さん(2021年3月、東京都千代田区で)

 中国を修学旅行中の高知学芸高校(高知市)の生徒ら28人が犠牲になった上海列車事故で、上海鉄路局との補償交渉の顧問団長を務めた岡村勲弁護士(95)(高知県宿毛市出身)が執筆していた著書「上海列車事故補償交渉」が完成した。当時、日中間の経済格差は大きく、中国側が途中で交渉延期を通告してくるなど、難航した経緯を初めて明かしている。(古谷禎一)

 補償交渉は事故の約3か月後の1988年6月、東京で遺族の代表も出席して始まった。中国側交渉団長の孔令然・上海鉄路局副局長は3万1500元(約104万円)を提示。日本側要求額の生徒1人当たり5000万円と約50倍の開きがあった。

 岡村「中国は金がないから出せないのか、それとも国内対策か」

 孔「国内対策である。事故にあった鉄路局の職員には2500元(約8万2500円)しか出していないのに日本の少年に多額のお金を出したとあっては、国内の反発をかう」

 その後、日本側は2100万円、さらに1000万円まで譲歩。中国側も慰問金を加えて11万2000元(約400万円)としたが、溝は埋まらなかった。

 同年10月、岡村さんの東京の事務所に孔副局長から電話があった。「(北京の)鉄道部は日本側が同意しないのなら交渉を継続しても意味がないのではないかと言っている」。中国側からは交渉延期を求めるファクスも届いていた。

 「ここで中国が強硬に出ると今後の交渉はやりにくくなる。次回は団長交渉にして私が上海へ行ってもいい。とにかく交渉を継続しておく必要がある」。岡村さんの訴えに孔副局長は「北京に連絡して返事をする」と応じたものの、交渉は越年した。

 89年2月、東京での交渉で孔副局長から新たな提示があった。「死者について50万円値上げし、450万円出すことにした。これが精いっぱいだ」

 遺族の「一周忌までには解決したい」との希望もあり、岡村さんは遺族会に提案。その結果、交渉は決着することになったが、遺族には「苦渋の決断」だった。

 同年3月、遺族らが出席して高知市内で交渉の調印式があり、岡村さんは「どこの国の法律で裁くかという難しい問題は棚上げにした。子を亡くした親の気持ちは万国共通だから、その立場で議論をしようと提案し、中国側も同意してくれた」と述べた。

 1年近くの交渉で、中国側の窓口は上海鉄路局でも、実質は北京政府が相手。それに一人立ち向かった岡村さんは「国境を超えた前例のない、難しい交渉だった。最後は孔副局長との信頼関係が妥結に至った」と振り返る。

 著書は交渉の記録を基にパソコンに向かって書き続け、自費出版した。「私の60年以上の弁護士生活で最も印象に残っている。孔副局長をはじめ関係者の多くは亡くなった。両国間の記録として残しておかないといけない」と話している。

◆上海列車事故=1988年3月24日、修学旅行中の高知学芸高1年生が乗った列車が上海市郊外で別の列車と正面衝突。生徒27人と教諭1人が死亡した。上海鉄路局は事故原因を運転士の信号無視と断定した。

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